疑問がある。あなたが転生した時からすでにこの肉体は、少年の体だった。だというのにあなたには赤子から少年に至るまでの成長の記憶がない。仮に培養器で育てられた肉体に宿ったとすると齟齬が生じてしまう。というのも言葉も話せず文字も読めないはずなのにあなたは、この世界の心理学の研究者と会話できているからだ。成長の過程をすっ飛ばして技能のみがあるというのは一体どういうことなのか。
007実験室と扉の横の表札に書かれていた。
「実験の仕方を変えてみるべきでは?」
そんな研究者の気まぐれで、あなたはコンクリートで手足を固定され、プールに突き落とされることになった。その程度では死ぬことはないだろうとあなたは笑う。別に自身の再生能力を過信してのことではない。実験を続けるためには、実験体であるあなたを彼ら自身が殺すことはできないという最低の保証がなされている。
そう、これまでの実験であなたは死ぬことはなかった。死にそうな痛みと、臓器の損傷はあったにせよ半死半生の状態を保つように適切な処置がなされてきた。今回の実験も同様で脳波感知装置でもつけてから水に放り込まれることだろう。
そして脳波が途切れそうになれば水から引き上げられ蘇生処置を施される。拷問に新たなバリエーションが加えられるというわけだ。なんにせよ死ぬことはない。生きていて楽しいこともないが死ぬことがないならそれでいい。
「いや、どうやら本部で別の血族の個体が反応を示したらしい。もう再生能力に関するデータも十分蓄積できたし、今回の実験が最後でいいんじゃないかな」
この実験施設の統括者と思わしき恰幅のいい男が腹を揺すって、淡々と返答した。納得できないと別の研究者が首を振る。
「そんな!?まだ硫酸にも浸けていないし、フッ化水素も試していない。炎で焼いた後の反応も見ていないんですよ!!」
「いや、それも本部で行えばいいだろう。何より、こちらの試験体は出来損ないだ。いくらやっても再生に関する情報以外を手に入れることは難しい。それにもう、脳以外のサンプルは回収したじゃないか。彼から手に入れられる物は何もないよ」
搾りかすの果実に固執してどうするの?と男はコーヒーを啜る。不味い。こういった研究機関でコーヒーが美味かったためしはない。これだけは全世界で共通した事例だと言える。
「しかし、神が賽子を振るように繰り返して行えばいつかは……」
「そうだ。神は賽子を振った。おかげで我々は生まれた。我々がするべきは賽子が振られるまで待つことではく、賽子の出目が変わる条件を調査し、再現性を立証することだ。違うか?君の男児愛好癖を否定するわけではないが、少し被検体に執着し過ぎではないかね?そもそも彼から発現する能力が、我々の望むものである可能性は薄い。そして我々には時間がないのだ。目的には最短で辿りつきたいのだよ」
恰幅のいい男の理屈に打ちのめされた研究者が苦り切った表情とともに踵を返し、部屋を出ていく。やれやれと、男は首を振って冷めたコーヒーを啜り、モニターに視線を戻した。
モニターには四肢をコンクリートで固められた少年が今まさにプールに放り込まれようとしていた。精神的にも肉体的にも長期間の虐待に晒され続けたためか、その秀麗な顔には表情というものがまるでない。
いや、そもそもあれに表情以前の感情があるかもあやしいものだ。目の前のそれは人の人生などなく、生まれた時から実験体だ。人は人の人生を生きて初めて人になる。おそらくあの実験体には思考も感情もそれを構築する記憶すらない。そんなものは獣と同じだ。獣に人と同じ愛情など感じられるはずもなかった。
少年が水中に投下される。これがこの支部での最後の実験になるだろう。そう考えると感慨深いものが男の中から込みあげてきた。
「今の話は本当ですか?」
足音のない気配に、あの女咒式士かとを思い出しながら後にしてくれという気持ちを抑えて、ああと適当に男は返した。観察の邪魔だからさっさと消えて欲しい。この女も後で口封じに殺されるだろうがそれはどうでもいい。
「ならもう要らない」
「は?」
咒式によって生み出された鋼の槍が着弾、肉を裂き、骨を砕き、男の体を椅子に磔にする。男の顔になんで?という特大の疑問符。女が酷薄な笑みを浮かべる。
