「ほらっ。奥の席の別嬪さんにサービスだ」
夫が一番の得意料理であるチキンアドボを皿に盛り付けて、私にそれを奥に持っていくように促す。
それを受け取った私は、竜さえも怯え上がらせる気迫で夫を睨みつけたが、夫は決して私と目を合わせずに、別の料理を作り始める。
うちは料理屋だ。作られた料理は食べごろのうちにお客様のもとに運ばなければいけない。私は湧き上がる怒りを堪え、笑顔を作って奥の席の黒髪の美人に夫の自慢料理を給餌する。
「あらっ? うちはもう料理は頼んでへんと思いましたけど?」
変わった喋り方をするその美人は、その服装もこの街の人間とは異なっている。けれど、その風変わりな服も、こんな美人が身につければ相乗効果で素晴らしく見えるものだ。
まったく、腹が立つ。うちの夫が鼻の下を伸ばしたくなるのも分かるほどの美女。
歳は私よりも少し上くらいだろう。けれど、後数年掛けて私が自分磨きをしても、こんなに綺麗になれるとは思えない。
神様というものはとことん不公平だ。
「いいえ。これは当店からのサービスです。ですが、面食いのうちの夫が、お客さんが美人だからと下心ありありで作った一品ですので、気持ちが悪ければ捨てますから遠慮なく仰って下さい」
私は決して笑顔を崩さずに、にこやかに接客をする。
「ふふっ。そな、なかなか食べにくい料理やな」
黒髪の美人はそう言って苦笑したが、
「せやけど、これまで頂いた料理はどれも絶品でした。そして、せっかく作ってくれはった料理を無下にする訳にはいきまへんから、ありがたく頂きます」
そう言って私に微笑みを向けてくる。
「……そうですか。では、ごゆっくりお召し上がり下さい」
眼前の美女が料理を食べることを拒否しなかったことが、少し寂しかった。でも、それは顔には決して出していなかったはずだ。けれど、
「そないに心配そうな顔をせんでも大丈夫です。うちには、もう大切な人がおりますんで」
黒髪の美女はそう言うと、左手の甲を静かに私に見せてくれた。
彼女の細くて長い指の一本。薬指に金色の指輪がはまっている。
「えっ、あっ。わっ、私は別に心配なんて……。あっ、はははっ。やっぱりお客さんみたいな綺麗な人が独り身な訳ありませんよね」
私は自分でも何を言っているのか分からないくらい狼狽しながらも、心のうちで安堵する。
これほど男性が少ない世の中なのだ。女性が既婚である確率はゼロに近い。本当にこの人が既婚者でよかったと思う。
「へへ~ん。ティウム。この美人さん、結婚しているんだって。残念だったわね!」
陰鬱な気持ちも吹っ飛んでしまった私は、心底残念そうな顔をしている夫を煽る。
「煩ぇよ。こんな別嬪さんを見る機会なんてめったに無いんだから、そのお礼でサービスしただけだよ、俺は」
「嘘ばっかり」
お客さんの前だと言うのに、私ははしゃいでしまった事に気づいて、慌てて頭を下げる。
「すみませんでした、お客さん。お見苦しいところをお見せしてしまいまして……」
「なにも、見苦しいところなんてありまへんよ。久しぶりに、胸の奥が温かくなる気持ちを思い出させてもらいました」
そう言って微笑む顔は、やはりものすごく綺麗だ。けれど、どこか寂しげに思える。
考えてみれば、既婚者のはずのこの女性がこんな年の暮れに一人で居るのだ。何か夫に会えない理由があるのだろう。
それから、その美人さんは夫の作ったチキンアドボをゆっくりと味わって食べていた。
そして、一息ついてから、静かに立ち上がって「お勘定を」と私に告げる。
「ホンマに美味しい料理でした。大満足です」
旅をしているからなのだろう。
女性は少し多めの荷物を持っていた。その美しい見た目にも関わらず、なかなか力持ちのようだ。
まぁ、きっと一人旅をしているのだろう。力も必要に迫られて自然について行ったに違いない。
「是非また来て下さい。今度は更に美味しいものをご馳走しますんで」
「ちょっと、いくらお客さんが少ないからって、厨房から出てこなくていいわよ」
私は鼻の下を伸ばす夫に文句を言う。
「いいだろう、別に。たまには美人でも見て目の保養をしないと、美的センスが損なわれちまうんだよ」
