『約束の日』とシノは言っていたが、ユウヤにとってはこの日も普通の休日とあまり変わらなかった。
違いといえば、早朝にぽつぽつと降り始めた雨が次第に本降りとなり、雨音が絶えないほどの強い雨が降り続いている事くらいだろう。
「よく降るなぁ……」
朝食を終えてからずっと本を読んでいたユウヤは、本を閉じてカーテンを開けて窓から外を眺めた。
空には灰色の曇が広がり、激しく降る雨は見慣れた景色を普段とは別なものに変えている。ユウヤは雨が嫌いなわけではないが、雨の日の景色はどことなく寂しさを感じてしまう。
「はぁ~。天気のせいだけじゃないな、この寂しさは」
ユウヤ自身、どうしてこんなに寂しい気持ちになるのか分かっていた。
このぽっかりと心に穴が開いてしまったような寂しさの理由は、これからしばらくの間、シノに会えなくなるという事実だった。
この街に来て、はや三ヶ月が経とうとしているが、ユウヤは毎日シノと顔を合わせていた。ユウヤにとって、シノと会うことは日々の不安を和らげる唯一の方法だった。
だが、しばらくそれがなくなってしまう。憂鬱になるのも仕方がないことだろう。
「それにしても、……やっぱりおかしいな、この街は。……いや、世界なのかな……」
ユウヤは小さく嘆息する。
周りは美しい女性と可愛らしい少女ばかりの街。シノ達に確認したが、この街以外でも、昔から圧倒的に男性の数が少ないのだという。
なら何故、こんなに人がいるのだろう? この街だけでも一万人近くの人が暮らしているらしい。だが、男性が圧倒的に少ない状況で、こんなに人口を保てるものなのだろうか? いや、それよりも不思議なのは……。
ユウヤはこの街に来てから、老人を見たことがない。
大きな娘がいることを考えると、ユウヤが知る限りではルミラが最年長者ということになるのだが、彼女は若々しくてそんなことをまったく感じさせない。
一人でいるとついつい余計なことを考えてしまう、とユウヤは嘆息する。
「もう少し僕が若かったら、この状況に胸を高鳴らせていたのかな?」
主人公の少年が、ある日突然異世界に飛ばされて、その世界で活躍していく話を読んだことがある。ヒロインや仲間たちと一緒に世界を旅して、強大な悪と戦う話。昔からある定番のストーリーだ。
ユウヤも子どもの頃、そんな空想に憧れたこともあった。だが、実際にそんなことになったら自分は何も出来ないだろうなぁと子供心に思っていた。
「……昔から、変わってないんだな、僕は……」
ユウヤはがっくりと肩を落とす。我ながらなんと夢のない子どもだったのだろうと思いながら。
「……どうして、僕がこの世界にいるんだろうなぁ。……僕なんかが……」
そう気落ちしていると、不意に、くぅぅっとお腹が音を立てた。時計を確認すると、もう一時を回っていた。
シノに言われたとおり、瓶に飲み水は用意してあるし、ルミラの店のパンをはじめとして食料も充分用意している。別に今日一日家にいるのは何も問題ない。
ユウヤはもう一度何とはなしに外を確認し、少し遅い昼食をとることにした。いや、とろうとした。
「……んっ?」
ユウヤは違和感を覚えてもう一度外の様子を確認する。
……やはり気のせいではなかった。まだ少し距離があるが、誰かがこの家に向かって歩いて来る。目を凝らしても、距離があるため顔は判別が付かないが、どうやら着物姿の女性のようだ。
その女性はこの大雨の中、傘も差さずにこちらに向かってくる。
着物姿で、この家に用事がある女性。それに該当する人物はユウヤの知る限り一人しかいない。
「……シノさん。シノさんだ!」
ユウヤは急いで玄関に向かい、靴を履いて傘を手に取った。
「まったく、どうして傘もなしにあんなところを歩いて。風邪でも引いた…ら……」
ドアノブに手をかけ、しかし、ユウヤはそこで動きを止めた。
……おかしい。どうしてシノさんは傘を差していないのだろう。
今日は朝から雨が降っていた。それなのに何故傘を持っていないのだろう。
傘が壊れた? いやシノさんの店にはたしか何本も傘が陳列されていた。それらが全部壊れたとは考えられない。いや、そもそも今日は……。
『ユウヤはん、明後日はうちも街のみんなも絶対に外には出まへん』
ユウヤは、一昨日にシノから言われた言葉を思い出した。
そうだ。シノさんは絶対に外に出ないと言っていた。それなのにどうして……。
まて、あの時シノさんは他になんと言っていた?
