ぼんやりとしていた思考が鮮明になってくる。
額に手を当てて何かを唱えているファリアの力――魔法によるものなのだろう。
「眠らせる他に、身体を痺れさせる効果も含んだ煙だったようです。すみません、私がもう少し早くに気づいていれば……」
一通りの治療が終わったのだろう。ファリアは額に当てていた手を離し、ユウヤに頭を下げる。
「いや、こんな事を予想しろというのが無理だよ。ありがとう、ファリア」
身体が問題なく動くことを確認し、ユウヤはベッドから立ち上がり、礼の言葉を言う。
「いいえ。どうか、その言葉はリナに掛けてあげて下さい。事態に気づいた際に、リナが私に<浄化>の魔法をかけてくれなければ、侵入者を追い払うことも、ユウヤ様を助けることもままなりませんでした」
ファリアは顔を俯けて、拳を握りしめる。
「ファリア……。あの、今の侵入者のことで話があるんだ……」
「はい。ユウヤ様。すぐにリナも起こします。ですが、まだ家の中に煙が充満しています。換気を行いますので、どうかユウヤ様はここで待機していて下さい。
この部屋を簡易ですが特殊な魔法で囲いました。先程の侵入者が戻って来てもすぐに対処しますのでご安心下さい」
ファリアはユウヤに一礼をし、毅然とした声でそう告げて部屋を出ていった。
ユウヤはファリアの魔法で破壊された窓と壁を一瞥し、そして明るく輝く月をみて息をついた。
シノが自分を殺そうとした。その事柄が現実だったことをはっきりと理解できてしまう。
いつかはこんな事になるのではないかと思っていた。
けれど、それが現実になってしまった衝撃は、ユウヤにとって小さなものではなかった。
シノを恨む気持ちなどはユウヤにはない。
むしろ、生き残ってしまって、殺されずに済んでしまって申し訳なくさえ思う。
「……また死ねなかったのか、僕は……」
ただ一つ、シノに会いたいという願いが叶ったのだ。
もう、死んでもいいと思っていたのに。
いや、あのまま殺されたいと、心の何処かで思っていたのに。
ユウヤはただ生気のない目でぼんやりと月を眺める。
「ああっ、なんで僕は生きているんだろうか……」
まるで他人事のようにユウヤは呟いた。
いつものテーブルのいつもの席。つい何時間前かは三人で仲良く食事をしていた所。
けれど、今はそんな和やかな空気はない。
「どうして……。どうしてですか!」
ファリアが怒るのも当たり前だと思う。
しかし、ユウヤは気持ちを変えるつもりはなかった。
「ユウヤさん、理由を仰ってください」
リナも納得がいかないのだろう。説明を求めてくる。
ファリアとリナは、今回の襲撃について然るべき所――街の自警団に相談しようと提案して来たのだが、ユウヤはそれを拒否したのだ。
「さっき、部屋に忍び込んで来たのは僕の知り合いで、僕の命を救ってくれた恩人なんだ。それだけじゃなくて、他にもたくさん良くしてくれた人でね。……だから、あの人に、シノさんに迷惑をかけたくないんだ」
「忍び込んだだけではないはずです。私は、そのシノという方が大声で喚き散らしているのも聞いています。そして、明らかに殺気を身に纏っていたことも知っています。ですから私は魔法を使ってその人を攻撃したのです。
どうして、命を奪おうとしてきた人を庇おうとするのですか!」
「結果として、僕はかすり傷一つ負ってはいないよ。僕のつまらない話を聞いただけで、シノさんは何もしなかったんだ。だから事を荒立てなくても……」
ユウヤのその言葉ではファリアとリナは納得しない。
「それでは説明になっていません! シノという方とユウヤ様がどのような関係だったのか、そして何を話したのかをきちんと説明してください!」
ファリアは怒っていた。その瞳から涙が溢れるほどに。
「……私達には、教えられないことなのですか?」
そう続いたファリアの涙声に、自暴自棄気味になっていたユウヤの心が僅かに動いた。
ファリアとリナを妻にすると言った。
それが罪悪感からのものだったとしても、その約束は守らなければいけないと今更ながらに思い出した。
「いいや、そんなことはないよ。うん、話すよ。本当につまらない話だけどね」
ユウヤは観念して全てを話した。
シノに命を救ってもらったこと。彼女に心を惹かれ続けていたこと。そして、過去の自分が会社で苛められていたことと、その間に出会った女に裏切られたことを。
上手いとは言えないユウヤの話をファリアとリナはただ黙って聞いていた。
しかし、ユウヤが話し終えた直後に、リナが口を開いた。
「酷すぎます! どうしてそのような酷いことができるのでしょうか!」
初めて見るリナの憤慨する姿にユウヤは驚く。
だが、それも当然だと思い直した。
一途に思っている女性が居るにもかかわらずに、一時の欲望に負けて少女に手を出したのだ。
我ながら最低だと思う。
しかし、ユウヤの推測は的はずれなものだった。
「どうして、同じ職場の仲間にそのような酷いことをするのでしょう。どうして困っている人を助けようとはせずに苦しめようとするのでしょうか!
