「ああっ、もう! できるわけがないじゃない、こんな短期間で!」
心の中だけで済ませようと努力はしていたが、ハルカはついに我慢の限界を超えて、一人、深夜の厨房で大声を上げる。
銀髪で顔立ちの整った美しい少女ではあるのだが、今は怒りでそんな事を気にしている余裕はない。
「ああっ、こんなときに、可愛くって、いじり甲斐のあるあの娘が居れば、少しはマシなのに!」
コロコロ変わるあの少女の表情――特に愛らしい泣き顔を思い出しながら、ハルカは両手で頭を抱える。
「ううっ、リナ。どうして私よりも先にお嫁に行っちゃったのよ」
まぁ、同性の自分から見ても、あれほど可愛らしい娘なのだ。異性であれば放っておくはずがないとは、ハルカも思う。
「ああ、きっと毎晩のように、リナの旦那様はあの娘を可愛がって泣かせているのよね。ううっ、羨ましい……」
ハルカはそう言ってしばらく立ち尽くして落ち込んでいたが、調理台の端に置いていた今日の昼に届いた郵便物に目を移す。
「結局、これに頼るしかないのかしら?」
あまりにあんまりな状況に、ついつい弱気になって、リナに助けを求めてしまった。いつもからかいながら愛でていたあの娘に弱みを見せてしまったのだ。
「……でも、仕方ないじゃない」
思い出すのは、三週間前の。いきなりカティア司教様がこの厨房にやって来たあの夜のことだ。
「ハルカ。およそ一ヶ月後にヴェリス神殿で料理勝負をすることになったので、何かすごい料理を作って下さい」
新作料理の研究をしていたハルカに、いつもと同じように温和な笑みを浮かべたカティア司教様が、明日の朝食をリクエストするくらいの気楽な調子でとんでもないことを告げてきた。
「はっ、はい?」
「詳しい出発時間は、後でリン司祭から伝えてもらいます。それでは、頼みましたよ」
「いやっ、ちょっと待って下さい!」
言いたいことだけ言ってこの場から立ち去ろうとするカティア司教様を、ハルカは慌てて呼び止める。
不敬なことは重々承知の上だが、状況も何もわからないままで安請け合いできる内容ではない。
「あらっ? どうかしましたか?」
「お願いします。どうか最初から話をお聞かせ下さい。私には何がなんだかさっぱり分かりません!」
ハルカの懇願に、カティア司教は「あらあら、ごめんなさい。少し言葉足らずでしたね」と微笑み、今度は丁寧にことのあらましを説明してくれた。
「……ひどい話です。うちの神殿にも、貴女のように素晴らしく料理上手な娘がいて、美味しい料理もあるというのに。
その、カレーという料理がどれほど美味しいかは分かりませんが、私は貴女の料理がヴェリス神殿の料理に負けているとは思えません。ですから、そのことをルピア司教に分からせてもらいたいのです」
明解なカティア司教の説明を聞いても、ハルカの頭はそれを理解することを拒んだ。
「あの、カティア様。つまりそれは、期日までに、未知なるカレーという料理に負けず、うちの神殿の名誉を守れるほどの素晴らしい新作料理を考案しなさいということですか?」
「はい。貴女ならできると信じています」
全く曇りのない瞳を向けてくるカティア司教に、ハルカは泣きたくなってきた。
司教様直々の命を、自分のような年若いシスターが拒むことなどできるはずがない。だが、一ヶ月程度で、この神殿の名誉を懸けるにふさわしい新作料理を作るということが、どれほど過酷なことかを全くカティア司教様は理解してくれていない。
「……その、カティア様。せめて、そのカレーという料理がどのようなものかだけでも分かりませんでしょうか?」
少しでも情報が欲しくてカティア司教に尋ねたが、「なんでも今まで味わった事がないほどの美味らしいです」と言った話を聞かされただけで、味や姿はわからなかった。だが、
「ああっ、そうでした。そのカレーという料理は、先日、うちのリナが嫁いだ先の旦那様が教えてくださった料理だそうです。なんでも故郷の料理だそうで……」
そんな思わぬ事実を知ることができた。
そして、ハルカはその情報だけを頼みにして、リナに助けを求めざるを得なかった。カレーという料理に対抗できる料理はないものか、旦那様に尋ねて教えてほしいとの手紙を送ってしまったのだ。
「ええぃ、もうあと三日もないのよ。あの娘に借りを作ってしまったのはもう変えようがない事実なんだから、下らないプライドは捨てなさい、私!」
内心の葛藤と戦っていたハルカだったが、覚悟を決めて郵便物を開封することにした。