『せやから、もしも見知った誰かがユウヤはんの家を訪ねていくようなことがあっても、絶対に家に招きいれたらあきまへんよ。
鬼は、姿を変えて人に近づき、その人を喰らうと言われとります……。ええですか? 招き入れてしもうたら、鬼は……』
……馬鹿げている。シノさん自身が鬼なんて実際にいるはずがないようなことを言っていたじゃないか。そう、たとえここが異世界であっても鬼なんているはずがない。
そんなことを思い、どうしたものかとユウヤが考えていると、
――ギィ、ギィ。
「ひっ!」
ユウヤは情けない声を上げて後ずさった。
雨の音とは別の、木が軋む音が聞こえた。
それは、誰かが入り口の僅か数段の階段を上ってくる音……。そして、その音はドアの前で止まった。
僅か数センチのドアを挟んで、誰かがユウヤの前にいる。
だが、入り口のドアにはのぞき穴がないので、それが誰かはドアを開けなければ分からない。
「……しっ、シノさん?」
ドアの前の誰かに、ユウヤがそう誰何の意味で名を口にした時だった。
――ダン! ダン! ダン! ダン! ダン!
猛烈な勢いでドアが叩かれたのは。
「あっ、あっ、ああっ……」
ユウヤは恐怖で腰が抜けてしまい、そのまま身体を引きずって後ずさる。
それから二、三分の間、ドアの前の誰かは延々とドアを叩き続けた。だが、それは突然治まったかと思うと、再び階段の軋む音が聞こえ、それとともにドアの前の気配は消えていった。
「……なっ、何だったんだ、今のは……」
ユウヤは頼りない足取りで居間に戻り、恐怖に震えながらカーテンを開けた。
「……いない……」
ほんの数分腰を抜かしていただけなのに、窓から外を確認しても、先ほどの着物の女性の姿はなかった。
ほっと小さく安堵のため息を漏らしたユウヤは、しかし慌てて家の中を見渡した。
ホラー映画のように、いないと思ったら家の中にすでに入り込んでいた、という状況を危惧したためだ。だが、幸いなことにそれは杞憂に終わった。
「……はっ、はは……。そうだ、そんなわけない……。でも、なんだったんだろう? さっきのは……」
誰かの悪戯というのが一番現実的だが、こんな悪趣味なことをしそうな人間に心当たりはない。だとすると、今のは……。
ユウヤは身震いし、余計なことを考えないことにしようと思った。そして、今日は少しでも明るいうちに眠りに付こうと心に決めた。
◇
一向に止まない雨の中を女は走り続けていた。だが、だんだんとその速度が遅くなり、それは力ない足取りに変わり、ついには足を止めた。
「……約束、守おてくれはったな、ユウヤはん。これからもずっと、この日だけは外に出たらあきまへんよ」
冷たい雨が全身に降り注ぎ、女から体温を奪っていく。
けれど、それが沸騰しそうなほどに熱を帯びた頭を冷ましてくれるような気がして、女はただ雨に打たれ続けた。
「……ユウヤはんが出てこなくて、うちは嬉しいんやろか? それとも、残念に思うとるんかな?」
女はそう呟き、そしてその手に握られた短刀の白刃を一瞥して、自虐めいた笑みを浮かべる。
「……何がしたいんやろ、うちは……。殺そうとするくらいなら、なしてうちはあの人を助けたんやろ? あのまま放って置いたら、ユウヤはんも楽に死ぬことができたやろに……。せやのになして、なしてうちは……」
女の脳裏に、穏やかな笑みを浮かべるユウヤの顔が浮かぶ。不器用でどこか頼りない、でもそれを補って余りあるくらい優しくて温かい人。
女は鞘に収めた後に短刀を帯に挟めると、懐から何かを取り出し、両手でそれを大切に包み込んで静かに胸に当てる。
さもその手の中のものが、凍えた身体を温めてくれるかのように。
「……温かいな、ほんまに。これは、これに込められた思いだけは本物やから……」
女は掌と胸が熱くなってくるのを感じた。
だが、それは錯覚に過ぎない。
女が手にしているのは、何の変哲もないただの櫛なのだから。
