「……んっ、朝なのか……」
窓から入ってくる優しい日差しと遠くから聞こえる鳥の囀りで、ユウヤは目を覚ますと、静かに起き上がって大きく身体を伸ばし、ベッドのそばに置いてある眼鏡を掛ける。
「……まだ、五時前か」
ねじ巻き式の目覚まし時計を手に取り、ユウヤは苦笑した。
昨日は九時過ぎには眠りについたので、こんな時間に目が覚めてしまったのだろう。
「以前とは大違いの健康的な生活だな、本当に」
テレビもパソコンもないこの家での娯楽と言えば、図書館から借りてきた本を読むことぐらいだ。
もっとも、それもランプの明かりだけでは目がひどく疲れるため、必然的に夜は早めに寝るしかない。
ユウヤがこの街で暮らすようになってから、もうそろそろ三ヶ月になる。知らず知らずのうちに規則正しい生活に身体が慣れきってしまったようだ。
「よし、起きよう……」
今日は休日。仕事は休みだ。しかし二度寝する気にはなれない。毎日の睡眠は充分すぎるほど取っている。
ユウヤはベッドから起き上がり、少しばかり準備をしてから庭に足を運ぶ。庭のポンプで水をくみ上げて顔を洗うためだ。
「ふぅ~。本当に水道の有り難味がわかるな……」
手押しポンプを動かして桶に溜めた水で顔を洗い、ついユウヤの口からそんな言葉が漏れた。だいぶ慣れはしたが、やはり蛇口ひとつ捻ると水が当たり前に使えた頃に比べるとついつい面倒だと思ってしまう。
もっとも、水の質は以前より各段に良いのは確かだが。
洗顔した後に剃刀で髭をそり、歯を磨き終えて水で喉を潤す。そしてユウヤはリビングに戻って椅子に腰を下ろした。
「……さて、何をしようか?」
座ってから開口一番にそう呟き、ユウヤは苦笑するしかなかった。
家の中を見渡しても特にやることは見つからない。寝室とリビング以外に部屋が三室もあるこの家に住んでいるのはユウヤ一人で、彼の最低限の生活必需品のほかには何もない。加えて言えばすることもない。
三週間ほど前に商店街のくじ引きで当たった、件の大きなベッドが今日の午後には届くらしいので、掃除も昨日したばかりだ。先週借りてきた本はあらかた読んでしまったし、こんな時間では当然まだどの店も開いていない。
「うん、散歩にでも行こう」
家にいるよりは建設的だろうと思い、ユウヤは寝巻き代わりの着物から飾り気のない上着とズボンに着替え、外出することにした。
「やっぱり、空気が美味しいなぁ」
のんびりと街外れの我が家から繁華街に向かって歩きながら、ユウヤは大きく深呼吸をする。普段も思っていることだが、早朝の空気は特に澄んでいるように思える。
「自動車の一台も走っていないんだし、当然といえば当然なんだろうけど」
この街で一番早い陸の交通手段はおそらく馬車だろう。思い返してみると、以前にここから少し離れた海で船を見たことがあるが、帆船か人力で動かす船しかなかった。もちろん、飛行機などあるはずもない。
「……異世界……なんだな、やっぱり……」
この三ヶ月近くで知り、そして理解したことを口にし、ユウヤは小さく嘆息する。
カリス。それがこの街の名前。しかし、ユウヤはそんな名前の街を知らない。図書館で地図を何冊も確認したが、地図にはユウヤが暮らしていた日本も、その他の国の記載もまったくなかった。
分かった事といえば、この地が、ユウヤの暮らしていた世界で最大の大陸であるユーラシア大陸の倍以上の大きさで、このカリスの街がそのもっとも東にある街である事くらいだ。
「……まったく、下手なSF小説でもあるまいし、何で僕はこの街にいるんだろう……。
それにしても、風習や貨幣なんかも違うのに、日本語が通じて、周りは若くて綺麗な女性だけ。ずいぶんと都合がいい世界だな……」
そうは言いながらも、ユウヤの顔に喜びはなかった。
もちろん、日本語が通じたのは本当にありがたい。そうでなければユウヤはシノ達と意思疎通ができなかった。そして、こんなに早くに働くことなどできなかっただろう。
だが、周りが若くて美しい女性しかいないという環境は、ユウヤにとっては少し苦痛だった。もともと人付き合いが苦手なユウヤは、異性相手にどう付き合っていけばいいのか分からないのだ。
