「ありがとう、ユウヤさん。本当に嬉しかったよ」
「あっ、ああ。気にしないで良いよ。ほんのお詫びだから……」
コリィに笑顔で礼を言われ、しかしユウヤは疲れきった表情で彼女の勤める会社から出てきた。
……少し考えれば分かることだった。
「ああ、ユウヤ殿。……まぁ、頑張ってくれ」
注文したパンをレミアが手渡してくれた際に、彼女がそう意味深長なことを言いながら少しだけ意地悪な笑みを浮かべていたことには気づいていたのだから。
コリィの職場は若い子が多く、彼女たちは年相応に恋愛話が大好きだと言う事は、コリィに聞いていたのだから。
そして何よりも、今日は彼女たちがベッドを家に配達してくる日だということは知っていたのだから。
そんな日に、今まで足を運んだことがない人間が運送会社にお土産を持って行ったらどうなるかは明らかだった。
「もう、ユウヤさん。こんなことしてくれなくても、ちゃんとベッドはお届けしますよ」
「そうそう、シノさんもきっと期待していると思うよ。はやくお嫁に貰っちゃいなよ」
「ぬふふふっ、シノさんは着やせするタイプだから、期待していいよぉ~」
ユウヤはなんとか誤解を解こうとはしたのだが、十人近くの少女たちは勝手に盛り上がり、ユウヤの言葉に耳を傾ける者はいなかった。
そして、半ば強制的にお茶を飲んで休んで行くことになり、シノとの関係について質問攻めを受ける事になってしまった。
「その、ごめんね、ユウヤさん。みんなこういう話題に飢えていたから……。あたしもまた調子に乗っちゃって……」
「ははっ、だから気にしなくて良いよ。持ってきたパンをみんなが美味しそうに食べてくれたのは嬉しかったしね」
ばつが悪そうに顔を俯けて謝るコリィが可愛らしくて、ポンポンとユウヤは彼女の頭に手をやった。
「あっ、ごめん。つい……」
自分が無意識に年頃の少女の身体に触れてしまったことに戸惑い、ユウヤは慌てて手を引っ込める。
「うん。ユウヤさんが持ってきてくれたパン、本当に美味しかったよ」
幸い、コリィは気にした様子はない――どころか、何故か嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ははっ、それはよかった。それじゃあ、またね」
「うん。午後にはみんなで配達にいくから、ちゃんと家にいてよね」
すっかり元気を取り戻したコリィに見送られ、ユウヤは困ったような笑みを浮かべてコリィの勤め先を後にした。
帰宅しても特にやることがないユウヤは、目的もなく街を歩く。
レンガ造りの家々が並ぶこの辺りは、景色がよく、ユウヤのお気に入りの散歩コースだ。
「まぁ、僕やシノさんの家のように、木造のほうが珍しいみたいだけど……」
休日の朝早くだというのに、通りを行きかう人々の数は多い。
「おはようございます、ユウヤさん」
「おはようございます。お散歩ですか?」
ユウヤに気づくとみんな挨拶をしてくれる。ユウヤも笑顔で挨拶を返すが、
「みんな、物怖じしないな……」
ユウヤは内心その反応を怪訝に思う。
女性ばかりの街に一人だけ男性が居るこの状況。なのに、みんなあまりにもすんなりユウヤを受け入れてくれた。
ユウヤがこの街に来てから少しは月日が経っている今なら、慣れたとも考えられるが、当初からこの街の人々はユウヤに友好的だった。
もちろん友好的なことは歓迎なのだが、普通はもう少し距離を取ろうとするのではないかと思う。
「この街の人はみんないい人ばかりだから……。なんて、そんな訳ないよな」
時が経ち、生活がある程度の軌道に乗ってくるにつれて、ユウヤはこのカリスの街の異質さ、異様さを感じずには居られなくなってしまった。
もっとも、そもそもこんな女性だらけの街などが存在していること自体が異常なのだが。
「……そうだよな。そんな訳ない……」
大人になると、猜疑心が強くなる。
子どもから大人になる過程で、否が応でも社会の、人間の負の部分を目の当たりにすることになるからだ。だが、この街の人からはそういったものを感じない。
もちろん、陰でどう思っているかは分からないが、ユウヤの知る限りではあまりにもこの街の人は潔癖で綺麗すぎる。
思い起こしてみると、なにかしらのトラブルの一つさえ見たことも聞いたこともない。多くの人々が暮らすこの街でそんなことがありえるはずがないのに。