「……違う。やっぱりユウヤはんは別や。あいつらとは違う。……絶対に違うんよ。ユウヤはんならきっと……」
子どものような口調で自分に言い聞かせるように呟く女。
だが、次の瞬間、女の脳裏に浮かんだのは一人の少女の顔だった。
名も知らない、ただ自分に助けを求めて、目の前で無残な最期を遂げた、あの時の少女……。
「…………」
女の瞳から涙が溢れ出す。分かりきっていたことだった。自分は死ぬまでこの地獄の中を彷徨うしかない。この苦しみを背負い続けなければならないのだ。一人で、たった一人で……。
女は手を開いて櫛を見つめると、それを大切に懐に戻した。
「……大丈夫、大丈夫や。明日から少しユウヤはんと距離を置けば、またいつものうちに戻れる。嘘をつくのが得意な、いつものうちに……。
大丈夫やよ、ユウヤはん。うちはユウヤはんに縋り付くようなマネはしまへん。神殿の連中も妙なことはせんかったようやし、もう何も心配はいりまへんよ」
女は力ない笑みを浮かべて再び歩き始める。
「せや。こないな地獄を歩くんは、うちだけでええんよ。地獄にいるんは鬼と昔から決まっとる。何もしてない、何も知らんでいるユウヤはんを殺そうとするような鬼畜生は、地獄がお似合いや……」
女は搾り出すようにして言葉を紡ぎ、自らを叱咤して歩き続ける。そうしなければまた足が止まってしまうから。
そう、足を止めるわけにはいかない。彼女は一人なのだから。
彼女の苦しみを理解できる者は、そして、疲れきった彼女を受け止める者は、まだどこにもいないのだから……。
◇
「ごっ、ごめん下さい!」
玄関のドアを控えめにノックする音と聞きなれない声に、ユウヤは慌てて玄関に足を運ぶ。
その声が自分の期待していた女性の声と違うことに少しがっかりしながら。
まだシノが帰ってくる予定日より五日も早い。けれど、もしかすると予定を繰り上げて、などと勝手な期待をしている自分に、ユウヤは我が事ながらに呆れた。
「あっ、はい。今出ます」
一瞬、一ヶ月近く前の「約束の日」の事がユウヤの脳裏をよぎったが、あの日以降おかしなことはまったく起こっていない。
しかも、今日は天気もいい。あの時のようなおかしな雰囲気もない。そう思いユウヤは静かにドアを開けた。
「はっ、はじめまして。私はリスレ神殿のシスターで、リナと申します」
顔を合わせるなり、がちがちに緊張した声色でそう名乗ると、純白のローブ姿の赤髪の少女がユウヤに頭を下げた。
「あっ、ええ……」
なんと言えば良いのか分からず、ユウヤは適当な相槌を返す。
「そっ、その、こちらは、ユウヤ様のお宅で間違えありませんか?」
リナと名乗った少女が顔を上げて尋ねてきたが、ユウヤは一瞬言葉に詰まってしまう。
それは、あまりにもその少女が愛らしい顔形をしていたためだった。
年はコリィたちと同じくらいだろうか? コリィや彼女の友人達も可愛らしいが、この少女はそれ以上に可憐で愛らしい。
「リナ、まずは初めにご用件をお伝えしなければいけませんよ」
不意に凛とした美しい声が聞こえたかと思うと、玄関の影からもう一人の少女が現れた。
「なっ……」
ユウヤは思わず驚愕の声を上げてしまった。
現れたのは、リナと名乗った少女よりも一つか二つ年上くらいの金色の髪の少女。
だが、その少女はあまりにも美しかった。この街に来てから美人を見慣れているユウヤだが、この少女は群を抜いている。
「失礼致しました。私はヴェリス神殿のシスターで、ファリアと申します。私達…は……」
毅然とした声で名乗った少女は、しかしユウヤと目を合わすなり、何故か言葉に詰まる。
このリナとファリアと名乗った二人の少女との出会いが、ユウヤの運命を大きく変えていく。
それが幸運なことか、それとも不幸なことかはまだ誰にも分からない。
何も分からないままにユウヤは巻き込まれていく。
……残りは八ヶ月と少し。まだ大丈夫。まだ時間はある。
けれど月に一度、その日だけは気をつけないと……。