それに、そのシオリという方のことは特に許せません! 人の弱みに付け込んで金品をだまし取ろうとするなんて、絶対に許されることではありません!」
「……えっ?」
たしかにリナは憤慨している。
けれどその憤慨する対象はユウヤではなかった。
彼女が怒っているのは、ユウヤを苦しめた会社の人間とシオリという女。
ユウヤ自身のことは含まれていない。
「リナ、どうして僕を責めないんだい? 僕は好きな人が居るのに、君たちを……」
ユウヤの問に、リナは困ったような笑みを浮かべる。
「私はユウヤさんの事が好きです。大好きです。それに、ユウヤさんは私達にとても優しくして下さっています。きちんと責任を取りたいとも仰って、妻にしてくれました。
ユウヤさんにとても大事な女性がいたことにショックを受けなかったと言えば嘘になりますが、私達のことも大切にしてくださっていることは分かっていますから」
リナの優しい言葉にユウヤの胸が痛む。
こんなに優しくて思いやりのある少女の心を傷つけてしまったのだと、そして彼女に甘えてばかりだという事実に気づいて、ユウヤは我が身を恥じる。
「……ありがとう、リナ……」
感謝の言葉に、リナは満面の笑みを浮かべてくれた。
ユウヤはこの娘を大切にしようとした決意を思い出した。
自暴自棄になっている場合ではない。
大切にしないと。何よりも。
そうしなければ罰が当たる。
「…………」
リナと自分のやり取りにも全く反応を示さずに、ただ顔を俯けさせたまま動かないファリアにユウヤは視線を移す。
リナが許してくれたからと言ってまだ話は終わっていない。
自分にはもうひとりの妻が居るのだから。
「ファリア。ごめん、僕は君のことを傷つ……」
「……ユウヤ様」
言葉を遮り、ファリアはユウヤの名を口にした。
そう、ただユウヤの名を呼んだだけ。
しかしそれを聞いたユウヤとリナは震え上がった。
ファリアはゆっくりと顔を上げる。
その顔からは表情と言うものが完全に消えている。
なまじ美しい顔立ちであるために、その異質さと圧力は、彼女の身体から溢れんばかりの怒気と相まって、見るものを全て畏怖させる迫力があった。
「……ユウヤ様。そのトシキとシオリという方はこの街に住んでいるのですか?」
普段とはまるで違う感情のこもらない低い声でファリアは尋ねてくる。
「あっ、あの、ファリアさん、落ち着いて下さい。そっ、その、怒る気持ちは分かりますが」
体を震わせながら、リナがファリアに声を掛ける。
「……怒っている? 私が? ……ああっ、そうですか、私は怒っているのですね。こんな激しい感情を持ったことなどなかったものですから、この気持ちが何なのか分かりませんでした」
ファリアは他人事のように言う。
顔は眉一つ動かさない無表情なままだ。
「それで、ユウヤ様。その二人の方の家を教えて下さい。悪人は罰されなければなりません」
「ふぁっ、ファリア。まっ、待って。とりあえず落ち着いて」
「大丈夫です。私は冷静ですよ。ただ淡々と目的を遂行します」
その言葉が発せられるのと同時に、ファリアの長い髪の一部が何かの力で動くのが見えた。
『怒髪天を衝く』という言葉があるが、あれは本当のことだったのだとユウヤは現状から逃避しようとする思考で理解してしまった。
「いっ、いや、ファリア。君は神様に仕えるシスターだよね。物騒なことを考えては……」
「はい。私はフォルシア様の信徒です。そして、フォルシア様は創造と平和を司っています。ですが、平和とはときに勝ち取らねばいけないもの。そうルピア司教様から教わりました。
他人の平穏を乱し、害為す存在を誅することも時には必要なのです」
相変わらず無表情で言うファリアに、ユウヤは慌てて席を立って彼女を抱きしめる。
「駄目だ、ファリア。物騒なことは考えないで。それに、シオリ達はこの街には居ない。ずっとずっと遠くの国に居るんだ。だから、落ち着いて……」
「……居ないのですか? そうですか……」
そう呟くファリアに、ユウヤは一層強く彼女を抱きしめる。
「ごめんね、君に不快な思いをさせて。そして、ありがとう。僕のために、こんな僕なんかのためにそんなに怒ってくれて……」
ユウヤの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あっ、あの……」
同じ様に席を立ち、心配そうにこちらを見つめてくるリナに気づき、ユウヤは片方の手を開いてリナのことも一緒に抱きしめる。
ユウヤに抱きしめられて、ファリアの顔にも表情が戻った。
「ユウヤ様……」
「ユウヤさん……」
二人の妻のぬくもりを感じながら、ユウヤは「ありがとう」と感謝の言葉を繰り返す。
今まで誰にも言えなかった、分かってもらえるとは思えなかった傷を理解してくれた。
そして、怒ってくれた。
このユウヤという情けない男のために。
「今度こそ、君たちを何より大事にするから。僕は、僕は……。ありがとう、本当に……」
支離滅裂な言葉を口にしていた。
けれど、ユウヤの気持ちはしっかりとファリアとリナには伝わっていた。
ファリアとリナは、涙を流すユウヤを優しく見守り続ける。
心の中に溜まった苦々しく痛い気持ちを洗い流すために、この涙は必要なのだと二人は理解をしてくれていたのだ。
その夜、泣きつかれたユウヤは、件の大きなベッドで二人の妻に抱きしめられながら眠った。
心の傷を曝け出した痛みは大きかった。
けれど、そうすることで、ユウヤは心からの安らぎを得ることができたのだった。