月の眩しい夜だったと記録されている。
青の濃い夜の闇、人口の星が燦燦と輝る魔都の空は、もう十年も晴れたことのないスモッグに暗く濁り続けていた。
その日はそれは、だから、奇跡のような出来事だった。
解体と新築のサイクルも目まぐるしい都会の中にあって、街の記憶の奥底から暗闇から滲みだした桃園は、その真の姿を理解するものなどいない。
苛烈な酸性雨に凌辱された桃の木はかつての艶やかさを失い、煤けた枝が即身仏の腕じみた枝を伸ばす。この荒れ果てた園に桃の花の色を視るものは、庭園に響いた琴の音と勇壮な剣舞を知る者だけである。
かつて五つに分かたれたそれは、愛する者を取り込んでようやく一つのなにかに成った。
だが、時が立つにつれ、なにかは知ることになる。取り込んだがゆえにそれが愛した者達は消失してしまったのだと。かつて、彼女は彼を取り込み二人は一つになり、しかし同時に向かい合う方向を見失ってしまった。ならばと、何かは考えていたのだ。
六つの魂が絶叫する。
一つになったことで失ったのならば、再び二つに分かてばいい。そのための器にどちらが入るかなどは問題ではない。ただ願わくば、今度こそ個人で組織の謀略すらも打ち破れるほど強い力を、それは求めた。
その力が、人知を超えた「器」が目の前にある。けれども、器を手にするにはこの二人は邪魔だ。
だから、結局のところ、こういう形に落ち着くのは長い彷徨の果ての必然だったのだろう。
「さて、殺すか」
それは自分の今日する仕事を確認するような口調だった。破壊する対象に毛ほどの共感も存在しない、あなたのもっとも嫌う思考形態だ。
交渉は意味がない。分かり切っている。
ヘヴォルムにとってあなたと交渉をする利点がない。そもそもヘヴォルムとあなたの戦闘力の差は歴然である。よって、ヘヴォルムはあなたを瞬殺して帰ればいい。
身体能力、咒式力、武術、戦闘経験、その全てにおいて上回るヘヴォルムが、速攻をかけてこないのは剣を手にしていたこともあって意外だった。
ヘヴォルムが落とし下段に構えた長剣を身体の正面で旋回させる。そこに剣術的な要素は一切見受けられない。時計の秒針のごとく下段に構えた剣を、ゆらゆらと旋回させ上段へ、半回転して下段へと近づくでもなく、弄ぶ。敵の意図が読めない以上、あなたから仕掛けるわけにはいかなかった。
地下闘技場での戦いにおいてヘヴォルムの基礎性能は常にあなたを上回っていた。それは近接戦闘においても同様である。
(打撃戦の思考でいけばリーチの差はカウンターが怖い)
むしろ相手の剣を仕掛けさせて後の先を狙いたいところだが、相手の攻撃を引き出すほどの技量はあなたにはない。ならば、機動力で撹拌し、敵に足が止まった瞬間に体当たりを狙う。そこからの格闘戦に活路を見出す他なかった。竜との格闘戦、自殺行為にも等しいその行為によって生き残るしかない。
迷っている時間はなかった。こうしている間にもヒルズの刻一刻と生存率は低下していく。
腰を落とし、手を付き、四足獣の姿勢からあなたは地を蹴った。質量操作と四足歩行を組み合わせた高速移動で地表に弧を描いて、ヘヴォルムの側面ヘ回り込む。
ヘヴォルムがあなたを追って旋回すれば、さらにその側面あるいは真逆に切り返して間合いを逸らす。
あなたの強みは速度だ。技能全てで劣るならば、敵の武器の持つ弱点を突くしかない。構造的に武器は体の正面にしか攻撃を放てない。その原則を無視して左右に振り回せばたちまちのうちに武器との釣り合いを見誤って、制御能力を喪失することになる。