「……止めよう。みんなとても親切で優しい人達で、僕がいつも助けてもらっているのは間違いないんだから……。この街のみんながあまりにもいい人ばかりだから、僕は戸惑っているんだ、きっと」
ユウヤはそう無理やり自分に言い聞かせる。胸の中に渦巻く違和感を押し殺して。
「あら、ユウヤはん。おはようございます。今日は随分早くから、どないしはりましたん?」
そんなことを考えながら歩いていると、意識をしたわけではないが、自然と足がシノの店に向かっていたらしい。ユウヤは店の前を掃除していたシノに声を掛けられた。
「あっ、おはようございます、シノさん。その、なんとなく早くに目が覚めてしまったんで、散歩を……」
ユウヤの言葉に、シノは「そうですか」と穏やかに微笑んだ。
その笑顔で、何だか気持ちが楽になった。この人の笑顔には特別な力があるのかと半ば本気でユウヤは思う。
「ユウヤはん。よかったらお茶を飲んでいってください。まだ開店まで時間がありますんで」
「あっ、はい。ありがとうございます」
シノの誘いを喜びこそすれ断る理由がないユウヤは、その言葉に甘えることにした。
「はい、どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
てっきり店のカウンターでだと思っていたが、シノはユウヤを店の奥まで招き入れ、茶の間でお茶を淹れてくれた。
「お茶ぐらいでそないに感謝されたら恥ずかしいです」
シノはそういいながらも嬉しそうに微笑む。
ユウヤはお茶を一口飲み、小さく息を吐いた。
「美味しいです。とても」
ユウヤの感想にシノは何も言わずに微笑むと、自分の分のお茶を淹れ、静かに口を開いた。
「それで、何を悩んではるんです、ユウヤはん?」
「……えっ?」
シノの言葉の意味が分からず、ユウヤは言葉に詰まる。
「うちの気のせいやったら申し訳ありまへんけど、うちにはユウヤはんが何か悩み事を抱えているように思えます。もちろん、周りが女の人ばかりで大変なのもあるんでしょうけど、それ以外にもなにかあるんやありまへんか?」
シノの指摘に、ユウヤは図星をつかれて動揺する。
「やっぱり、うちが思うたとおりのようです。ふふっ、ほんまにユウヤはんはすぐに顔に出るんで分かり易いです」
シノはそう言って苦笑する。
「でも、うちは嘘をつくのが下手な方がええと思いますよ。そないなもんが上手い事なんて何の自慢にもなりまへんから」
さらにそう続けて笑みを浮かべるシノ。「この人には敵わない」とユウヤは心のうちで呟き、嘆息する。
「まったく、僕は人に相談に乗って貰うばかりだな……」
そう思いながら、ユウヤは口を開いた。
「僕は、慣れていないんです。こんなに優しくされることに。だから、どうしたらいいのか分からないんです。みんなあまりにも優しくて、温かい人たちばかりで、こんな僕なんかにも良くしてくれて。でも、僕はその人たちに何も返すことができなくて……。それどころか、その優しさが不安になってしまって……」
この街で自分が今こうして何不自由なく暮らしていけるのは、みんなの優しさのおかげだとユウヤは理解しているつもりだ。
そして、そのことを心から感謝をしている。だが、感謝するばかりで自分は何も返せていない。それが歯がゆくて仕方がない。
だからこそ、みんなの優しさを素直に受け入れられないのかもしれない。
「……そうですか」
シノは優しく微笑み、言葉を続けた。
「きっとみんなは当たり前のことやと思って、ユウヤはんに良くしてくれているんやと思います。それは感謝しておくだけでええと思いますよ。
今すぐ何かしなくてはと無理はしないで、自分に余裕がある時でええですから、困っている人がいたら、今度はユウヤはんが力を貸してあげて下さい。……そうやって助け合って、この街の人たちは暮らしているんですから……」
そう微笑みながら言うシノ。だが、ユウヤには何故かその笑顔が少し悲しげに見えた。
「えっ、ええ。ありがとうございます。そうですね、しっかり感謝して、今度は自分が誰かの力になれるようにならないと……」
怪訝に思いながらも、気のせいだろうと思い、ユウヤは感謝の言葉を述べる。
「はい。忘れてはいけない大事なことです。良うしてくれはる人たちが当たり前のことと思っていても、してもらう方がそれを当たり前のことやなんて思ったらあきまへん。