「15歳以下の美少年を犯せると聞いてこの実験に参加した。お前らは馬鹿だ。役に立たないから捨てる?なんでそうなるの?役に立たないなら私が回収する。どんなに加虐しても壊れない玩具なんて素晴らしすぎるでしょう。世の好事家なら大金を出してでもあれを欲しがるわ。そして私はその金で人生をやり直す。そのためにはあなた達は不要なのね」
あまりにも間抜けすぎる計画に男の怒りが沸騰。痛みを怒りが超越し、血を吐きながらも咆哮する。
「お、前。自分が何をしたか分かっているのか!?お前はこの組織を敵に回したんだぞ!!これだけの施設を整えられるだけの組織を!敵に回して生き残れると思ったのか!?」
にっこりと再び女は笑った。
「ここは単なる支部でしょう?トカゲで言えば尻尾ね。電子網の発達ってとっても便利。あなた達の成果はもう本部に届けられている。これ以上あなた達がいても本部には特にいいことはないわ。むしろ私達の存在って本部からしたら国家の捜査機関にベギンレイムの潜伏がバレる確率を上げるだけでしょ?」
「だからといって、あの組織とあのお方が裏切り者を生かして返すはずがない!!お前は捕まって四肢をもがれ、目を抉られ、異貌ものに犯される孕み袋になるのだ!高位咒式士であることを後悔するような……な!」
「それも想定済み。もうすぐここには武装した咒式査問官の大部隊が突入してくる。私が情報を漏らしておいたの。全員が殺され支部の痕跡が消えれば、もうあのお方とやらは何もする必要はない。あとには内紛で壊滅した邪悪な謎の組織が残るわ。それじゃあね、ああ、あなたの右手だけは貰っておくわ。自爆装置の起動に必要だから」
言葉は終わり、男の顔に魔杖剣の切先が突き付けられる。鋼の槍の連射とダメ押しの爆裂咒式が男が座る椅子ごとその体を弾けさせた。
「ええと、場所は007実験室か。爆発を伴う実験に使われるプール付きのところね。……待っていてね。愛しの金蔓ちゃん」
肥満した右手を弄びながら、音もなく女は監視室を後にした。
苦しい。こんな苦痛は初めてだ。痛みに視界が歪む。眼球が引きずり出される激痛。肛門が割り裂かれるような恐怖。口から水が入り込み胃に押し入って肺を満たし、鼓膜が破裂する。目が飛び出したのか暗闇。体がいくら再生しようとも再生能力の根源である脳が破壊されてしまえばあなたは死ぬ恐怖。
そう、あなたは死ぬ。一度目の死を乗り越え、二度目の生を受けたあなたは死ぬのである。その死に特に意味はないし、間違いなく世界は終わらない。むしろ地獄のような日々が終わり、何もないという平穏が訪れる、そう考えるとあなたはひどく優しい気持ちになった。
許サヌ……、
声が、聞こえた。だがしかし、ここにはあなた以外の何物もいないはずなのにどうしてこのような声が聞こえるというのだろう。死ぬ間際の幻聴か。だとしたらもっと、美しい声を聴きたかったけれども、アッラーもヤハウェもヴィシュヌも信仰していないあなたには天使の声など聞こえるはずもないだろう。
許サヌゾ……、
呼び声は後ろから聞こえた。あなたは正面を見たまま背後を見る。暗闇が競り上がってくる。藍色の闇は滑らかに律動し、収縮し、あなたの背後で巨大な生物の貌へと形を成す。トカゲのような鰐のような顔には生物の頂点を示す巨大な角が幾本も飛び出ている。
りゅう、とあなたの唇はその顔を形容した。
號っ!と竜が咆哮で応えた。大気が、暗闇が震れる。振動は波頭となって黒一面の世界を駆け抜け、瞬く間にあなたを覆う世界の果てに到達、暗闇が砕け散り、剥落した闇の背後から雪原の輝きに満ちた光があなたの目を焼いた。
オ前ハ何者ダ?
竜の目があなたを見つめ問いかける。瞬間、どくんとあなたの心臓が鼓動を打つ。虚空からの恐ろしい問いかけにあなたはそれでも答えなければならない。
俺は……、
竜が背後からあなたに迫る。どれほどの距離があったのだろう。どれほどの巨躯を誇っているのだろう。その顔は地表に迫る月の墜落のようで、開かれた口腔は頂から覗く大渓谷の深みさながらに底というものがまるで知れなかった。
オ前ハ、俺ダ!!