敵が間合いを見誤り隙を見せる僅かな時まで、疾走を止めるわけにはいかない。
そうして、旋回すること十数回の内に、あなたはいつしか見覚えのある場所に踏み入っていた。
白い壁があった。鉄格子が行く手を阻んだ。汗で僅かに湿った部屋の隅の寝台。この場所は今でも夢に見る。あなたの始まりの地獄、白く清潔な廊下が足を止めたあなたを運ぶ。きいきいと、鉄製の扉が軋みを上げて記憶の闇にあなたを飲み込んだ。
ゆっくりとタオローが振り返ったのが見える。その青褪めた肉の能面につづく右肩から先を、ジネブラの認識できない。背後でリュオウが口を動かしたのは警告のためだったのだと今なら分かる。
厚さを持つ刀身が肉を分かつ。その痛みをどこか他人ごとのように感じた。なるほど、これほど見事に肉体を裁断されたのなら、出血も少なかろう。そのように刃を向けられたジネブラが驚嘆するほどの一刀。
右脇から左肩を逆袈裟に応じようと抜刀した右腕ごと切り裂かれ、旋毛風のようなタオローの体術にジネブラは巨大な穴の底へと拿げ落とされた。
穴の底はどれほどの虚無か知れない。落下する女の姿はすぐに闇に消え、吹き上がる風がタオローの頬を冷たく撫でる。
視線を戻す。穴の底から聖堂の中央へ。ドラッケン族の戦士へと。
背後に泥沼のような闇を背負った武神がいた。悪鬼の面頬に顔を隠したドラッケン族の戦士は努めて抑えた口調で告げた。
「正気を失ったか。あるいはもとより狂っていたのか」
聖堂の闇に月光を描いた屠竜刀の円弧が、赤と青の斑尾を残し静止する。
「だが、どちらにしろ同じことだコン・タオロー。貴様と再び切り結ぶ日を私は心待ちにしていた。この場で切り合うことになるのは少々意外な展開ではあったがな」
宣言の終わりと同時にリュオウは屠竜刀を戦旗のごとく掲げ、タオローの狂気に対峙する。怒りもなく、哀れみもない澄んだ声タオローの脳に冷気が沁みる。
勝手な憶測にすぎないが、この男なら自分を斬ることをためらわない。脳波の上澄みに過ぎない人柄であるとか、頭脳であるとか、そういったことではなく剣士としての人生を構築してきたリュオウの残酷さだけを確信に、タオローは喉を震わせた。
「俺を止めろリュオウ。もはや俺は俺ではなくなりつつある。やはりと言うべきか。壊れたものを繋いだところでそれは決して元の形には戻らない。俺がまだ俺という自我を保っていることこそ異常だったんだ。俺を斬れ。俺を斬って、この狂った輪廻を終わらせてくれ」
言い終えて、いや口に出すそばから恥知らずな懇願だと、心の中でタオローは自分の言葉をせせら笑っていた。罪を認め斬ってくれと頼むなら、膝をついて頭を垂れるのが作法だろうに、どうやら俺の狂気は人倫などお構いなしらしい。
「無論、言われるまでもない」
狂気の告白を受けてなお、一切純度を損なうことのない美しい剣気が、タオローの首元に突きつけられる。朝露のごとき清々しい闘気にようやくタオローは心から安堵の表情を浮かべる。
「貴様の首と心臓を、我が許嫁に捧げよう」
嘘のない言葉だと感じた。聖堂の微かな明かりを受けて玲瓏たる剣気を放つ屠竜刀は、一切の躊躇なくタオローを切り捨てるに違いなかった。
「貴様こそ全力を尽くすがいい。この剣戟が貴様の業を使いつくす最後の機会だ。余計なことは一切考えずに斬りに来い」
仮面に隠れたドラッケン族の獰猛な笑みに、タオローの貌は修羅のそれへ転じていた。それこそ、言われるまでもないことだ。