丁寧な包装に几帳面さが出ているなぁ、と思いながら中身を取り出すと、手紙の他に大きな瓶が入っていた。
「何かしら、これ? まぁ、まずは手紙を……」
ハルカは随分厚い手紙を開いて、それに目を通す。
「うふふっ、相変わらず可愛いわね、リナは。手紙でも愛らしさが伝わってくるなんて、これはもう才能ね。ああっ、あの柔らかなほっぺたをプニプニして、また可愛い反応を見たいわ」
そんな感慨に浸っていたハルカだったが、手紙の内容が料理のことに変わると、途端に真剣な表情になる。
だが、彼女のそんな表情は長くは続かなかった。
「なっ、何よ、何よ、何よこれ! うん、うん、そうよね。両方とも今がまさに旬だし! ああっ、こうしちゃあいられないわ! 試作よ。いくら調理方法が分かっても、これは完全に火加減が物を言う料理だわ!」
先程までの鬱屈とした気持ちなど吹き飛んでしまったハルカは、興奮を押さえきれない様子で満面の笑みを浮かべる。
「ふふふっ、リナ。いつか借りは必ず返すわ! まずは貴女の助力を無駄にしないようにしなくちゃね!」
エプロンを身に着けて、ハルカは手紙が汚れてしまわないように綺麗に折りたたみ、それを避難させる。
「リナ。本当に良い旦那さんと家族に出会えたのね」
リナ以外にも妻が二人いるということで、引っ込み思案な彼女が虐められたりしていないか不安だったが、彼女の手紙は、『私は今、とても幸せです』と〆られていた。
花が咲き誇るようなあの少女の笑顔を思い浮かべて、ハルカは気合を入れ、料理の試作を始めるのだった。
◇
案内をしてくれるシスターに言われるままに、ハルカと調理補助者二人は、荷物を片手に初めて足を踏み入れたヴェリス神殿の中を進んでいく。
カティア司教様やリン司祭様たちとは入り口で別れた。あのお二方もこれからお偉いさんの相手で大変なのだろうが、自分たちは更に大変だ。
造り自体は自分たちの神殿と際はないし、その年期の入り具合も同じくらいのものだ。だが、やはり規模が大きい。廊下も心持ち大きく思える。それは、たどり着いた厨房も同様だった。
「ようこそいらっしゃいました。ハルカ様。私は、当神殿の厨房を預からせて頂いている、ルーアと申します」
ハルカは厨房で出迎えてくれたのが、自分と同じ年頃の少女だと言うことに驚いた。料理のような雑務を行うのは年若いシスターの仕事だが、その管理はそれ相応の身分のものが行うのが普通だ。
「凄いわね。それだけ、お偉い方たちの覚えが良いってことかしら?」
つい出てきてしまった嫉妬の言葉を飲み込んで、ハルカは笑顔で握手を求めて右手を差し出す。
「初めまして。シスター、ルーア。リスレ神殿のハルカと申します。まだ十八の若輩者ですが、今日はどうかよろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ。ですが、私も十八ですので、どうかお気を使わないで下さい」
そう言って笑顔で握手してきた彼女の手の感触に、ハルカは驚き、眼前の少女に対する邪推が間違っていたことに気づく。
ハルカは今までの社交辞令とは異なる素の笑顔を浮かべる。
だが、それは相手も同様だ。
「あらあら。年頃の娘がこんな手をしていていいのかしら?」
「それはお互い様ですよね? シスター、ハルカ。私と同い年で、こんな手をした人がいるなんて思いませんでした」
美しさとは無縁の手。しかし、料理の腕を上げることにひたすら邁進してきた事実をこの荒れた手が物語っている。
「私は、今回の件はあまり乗り気ではなかったの。でも、楽しみになったわ。貴女の作る料理がどれほどのものか楽しみです」
「はい。私も楽しみで仕方が有りません。リスレ神殿の料理を拝見させて頂きます。私も、全力の料理を用意しますので」
そんな言葉を交わし、握手の手を少し強めてから、ハルカとルーアは互いの手を離した。
「それでは、こちらの厨房をご自由にお使い下さい。普段、私達が使っている厨房です。材料は持ち込みのようですし、貴女に細かな説明は要りませんよね?」
「ええ。気遣いは無用です」
ハルカの返答を聞くと、ルーアは仲間のシスター達と共に一礼して厨房を出ていった。
「ふ~ん、ヴェリス神殿のルーアか。ふふっ、私の他にも料理バカがいたのね。でもね、私はかなり負けず嫌いなのよ。……いいえ、きっと貴女もそうでしょう? ルーア」
そう言うと、口元を引き締めて、ハルカは仲間に指示を出し始める。
自分の料理こそが今回の主役なのだと、彼女の自信に満ちた目が雄弁に語っていた。