仕事上のことであれば仕事と割り切ることができる。しかし、プライベートではどうすればいいのかわからない。もっとも、さすがに年の離れた子供相手ならば何とかなるが、ある程度年が近い仕事仲間の女性相手ではどうして良いのか対処に困る。
……仕事仲間の女性達も良い人ばかりだ。こんな僕なんかにも、休みにどこかに出かけようと声を掛けてくれる。それは嬉しい。本当に嬉しい。でも……。
「ふぅ~。朝からどうしてこうネガティブ思考なんだろうな、僕は」
そうため息をついたときだった。向こうから何かが猛スピードで近づいてくることにユウヤが気づいたのは。
「……はははっ、相変わらず元気が良いな、あの子は……」
ユウヤがそう苦笑している内に、猛スピードの主はユウヤの眼前まで到達していた。
「おはよう! ユウヤさん!」
あっという間にユウヤに駆け寄ってきたのは、大きなリュックを背負った、ホットパンツとTシャツといった格好をしたショートカットの可愛い少女だった。
「あっ、ああ……。おはよう、コリィ」
呆気にとられながら、ユウヤが挨拶を返すと、コリィと呼ばれた少女は満面の笑みを浮かべた。
このコリィという少女は、ユウヤの住んでいる地区の配達業務を担当している人間の一人だ。
街一番の俊足を自負するこの少女は、朝夕の新聞の他に、牛乳や郵便物の配達も行っている。
若いとはいえ、この少女のどこにそんな体力があるのか、ユウヤはいつも不思議に思う。
「ユウヤさん。もう完璧にあたしの名前を覚えてくれたみたいだね」
「うっ、うん。さすがに会うたびに自己紹介されていれば、いくら僕でも覚えるよ。猫好きで、読書も好きで、牛乳と肉料理、それと甘いものが大好きな十六歳の女の子だって事もね」
力なくそう答え、ユウヤは再び苦笑するしかなかった。
ユウヤが現在の住居に引っ越してきた際に、このコリィという少女はわざわざ家を訪ねてきて、「この地区の配達業務を担当しているので、よろしくお願いします」と丁寧な挨拶と自己紹介をしてくれたのだが、ユウヤは次に会ったときには彼女の名前を忘れてしまっていた。
そのことがコリィにばれてしまい、彼女は拗ねて、ユウヤに会うたびに自分の名前と年齢、住所、好きなもの、趣味等を言い続けていたのだ。
コリィはユウヤの言葉に、うんうん、と嬉しそうに頷いたかと思うと、
「それはそうと、ユウヤさん。今日はずいぶん早起きだよねぇ」
そう言って何故かニヤニヤとした笑みを浮かべる。
「いや、早くに目が覚めてしまったから散歩をしているだけなんだけど……。なんなのかな、その意味ありげな笑い方は?」
嫌な予感はしたが、ユウヤはコリィにそう尋ねる。
「ぬふふふふっ。待ち遠しくって眠っていられなかったのかなぁって。いよいよ今日だもんね。シノさんとの愛を育むベッドが届くのは」
「なっ、あっ、あのねぇ。冗談でも言って良い事と悪い事があってね……」
思いもかけないコリィの言葉に、ユウヤは顔を真っ赤にして文句を言う。
ユウヤが毎日シノの家に通っているのは多くの者が知っている。だからたまにそのことをからかわれる事があるが、今回は少したちが悪い。だが、ふとここでユウヤは一つの疑問が浮かんだ。
「……ねぇ、コリィ。どうして君はベッドが今日届くことを知っているんだい?」
ユウヤがそう疑問に思うのも無理はない。ユウヤは一週間ほど前にリスレ神殿というところから届いた手紙で、今日ベッドが届く予定であることを知っている。だが、そのことは誰にも教えていない。
シノにさえも届いてから話せば良いと思って話していないのだ。それなのにコリィがそのことを知っているのは明らかにおかしい。
「あっ、ユウヤさん。先に言っておくけど、あたしは人様の手紙を盗み見るような嫌らしいまねはしてないからね。
昨日、隣の国の配達業者さんから連絡があったの。今日の午後に、その配達業者さんが神殿のシスターに同行して直接ユウヤさんの家にベッドを届けたいから、詳しい住所を教えて欲しいって」
コリィの説明を受けて、ユウヤは「なるほど」と言って納得した。
「その、ごめん。少しだけコリィのことを疑ってしまった」
「あっ! それはひどいなぁ。あたしはこの仕事に誇りを持っているんだから。今度そんなふうに疑ったら、口をきいてあげないからね!」
