ファリアが静かにドアを開けて寝室を出ると、小気味のいいリズムの包丁の音が聞こえてくる。
「ごめんなさい、リナ。昨晩はすみせんでした。すぐに私も手伝います」
昨日の晩は、愛するユウヤにたっぷり可愛がってもらったファリアは、心から安らぎを得ることができた。
だが、そのことであまりにも油断しすぎたのだろう。
今朝は少しだが寝過ごしてしまった。
「おはようございます、ファリアさん。大丈夫です。朝食の用意はバッチリですから」
朝の挨拶とともに得意げな笑顔を向けてくるリナに、ファリアは笑顔で挨拶を返したが、すぐにその顔色が曇る。
「……ごめんなさい、リナ。私は貴女に甘えてばかりいます」
「えっ? そっ、そんな事ありません。私のほうが迷惑をかけてばかりで」
重い空気になりそうな雰囲気に、リナは満面の笑みをファリアに向ける。
「ファリアさん、お風呂の用意もできていますので、まずはそちらに。先程も言いましたが、朝食の準備は何の心配もいりません。私の一番大好きな得意料理を作りましたので楽しみにしていて下さいね」
冗談めいて胸を張る仕草をして微笑むリナに、ファリアは申し訳ない気持ちを飲み込んで笑顔を返す。
これ以上謝ってもリナを返って困らせるだけだということに気づいたからだ。
「はい。では、お風呂を頂いてきます。あとはお願いします、リナ」
「はい! お任せ下さい!」
リナは笑顔で元気な返事を返してきた。
ファリアはユウヤに、今晩はしっかりとリナを愛してくれるように頼もうと決意する。
そして、今度は自分がこうやって思いやりのある対応をしようと心に誓った。
しかし、リナは笑顔だったため、ファリアは気づけなかった。
この少女が自分たちの知らない間に、一つの大きな問題に直面してしまったことに。
◇
朝風呂を楽しみ、居間に戻ってきたユウヤは、鼻孔をくすぐるいい香りに思わず頬がゆるむ。
「すごくいい香りがするね」
そう言ってエプロン姿のリナに笑みを向けると、彼女は「はい。自信作です」と言って可愛らしく微笑む。
結婚を誓い、リナ達と同棲して嬉しいことはいろいろある。
だが、ユウヤは特にこの、毎日の温かで美味しい食事が何よりも喜ばしい。
愛しい妻達と食べる楽しいこのひとときにとても幸せを感じるのだ。
「こっ、これって……」
テーブルに配膳された皿を見て、ユウヤは驚いた。
品数は二品といつもよりずいぶんと少ない。
そのうち一つはサラダ。
とても美味しそうだが、どうしても注目はもう一品の大皿に行く。
底の浅い皿に半分ほどもられた米飯に、とろみの付いたソースが掛かっている。一瞬カレーを連想したが、香りが違う。
だが、この郷愁を誘うような匂いは何故か懐かしい。
「リナの一番好きな得意料理だそうです。きっと、ユウヤ様にも喜んで頂けると思います」
人数分のコップに牛乳を注ぎ、ユウヤに倣ってファリアが席に着く。
そして、エプロンを外してリナが席に着くと、ファリアとリナの二人は祈りの言葉を口にし始める。
いつもと変わらない食事の前のその時間が少しだけもどかしいと思ってしまうほど、ユウヤは目の前の料理に心を奪われていた。
「ふふっ、ユウヤ様。それでは、頂きましょう」
「はい。そんなに楽しみにしていただけて嬉しいです」
きっともどかしさが顔に出ていたのだろう。祈りを終えた妻たちに笑われてしまった。
「ああっ、ごめん。待ち遠しくてね」
ユウヤは恥ずかしそうに頬を掻いて苦笑するしかなかった。
「それでは、いただきます」
ユウヤがその言葉を口にすると、妻たちも同じ様に「いただきます」と口にする。
ユウヤは待ち望んだ料理にさじを伸ばし、ソースが掛かった米飯を口に運ぶ。
自分の考えが間違っていなければ、これは……。
「……ああっ……。美味しい。すごく美味しいよ」
ユウヤの口から、思わず感嘆の声が漏れた。
微妙に違う気がするが、この味わいはハヤシライスに近い。
トマトの酸味と炒めた玉ねぎのコクのある味わいに牛肉の旨味を感じ、そして米の甘さがそこに加わって、素晴らしい味の調律が口いっぱいに広がる。
「なるほど。ユウヤ様が喜ばれるのも納得です。リナ、これは素晴らしい味わいですね。ここまで美味しいミロトンはなかなか作れるものではありませんね」
続いてファリアもリナの料理を絶賛する。
ユウヤ達の賛辞の言葉を聞き、リナは嬉しそうに微笑む。
「ミロトンというのが、この料理の名前なんだね。僕の居た国にも似た味の料理があるけれど、それよりも美味しいよ」
名前は違っても、元の世界の懐かしい味に再び巡り会えただけで嬉しくて仕方がない。
しかもそれがこの上なく美味しいのならなおさらだ。
「ふふっ、よかったです。お二人に喜んでいただけて」
リナもそう言って食事を開始する。
「うん、これは止まらないな」
「ふふっ。慌てなくても大丈夫ですよ、ユウヤ様。リナがミロトンもライスも多めに用意してくれていますから」
「はい。朝食はしっかり食べて、お仕事の活力にしてください」
三人で他愛のない話をしながら、楽しい朝食の時間を過ごす。
そのうち、このひと時が当たり前になる毎日が来るのだろう。
けれど、この時間が掛け替えのない幸せなものなのだということは忘れないようにしなければと、ユウヤは自分を戒める。
「ありがとう、リナ。いつも美味しい食事だけど、今日は格別だよ」
「あっ、はい。喜んでいただけて嬉しいです」
恥ずかしそうに喜ぶリナがとても可愛くてしかたがない。
なんて自分は果報者なのだろう。
ユウヤはそう思いながら破顔する。
幸せだった。
こんなに自分などが、これほど幸せになっていいのかと不安に思えるほどに。
そしてユウヤは楽しい食事を終え、愛する妻に見送られて仕事に出かける。
「シノさんのことはあるけれど、とりあえず仕事を頑張ろう。この幸せを守るために」
ユウヤは仕事に向かう道のりで、そう心に誓った。
◇
「このお店で間違いないですよね?」
リナはまだ不慣れな道を歩いて、指定されたカフェにたどり着いた。
本当はまだ家の仕事があったのだが、ファリアに事情を説明してお願いしてきてしまった。
そのことをリナはとても申し訳なく思っている。
だが、今はそれ以上にこれから会う人物に事情を説明することが最優先だ。
「よかった。来てくれて……」
オープンカフェの席の一つから、リナが見知った少女が歩み寄ってきた。
今朝、思わぬ再開をすることになったその少女は、厚手のシャツとホットパンツといった、少女らしからぬ服装をしている。
その人物は、リナの恩人でもあるコリィだった。