六つの狂気に絡めとられた右手の魔杖刀がゆるゆるとその切先を持ち上げる。それにしても、こうして剣を手に殺気を交えるだけで、コン・タオローという意識が研ぎ澄まされていくのはやはり、冗談というほかなかない。崩れかけのコン・タオローにとって今や剣戟を切り抜ける戦術の構築と実践のみが、彼を彼たらしめる最後の縁だった。
そう、内に荒れ狂う狂乱の声も手にした鋼鉄の意念が切り払う。ここまで冴えた氣を感じるのは兄弟子との決着以来か。そして戦闘を前に心の底からの笑みを浮かべるなど、人生で初のことだろう。天を戴くなどと称しても所詮は不肖の殺人剣。これを楽しむものは君子の器ではない。そう戒め、用いるときは極めて淡々と使い捨ててきたというのに。
ことの勝敗を問うならば、タオローは既に敗北していた。後衛系の咒式士であるジネブラを抜きに白皮のヘヴォルムを倒すことは出来ない。それはホアンから任された依頼の不可能とイコールで結ぶことができる。縁故を持たぬ流れ者が組織に属さず這い上れるほどエリダナという街は優しくない。
だからこの一戦に意味などないはずなのだ。
それなのになぜ、勝ちも負けもないはずのリュオウとの一戦がタオローの胸を締め付ける。
子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者。つまりは、そういうことなのだ。狂気。妹の狂気と拮抗する己の戴天流もまた、同様の狂気。
結局のところコン・タオローという剣鬼にとって、兄弟子も青幇も、そして流血の果てに手に入れた妹さえも不純物にすぎず、ただ己の血肉と鍛えた戴天流の術技だけが彼を彼たらしめている。
ならば、一切の柵を抜きにして剣戟へと誘うリュオウは救世主に等しい存在だ。
聖堂に風が哭く。対面する剣士達を障ろうとする剣甲竜の怨嗟に違いない。
巨大な骸の腹腔から零れ落ちた血が宙に溶け、原因となった二人に向けて恨み節に泣いているのだ。早くこちらに来いと呪っているのである。
そのような魑魅、魔性、怨霊の呪いはけれども、一歩たりとも近づけぬ聖域がそこにはあった。地下聖堂の暗闇に、宙に浮かぶ恒星よりもなお眩い二振りの剣気。
同じ剣士という存在でありながらも、二人の発す気配は大きく異なっていた。
リュオウのそれは煮えたぎる火山の火口だろう。重厚なリュオウの肉体を中心に放射される闘気は、並の咒式士なら心停止すら起こす威力がある。だがそんな灼熱の放射は間合いの中央でぷっつりと途切れる。
リュオウが火山ならば目の前の剣士はなんだ。溶岩の放射熱じみたリュオウの闘気を一切吸収して、微動だにせぬ、永劫続く底なしの穴か。
いや―――天空、?
リュオウには見えない。流れる雲に形などないように、空の青さに底がないように、タオローの底が全く見えない。
じわじわと間合いが詰まる。敵に向かって前進していた二人の足は、剣気の接触と同時に相手の正中線を外れようとする横方向への旋回へと転じる。一足一刀の間合いに入ってなお、無音無臭のタオローを前にリュオウは軽い眩暈を憶えてさえいた。
この立ち合いはリュオウの戦歴においても異常だ。人間を相手にしているという気がまるでしない。たとえば常の近接戦闘であれば、リュオウの鼻は相手の体臭の変化から心意を推測することが出来る。その慣れ親しんだ、いっそ安心感さえ覚えるような鉄火場の空気の消失にリュオウは少なからず動揺していた。
じりじりと間合いが詰まる。動くな、踏み堪えろと、そう足に命ずるのに、間合いを詰めているのはリュオウだった。さながら宙の果てにある超重力が光をも捻じ曲げてしまうように。