口ではそう言いながらも、コリィはすぐに笑顔に戻り、さしてそのことを気にしているようには見えなかった。
「まぁ、というわけだから、午後からうちのスタッフ何人かとユウヤさんの家に行くので、よろしく!」
「えっ? 隣の国の配達業者が運んでくるんじゃ……」
ユウヤの指摘に、コリィは「ノン、ノン、ノン」と右手の人差し指を立てて横に振る。
「だから、あたしはもちろん、うちのスタッフも、みんなこの仕事に誇りを持っているんだってば。この街で他所の業者に配達なんてさせるわけがないでしょう。うちの社長がその配達業者に『うちに荷物を預けないのなら、あなたの会社経由の配達物は今後この街で受け入れできないようにするぞ!』って言ってやったわけ」
さも楽しそうに笑うコリィに、ユウヤは絶句するしかなかった。
「そ・れ・に、神殿のシスターって美人が多いらしいんだよね。ユウヤさんがシノさんに内緒で浮気しないように、あたしがしっかり監視しておかないとね」
コリィのその言葉に、ユウヤは小さく息を吐くと、
「あのねぇ、さっきも言おうとしたんだけど、言って良い事と悪い事があるよ。シノさんみたいな人と僕なんかじゃ釣り合わないよ。そういうことを言うとシノさんの迷惑になるから、やめて欲しいな……」
そう言った。ユウヤ自身が驚くほど、その言葉は気弱な者の発言とは思えないはっきりとしたものだった。
「……えっ、その、あの……」
思いもかけなかったユウヤの言葉に、先ほどとはうって変わってコリィは言葉に詰まった。
「……ごめん。軽い冗談なのに、何を言っているんだろうな、僕は……」
そんなコリィの姿に、ユウヤはふと我に返り彼女に謝る。
「あっ、いや。そんなこと。あたしも調子に乗って……」
ユウヤとコリィの間に気まずい空気が流れる。しかし、「そうだ、ちょっと待って」とその空気を払拭しようとしたのか、コリィは背負っている大きなリュックから瓶を一本取り出し、それをユウヤに手渡した。
「レンシアさんの牧場の牛乳だよ。配達用のものとは別だから安心して。レンシアさん、いつもあたし用に二本多くくれるから、一本お裾分け。朝ごはん、まだ食べてないよね? 牛乳だけでも飲んでおいたほうが良いよ」
「でも、これはコリィの……。いや、うん。ありがとう」
せっかくの厚意を断るわけにはいかない。ユウヤはコリィの気遣いに礼を言い、ありがたく牛乳を受け取った。
「へへへっ、どういたしまして。もしも気に入ったら、牛乳の配達も考えてみてね。あっ、飲み終わった瓶は……」
「うん。街のどこかの店で朝食を食べるつもりだから、コリィの会社に届けておけば良いかな?」
ユウヤの言葉に、コリィはさも嬉しそうに笑う。
「そうそう。分かっているなぁ~。ユウヤさんもすっかりこの街の人だね」
「……うん、ありがとう」
コリィのその言葉は、同じ街に住む仲間として受け入れてくれたようで、ユウヤにとってとても嬉しいものだった。
「おっと、いけない。ついつい長話しちゃった。まだ何件か回らないといけないから、ここでいったんお別れだよ。それじゃあ、また後でね、ユウヤさん」
コリィはそう言うと、ものすごい速度で走って行ってしまった。
「……本当に、どこをどうやったら、あれだけ荷物を抱えているのにあんなに速く走れるんだろう?」
感心と呆れが入り混じった感想をユウヤが口にし終えるか否かだった。再びコリィがユウヤの元に戻ってきたのは。
「ごめん、ユウヤさん。あたしとしたことが、肝心なこと忘れてた!」
「あっ、ああ……。その、なにを忘れていたのかな?」
すさまじい速度で戻ってきたのに、息ひとつ切らしていないコリィにユウヤが尋ねると、
「うん。言い忘れてた。ユウヤさんがなんて言おうと、あたしはやっぱりユウヤさんとシノさんはお似合いだって思うよ。それじゃあね!」
コリィは悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言うと、また常識離れした速さで走って行ってしまった。そして、その姿が完全に見えなくなるまでほとんど時間はかからなかった。
「……ははっ、ありがとう、コリィ」
ユウヤはそう感謝の言葉を口にしながらも、何故か小さく嘆息し、街に向かって足を進めた。