せやけど、人はそういう大事なことをすぐに忘れてしまいます。それは、えらい不幸なことやとうちは思います。ユウヤはんは、今のその気持ちを忘れたらあきまへんよ……」
はい、と頷きそうになって、ユウヤはここでようやく自分の失敗に気づいた。
「あっ……。シノさん。すみません!」
ユウヤはシノに馬鹿なことを相談してしまったことに、深々と頭を下げた。
「ど、どないしはったんです、ユウヤはん?」
ユウヤが突然頭を下げたことに、シノは戸惑いの声を上げる。
「僕が一番感謝しなくちゃいけないシノさんに、こんな相談をしてしまって……」
「……えっ? あっ! ちっ、違います。うちに感謝して欲しいなんて思っていまへん。今のはあくまで一般論です」
ユウヤのその言葉に、シノは全てを理解し、慌ててそう言い弁解した。
「いや、でも……」
しかしそうは言われても、ユウヤは自分がどれだけシノの世話になっているのかを今更ながら思い出し、恥ずかしさのあまり頬を紅潮させる。汗顔の至りとはこのことだろう。
シノさんの話によると、自分は近くの川岸に流れ着いていたらしい。そこを偶然通りかかった彼女が見つけたそうだ。もしもシノさんが見つけなければ、この命は無くなっていただろう。
そして、シノさんは献身的に介抱してくれた。それに加えて、食事の世話はもちろん、一人で暮らすための家や衣類まで用意しくれたばかりか、その上仕事を紹介してくれて……。
今の住居に引っ越した際には、「何かと物入りでしょうから」とかなりの額のお金まで貰ってしまった。
本当に、いくら感謝しても感謝しきれない。なのにその人に、他のみんなに恩を返せなくて申し訳なく思っている事を相談してしまった。
真っ先に恩を返さなければならない人をないがしろにしていた。
「すみません、シノさん。でも、信じて下さい。今、僕がこうして元気でいられるのは、他の誰よりもシノさんのおかげです。僕はシノさんに心から感謝しています」
もう一度深々と頭を下げたユウヤに、シノは慌てに慌てた。
「あっ、あきまへん。殿方が簡単に頭を下げるなんて。……その、うちはおせっかいなだけなんです。ユウヤはんが気にせなあかんことなんてなんもありまへん。……もう、ええかげん頭を上げて下さい」
そう促され、ユウヤは顔を上げる。
すると、シノが叱られるのを待つ子どものような不安げな顔をしていた。
自分を手玉に取る普段の落ち着いたシノとのあまりの違いがなんだか微笑ましくて、ユウヤは口元を緩めた。
「むっ、ユウヤはん。今、うちの顔を見て笑いはりましたな? まさか、うちをからかっていたんやありまへんやろな?」
「あっ、いや、その……」
シノにジト目で見られ、ユウヤは言葉に詰まる。だが、しばらくすると、シノはクスクスと笑い出した。
「冗談です。ユウヤはんが人をからかったりできる人やないことは、うちが一番分かっとります。それに、いつもうちがユウヤはんにやっていることなんですから、そんなことで怒りはしまへんよ」
シノはそう言うと、コホンと小さく咳払いをして話を続けた。
「ユウヤはん。うちはほんまにおせっかいが好きなんです。もしもユウヤはんが、いややと言いはっても、うちは同じようにおせっかいをやかせてもらっていたと思います。せやから、ユウヤはんにうちがいろいろさせてもらいましたんは、うちの我侭です。
ユウヤはんの気持ちも関係なしにうちが勝手にやったことなんですから、そないな感謝をする必要なんてありまへんよ」
「でも……」
ユウヤは食い下がったが、シノは首を横に振った。
「もうこの話はここまでにしましょう。それよりも、ユウヤはん。明後日の用意は終わってはります?」
強引に話を切り替えられたが、シノがこれ以上この話題には触れて欲しくないことは明らかだった。そのため、ユウヤはシノに話を合わせることにする。
「ええ。前からシノさん達が言っている、特別な日ですね?」
ユウヤは先月早くから、シノや他のみんなに何度もその日のことを聞かされていた。
「はい。『約束の日』と呼ばれとる日です。今月から月に一度、その日だけは家から出てはいけない決まりです。食べ物の用意はもちろん、飲み水も瓶に入れておかなあきまへんよ」
「えっ、庭に出るのもだめなんですか?」
まさか庭にも出てはいけないとはユウヤも思っていなかった。