懸待の不利を天秤に掛け、間合いを割ったのはタオローである。地を蹴る歩行に伴うはずの足音など微塵も見せず、9メルトルを助走もなしに跳躍する軽功術の絶技。超人の五感に先んずるタオローの剣をリュオウの屠竜刀が勘混じりに受ける。
軽い。
敵の攻撃を受けた際に感じるはずの衝撃が、毛ほども感じられない。それでいて、斬撃の鋭さは間違いなくフェイントではなく本命のそれである。どうやら敵は剣と剣が接触する刹那に勁道を化かし、剣を跳ね上げたのだ。
右籠手の裏を突き切るように走った魔杖刀の切先が、瞬時に反転し防御の構造的弱点を突く角度でリュオウの首筋に這い上る。タオローの、卓越を通り越してもはや神域の手の内の冴えにリュオウは瞠目し、体勢を崩しながら防御の太刀を合わせた。
三度風が捲いた。
逆雷の一閃をリュオウの鷹の目と屠竜刀が逸らす。苛烈を極める剣風はリュオウの白磁の頬に朱線を加え、再反転、飛び散る鮮血を切り刻む打ち込みは、受けと同時に太刀筋を変じリュオウに反撃を許さない。右袈裟に合わせた受けの太刀を、掻い潜るように変化した魔剣がリュオウの右脇を僅かに削りながら逸らされる。
最初に数合で既に互いの技量のほどは知れていた。咒式戦の分を差し引いても、どうやらこのコン・タオローという男は対人剣技においてリュオウの遥か先にいるらしい。
ここに至って、肉を切らせて骨を断つ戦法は至難を極めるものとなった。迂闊に対の先を狙えば、行動そのものを先読みされ自傷覚悟の反撃であっても単なる隙として処理されかねない。だが、防御の太刀に合わせて攻撃を角度を変化させる変幻自在の太刀筋を受け続ければ、刻み殺されることは必定。しかもこの斬撃、いやらしいことにリュオウの肉体強化咒式を阻害する虫のようなものまで載せているらしい。虫の効果は一瞬だが、音速を超える咒式剣士の戦闘領域においては筋繊維一本の遅滞が勝敗を決する。決着を長引かせれるほどに、リュオウの屠竜刀はその鋭さを失うことになる。
タオローが攻めリュオウが凌ぐ。初めの一合から続く二十合までの全てにおいて戦形は不変だった。
一方的な攻防は剣術の巧拙を差し引けば、両者の剣の質量に起因する。重い屠竜刀と軽い魔杖刀。剣速の最高到達速度はリュオウが勝るが、加速度においてはタオローが一歩先んずるのだ。加えて体重の半分にも匹敵しよう屠竜刀の質量はどれほど筋力を備えようが足捌きの自由度を殺す。烈剣を重ねるタオローの運足は激烈を極めてなお静謐だった。慣性力を完全に制御下においた運足が捉えどころのない体捌きを生み、思わぬ形で突きこまれる魔杖刀が確実にリュオウの体を傷つける。
見切り、体術、運剣。
動きの先を読み、足捌きで有利を確保し、相手よりも早く攻撃する。初戦の手合わせとはまるで異なる戦法は、けれどもコインの裏表だ。相手の攻撃を読み完全にいなし、技の尽きたところに攻撃を加える後の先と、相手の攻撃を読み出頭を潰す形で発剣して一方的に切り刻む先の先。
タオローが戦法を切り替えた理由はリュオウを「読み切った」からだろう。後の先を狙う、あえて言えば消極的な姿勢は相手の手の内を読むため序盤の戦法に過ぎず、動きを読み切った以上はあいての攻撃動作に先んじて攻撃を繰り出し一方的に封殺する。これこそがコン・タオローの本領、いや彼の修めた剣術の本領なのだ。
十手前の斬撃までもが網膜に貼りついて残るタオローの猛追をリュオウの屠竜刀が防ぎ逸らし、凌ぐ。無論、完璧に凌げるものではない。氾濫する水を板で堰き止めるに等しい試みに白亜の甲殻鎧はくまなくひび割れ、五十合を超えた時点でリュオウの全身は鮮血に染まりきっていた。