「ほほう、それは私に喧嘩を売っているってことでいいのよね?」
自分の容姿がこの黒髪の女性の足元にも及ばない事は理解しているが、腹が立つのは我慢できない。
「ふふふっ。ホンマに仲がええですな」
またみっともないところを見せてしまったというのに、この女性はやはり楽しそうに、そして寂しそうに微笑む。
「いつも喧嘩が絶えないんですよ。この人が無類の女好きなんで」
「男ってそういうものなんだよ。こんなに女だらけなのに、お前を選んでやったんだから感謝くらいしろよ。俺がその気になれば、五人でも十人でも愛人を作れるんだぜ」
「へぇ~。いざとなると縮み上がって、何もできないくせにそんな事言うんだ。度胸のない可愛そうな男と一緒になってあげた、私に感謝もせずに」
そんな軽口の応酬をしたところで、私と夫はお互いを見て苦笑しあう。
「ほらっ、ティウム。貴方も一緒に」
「分かっているよ」
そして、私達は笑顔でお客さんに頭を下げた。
「本日はご来店いただきありがとうございました。また近くに立ち寄られた際には、どうかよろしくお願いします」
「はい。また寄らせて頂きます」
お客さんはそう笑顔で言い、優雅に一礼をして店を出ていった。
それをしっかりお見送りして、私達は仕事に戻る。
まだ数名だがお客さんがいるのだ。しっかり接客しないといけない。
「おっ、そろそろ大時計の音が聞こえる頃だな」
「あらっ? もうそんな時間なんだ」
時計を確認した夫の言葉に驚きながらも、私はテーブルを片付けながらその時を待つ。
どの街でも行われる年越しの合図。中央にある大時計が年に一度の特別な音色を奏でる時。
「今年も終わりか。でも、良い一年だったわ」
夫と二人で切り盛りを始めた店も順調に軌道に乗ってくれた。来年は、もっと店を繁盛させたい。
それに、できれば家族が増えると嬉しい。
「来年もよろしくな、エリーナ」
「なによ、改まって。……よろしくね、ティウム」
私と夫は、もう十秒もない今年を振り返りながら来年に希望を膨らませる。
そして、時計の針が時計のてっぺんで全てが重なり合い、新年を告げる鐘の音が……。
◇
静寂だった。
つい数秒前には、新年を祝おうとその時を待ちわびる人々がいたにもかかわらず。
そう、この日は特別だと言わんばかりに、まだ多くの家の明かりが灯っていたはずなのに。
星明りに照らされる街は、その色を失い、ただ蒼一色に染まって活動を停止した。
『――しました。 ――該当者はおりません――。 これより――』
もう聞く者がいないにも関わらず、無機質で抑揚のない声が街に響き渡る。
いや、違う。
この街には、数少ない例外がいた。
幾度となく、この無意味な声――アナウンスを聞いている女が、今はこの街にいるのだ。
「……あんたの旦那はんは、五人も十人も愛人を作るような人やなかったみたいやな……」
つい数分前に別れた、感じの良い酒場の女を思い出して独りごちると、黒髪の美女は無人の街を歩いて、この街の大時計の前までやって来た。
「…………」
ただ暫くの間、美女は呆然と空を眺めていたが、やがて懐から金色の鍵を取り出し、それを大時計の前に掲げる。
すると自然に大時計が縦に二つに割れて、その開いた箇所から何かの装置のようなものが現れた。
「……そうか。エリーナはんという名前やったんか。大丈夫や。あんたの旦那はんは、ティウムはんは、あんた一筋やったようや」
出てきた装置を手慣れた動作で操り、女は微笑んで静かにそう呟く。
「……よかったな、ほんまに。これで、怖い鬼に追いかけられることもありまへん。地獄を見ずに済むんよ……」
女はそう言いながら涙を流していた。
けれどその涙は、先程出会った夫婦に対してのものではない。
それは、遠い街に残してきた、かけがえのない夫と家族に向けられたものだった。
「……大丈夫や。たかが一年や。うちが皆を守る。あの時間を再び過ごすためやったら、うちにはもう怖いものなんてないんやから……」
女は自分に懸命にそう言い聞かせ、作業に戻る。
可能な限りの情報を集めるために。
もう一度、あの優しい時間を取り戻すために……。