竜はその巨大な顎であなたを一飲みに飲み干した。
違う、いや違ワない。俺はアナたは、人で竜ダ。
あなたの目があなたの体を見る。細く白い手足は今や黒銀に輝く鱗でおおわれている。頭には竜の威容を示す王冠のような角が生え、二つしかなかった目はその数を三倍に増やし、四肢二十指の先は鋼鉄を切り裂く鋭い爪に変わり、尻肉の間から黒くしなやかな尾が生えている。
今やあなたの魂は竜そのもであり、竜の目を通して測る世界は踊り狂う素粒子の運動で極彩色に輝いていた。世界は輝いている。あなたも輝いている。あなたは世界と同じ物質で構成されている。
「脳波停止……いや、咒力波長確認!!500……1041……2133……なんだこの大きさは!?これはまるで長命竜の……、」
防護ガラスで隔てられた実験室で、複数の研究員が目から血を流して崩れ落ちた。最終実験の思わぬ成果よりもも、感知された長命竜級の咒力放射が研究者たちの余裕を吹き飛ばす。最初の咒力放射で無事だったのが10人中5人、残る5人は咒力放射を浴びて動けないでいる。
「隔壁下ろせ!急げ!!倒れた者は置いていけ!逃げろ!!」
室長の指示で防護ガラスの窓にシャッターが降ろされ、残る五人は逃げだした。他人のことを構っている余裕などなかった。倒れて動かないものの中には恋人や妻、親友もいたが脇目もふらずに逃げた。室長は所長に連絡を取ろうとしたが、繋がらずそのことを不審に思ったが、かと言って何もしなわけにはいかないので実験中の各部屋に緊急避難命令を出した。
直後、007実験室が吹き飛んだ。
廊下には幾人もの研究者達が目から血を流して倒れていた。揺れる視界をそのままにあなたはプールから廊下を歩く。廊下に連なる扉に書かれた文字は読めない。いや辛うじて読める。意味の分からない文字列が多いが出口と入り口を判別する程度の知識はあなたにもあった。
それにしても、先ほどから体が重くて仕方がない。まるで自分のものでないような、不思議がるあなたは都合よく表れた研究室の強化ガラスに自分の体を写す。
ガラスに映るあなたは、人とも竜ともつかない姿に変化していた。
「なんだこれ……、」
あなたの目があなたの体を見る。細く白い手足は今や黒銀に輝く鱗でおおわれている。頭には竜の威容を示す王冠のような角が生え、二つしかなかった目はその数を三倍に増やし、四肢二十指の先は鋼鉄を切り裂く鋭い爪に変わり、尻肉の間から黒くしなやかな尾が生えている。
丸っきり走馬燈で見た姿そのままだった。
「なんだこれは!?どうすればいいのだ!?」
轟、とあなたの感情の高ぶりに比例して無意味な咒力放射が大気をかき乱す。まさか人以外の者になるとは思わなかった。研究所での生活が良いものとはまるで言い切れないけれども、こんな怪物になるのはさらに最悪だ。
これでもう、あなたは人の社会に復帰することはできないだろう。
気づけばあなたは泣き出していた。転生後の世界で本当に泣いたのは、何日前のことだろうか。あなたの喉から漏れ出る嗚咽はしかし、あなたの慣れ親しんだ人のそれではなく大型の猛獣の吠え声のようだった。
こみ上げる理不尽へ怒りを、あなたはガラスの向こうの自分へと叩きつける。ガポンと間抜けな音を立てあなたの右拳は強化ガラスを粉々に砕く、でもなく主力戦車の砲撃のように貫通した。
あなたは竜だ。あなたは人を超越してしまった。けれどもそのことに対する喜びは欠片もなかった。
「全部ぶっ壊してやる……」
ただ一つだけ、あなたは決めた。自分の力で、この力でイカれた研究所と変態を破壊しつくして、同じ痛みを味合わせてやると。
ゾンビが詰まってこれを書き、これが詰まってゾンビを書く。両方詰まったらクソ映画を見る。