傍目には一方的な展開に見える剣戟であっても、当事者であるタオローにとってその内実は少々異なる。そもそも五十合も剣戟を重ねて未だ致命に至らないという戦局がタオローの不利を表している。同じ数の傷をタオローが受けたならば既に勝敗は決しているだろう。その頑強な肉体に加えて繰り出される屠竜刀は一撃必殺の威力。まともに受ければ魔杖刀ごとタオローが両断される。逆に言えば、その必殺の一撃を打たせた時こそがタオローが命を奪う最大の好機なのだ。あとはいかに必殺の一刀を放たせるか。あるいは封殺するか。
五十合の剣戟を経て、リュオウは勝ち筋を定めていた。剣技比べで勝てぬならばそれ以外の手段でもって、正面から粉砕する。
神速の魔剣なにするものぞ。過去の神秘は解体しつくされ、いまや普遍的な技術に変わった。タオローの魔剣がいかに神速を誇ろうとも、決して現代の咒式剣士の常識から外れた速度域にはない。戦いは物理力。速度と質量に優れるものがこれを制す。
神速によってリュオウを切り刻む魔杖刀にもつけ入る隙はある。単純な事実として大きく重い屠竜刀に比べタオローの持つ刀は細く軽い。長大な屠竜刀はその柄のみであっても、タオローの魔杖刀の質量を上回るだろう。
長物の常識として得物の質量はそのまま打ち込みの衝撃力に換算される。衝撃力の差はそのまま相手の動きを止める能力の優劣へと変換される。
そして先の手合わせからしてタオローとリュオウの剣速は互角。
故に、僅かに遅れて打ち込んでも、威力に勝るリュオウの剣が勝つ。タオローの剣は確かにリュオウの装甲された体に食い込むだろう。だが、それがどうした。相手の攻撃が食い込むということはこちらの攻撃も相手に当たっているということだ。屠竜刀の分厚い刀身はヌープ硬度を超える刃先の硬度と鋭利さのみがアドバンテージというわけではない。音速を超える100キロ超の刀身は、戦車砲の着弾にさえ匹敵する衝撃でタオローの剣を操る肉体を強制的に止めてのける。そして何よりリュオウの超人ともいえる前衛特化の肉体強度と、タオローの前衛よりの暗殺者としての肉体強度の差は、比べるのも馬鹿馬鹿しい。
やはり、この勝負はいかに一撃を叩きこむかの戦闘でしかない。つまりは肉を切らせて骨を断つ。
餌と仮定した自らの命をどこまで食わせるか、いつ引きを合わせるか。至難ではあるが、兵法という観点から見れば勝機は十分に残っている。
なにより、タオローの剣筋にも丁度「馴れてきた」頃合いだ。
リュオウの目に光が宿っていた。顔面に猛風を叩きつけられたような危機予測にタオローの肌が粟立つ。見えている。リュオウは今、確実にタオローの隙を捉えていると直感が告げる。
同時に突き出される屠竜刀はタオローの読みを数段超えて、10あるタオローの安全圏を7まで喰い破り、魔杖刀に補足される。
(太刀筋を見せすぎたか……)
刺突を化かす。引き戻された屠竜刀が再度繰り出されるよりも早く踏み込み、敵の腕を落として必殺の一撃に繋ぐ。やはりリスクを冒さなければリュオウの命を奪うには至らない。
さらに深く踏み込もうとしたタオローを身に染みた術理が制止する。
果たして術理の判断は正しかった。逆再生染みた速度で引き戻され、再び放たれる屠竜刀の二の矢はタオローに喉を貫く切先の冷気を想い起こさせる。
背骨を這う戦慄よりも速く迸る魔杖刀。修練の果てに体の一部と化した異物は、刃圏の外と見積もった距離で執拗に追いすがるドラッケン族の刃を危なげなく巻き逸らす。それでも五十合前の剣戟とは違い初段、二段、三段の全てがタオローの技量をもってしても返しの刃を放てぬ精度。