「そうです。その日は建物の中からは一歩も出てはいけない決まりなんです。きちんと守らなあきまへんよ。せやないと、鬼に食べられてしまうんです。注意して下さい」
「鬼? 鬼なんて本当に出るんですか?」
「もう、ユウヤはん。鬼がほんまにいるわけ……。あら? ユウヤはんは鬼を知ってはるんですか?」
そう問い返されて、ユウヤは頷く。
「あの、シノさんのいう鬼って、頭に角が生えていて、虎柄の腰巻をつけた……」
「はい。そのとおりです。……ユウヤはんのお国の話を聞かせてもらう度に思っていたんですが、ユウヤはんのお国とうちの故郷はほんまに似とります」
ユウヤのその言葉に、シノは嬉しそうに口元に手を当てて笑う。
「まぁ、なしてこの日に家を出てはいけないのか、その由来はうちも知りまへん。せやけどそれがこの街の昔からの風習なんです。少し不便やとは思いますが、ユウヤはんもしっかり守って下さい」
「ええ。分かりました」
不思議だとは思うが、自分がいた世界でもその国々で独自の風習はある。それほどおかしな話ではないだろう。
「あっ、それとユウヤはん、明後日の『約束の日』が終わったら、うちは一ヶ月ほど仕入れの関係で旅に出なあきまへん。その間は留守にしますんで……」
「えっ……。一ヶ月も……」
あまりにも突然なシノの言葉に、ユウヤは驚きを隠せなかった。
「そないに残念がってくれはって、ほんまに嬉しいです。せやけど、うちも店を構えとる以上、仕入れをせなあきまへんから堪忍しておくれやす。お土産も仰山買うてきますんで、ええ子にして待っていて下さい」
ユウヤがあまりにも寂しそうな顔をしていたため、シノは子どもに言い聞かせるように言い、困ったような笑みを浮かべる。
「あっ、いや、そうですよね。すみません、その……」
「謝る必要なんてありまへん。正直、うちもユウヤはんに会えないんは寂しいですから」
シノの自分を気遣ってくれる言葉が余計恥ずかしくて、ユウヤは視線を泳がせる。すると、時計がそろそろ八時半を指そうとしていることに気づいた。
「あっ、そろそろ帰ります。シノさん、そろそろ開店の準備をしないと……」
シノの雑貨店が九時からの開店だったことを思い出し、ユウヤは腰を上げる。
「そないに焦らなくても大丈夫ですよ、ユウヤはん。あとは店の入り口の看板を「開店中」に変えるだけですから」
シノはそう言ってくれたが、自分が居ては何かとシノさんが気を使ってしまうと思い、ユウヤはやはり帰ることにした。
そして、ユウヤが店の出入り口まで足を進めた時だった。
シノがユウヤに『警告』をしたのは。
「……ユウヤはん、覚えておいてください。明後日はうちも街のみんなも絶対に外には出まへん。せやから、もしも見知った誰かがユウヤはんの家を訪ねていくようなことがあっても、絶対に家に招き入れたらあきまへんよ」
シノの声色がいつもより低いそれに変わる。
「えっ? それはどういう……」
「鬼は、姿を変えて人に近づき、その人を喰らうと言われとります……。ええですか? 招き入れてしもうたら、鬼は……ユウヤはんを!」
シノはそこまで言うと、いつもの声色に戻して、さも可笑しそうに笑った。
「……もう、ユウヤはんたら。そないに怖がらんでもええやありまへんか。そないにうちの話は怖かったですか?」
「あっ、えっ、ええ……」
シノがいつもの明るい口調に戻ったことに安堵し、ユウヤは胸を撫で下ろした。
冗談だと言われたが、普段まったく聞いたことがないシノの声色に全身総毛立った。
ふぅ、と息を吐いて気持ちを落ち着けて、ユウヤはふと、シノに言い忘れていた事を思い出す。
「あっ、そういえばシノさん、この前話した例のベッドなんですが、じつは、今日の午後に届くことになってまして……」
「……もう、ユウヤはん。そういうことはもっと早くに言っておいてくれまへんと困ります。今日は店を午後から臨時休業にせなあきまへんやないの」
シノは腰に手を当てて、怒ったようなマネをして微笑んだ。
「……うん、そうだよな。いつものシノさんだ……」
ユウヤは当たり前のことを心のうちで呟く。
そして、シノが午後から店を閉めて家に来ることを確認し、ユウヤはシノの店を後にした。
「まったく、あんな冗談を言うなんて、シノさんも人が悪い……」
そう、シノが言ったのはただの冗談。
だが、先ほどのシノの言葉が何故かユウヤの耳について離れなかった。