間合いを脱し三段突きを捌ききった直後、タオローの脳裏を僅かに不安が過る。
恐怖は僅かにタオローの踏み込みを躊躇させるには十分であり、それこそがリュオウの狙いだった。
三段突きに乗じて長槍形態にまで伸長した屠竜刀を上段に構え、突き放した間合いの外からの真っ向斬り。膨張する強化筋肉が甲殻鎧を内側から破砕する。強大な牽引力に支えられ、隼の速度の踏み込みを屠竜刀の速度に変換した一刀はまごうことなき鬼神の一撃。それは竜の頭蓋にさえ食い込み輪切りにすることを可能とするだろう。
だが、そんな人外の一刀もタオローの見切りの前にはあまりにも見えすぎる。
肉を切らせて骨を断つ気か。加速度で負けるならば柄を伸ばし、間合いを拡げ、加速幅を稼げばいいと。
望むところだ。一日前のタオローならば長柄の間合いに躊躇っただろうが、今のタオローには守るべき命などない。今はただ闘いに命を捧げるだけだ。先ほどの三段突きを前に生じた恐怖は既にない。
防げぬならば踏み込めばいい。
敵の誘いに乗る。この一合で雌雄を決する。斬撃の要となる左腕を合懸けに切り捨て、そのまま密着するほどの距離で胴をも裂く。
決めの一合でタオローが刺突ではなく斬撃を選んだのは、奇しくもリュオウと同一の結論に帰した。剣術という間合いのやり取りをリュオウが放棄した今、衝撃力に欠ける刺突では彼の動きは止められないと判断したのだ。
隼の踏み込みの、斬撃照準のその先。軽功を極めた男の体捌きは、ミリ単位に間合いを管理する十三階梯の剣士の感覚器さえ欺いてのける。風を裂き、意に先んじて迸る魔杖刀は戦車の正面装甲さえ切断する威力。
不可解だった。
刹那に先んじて軽功で踏み込んだタオローの位置は、リュオウの屠竜刀では間に合わず、タオローの魔杖刀が間に合う物理的限界。超絶の見切りを持つタオローにしか不可能な完全無欠の斬り技の一手。
間に合うはずがなかった。
だが、目の前のリュオウは重さゆえに間に合わぬはずの剣を、長さゆえに遅れるはずの屠竜刀を閃光のごとく振り下ろす。
なぜだ。その重さでなぜ間に合う。
刹那を置いてタオローの目に焼きつく答えは単純にして明快。重いのならば捨てればいい。振り下ろされるのは屠竜刀、ではなく────―その長大な柄。
迂闊であった、とは言い切れない。
杖術の持ち手から繰り出されたリュオウの一撃は定石の外にあった。敵の剣をあえて懐まで呼び込み、握り込んだ両手の間、柄の中ほどで切り逸らしながら相手を打つ。空裂音を上げて交差する二振り得物は物理法則に従って、その軌道を決定される。
すなわち、軽い剣よりも重い剣の太刀筋が優先される。
タオローの脳裏を過る後悔よりも左肩から左肺までを砕く屠竜刀の柄はなお早く……、その一撃で頭蓋を砕いて決着とならなかったのはタオローの与えた負傷がドラッケン族の想定を超えて深く、タオローに刹那の回避を許すほど攻撃動作を妨げたからだった。
腿力に物を言わせて間合いを空けるタオローに、再び一足一刀の距離を置いて、二人の剣士は向かい合った。
針で刺し止められたように微動だにせぬ肉体。零れる呼吸に、首筋を湿らせる粘ついた汗。手にした剣の重みが消えそうな意識に覚醒を与え続ける。四の目が、彼我の戦力を探り合う。
これで戦闘能力は五分と言ったところだろう。全身くまなく負傷したリュオウと、左肺まで砕かれたタオロー。負傷の量を傷の深さが埋めていた。
だがタオローは勝たねばならぬ。ここで勝たねば全てが消える。勝ってコン・タオローが存在したことを確かに証明せねばならぬ。
「秘奥を使う」
「なに?」
眉を顰めるドラッケン族にタオローは再び右手の刃を向けた。
「戴天流内家剣術の秘奥をもって、リュオウという剣士を打倒しよう」
そう宣言してタオローは始りの構えをとった。左肩から胸部を毒す先ほどの一撃など存在しないような立身中正。口の端から零れ落ちる血泡も意識の外にタオローの文殊村正はリュオウ一人を映していた。
……秘奥の奥などありはしない。タオローは既に全ての技を尽くして剣戟を交わしたのだ。それは六塵散魂無縫剣でさえ例外ではなかった。これ以上絞り出せるものなどタオローの内にはありはしないのだ。
だが、それがどうした。戴天流開祖ならば新たな技を鼻歌交じりに繰り出すだろう。あの兄弟子、劉豪軍という天才もまた、戦闘の最中にタオローには思いもよらぬ技を見出すに違いない。
つくづく剣のことしか思いが至らない。こんな有様になっても未だに、奥義の果てを見たいと渇望してしまう。
貫光迅雷の一突から屠竜刀と魔杖刀が接触する。
ここに至って、最早タオローには秘策も奇策もなかった。ただ正面から死力を尽くして切り結ぶのみ。もとよりそれが望みなれば。
十数年前に会得して以来、一度たりとも崩れはない得意技はしかし、今度こそリュオウの皮を断つこともできず逸らされた。
接触の刹那、タオローの化勁を超えて跳ね上がる屠竜刀は人喰い鮫のごとくタオローの右耳を噛み千切り引き戻されると同時に反転。冷や汗が浮き出るよりも速く、喉元から頭頂へと向けて縦一文字に這いあがる逆雷と化す。
血煙に火花が混じる。再び防御に合わせた魔杖刀から落雷のように全身を這うリュオウの勁力を、瞬時に乗っ取り自らの剣速と変化に換え魔杖刀を翻す。右籠手を外から狙い飛燕もかくやの旋回を見せる刀刃は、それ以上の急旋回を見せる屠竜刀の変化に防がれ無意味な火花を散らした。
(追いついただと。その巨大な刃で俺の剣に……)
タオローの内心に生じた驚愕は、剣士的冷静さのもたらす観察によって納得に変化していた。
先の一合。リュオウが伸長した屠竜刀の柄を、櫂を漕ぐがごとき持ち手で操りタオローの運剣に追いついたのだ。リュオウの構えは当然と言えば当然だった。長く重い物は短く持てばいいだけのことだ。全長が変化した屠竜刀は重心が柄寄りに変化する。小刻みに振るわれる切っ先がタオローの魔杖刀と噛み合い火花を散らす。
だが、まだだ。
意に遅れて放たれる攻撃など敵ではないはないと、一刀如意の境地のままに捌こうとした魔杖刀が、持ち主の戦闘力を代弁するがごとく軋りを上げて弾き飛ばされる。並の剣士であればその一刀で腸をぶちまけていたに違いない。弾かれた魔杖刀の勢いに逆らわずタオローは体を回転させ間一髪、難を逃れていた。
再び初撃の勢いで旋転し、さらに勢いを増した屠竜刀がタオローの右側面を襲う。間合いと斬撃の重さを防げぬと見て堪らずタオローは間合いを離した。間合いを離すタオローに追いすがるリュオウ。後退と全身の速度を比べればリュオウが勝るのは必然だ。たちまちのうちに二振りの刃が音を空裂音と共に火花を散らす。単純な剣戟になってしまえばことの帰趨は明らかだった。どのように受けようと、もはや刃の荒波を乗り越えられぬほどにタオローの剣は巧さを失っていた。二合の有利が、五合で釣り合い、次第にタオローの長套に出血の染みが増えていく。
いまや剣と剣が接触すれば押し敗けるのは常にタオローだ。一振りごとに落雷のようなリュオウの勁力はタオローの右腕の感覚を奪う。斬り合いの最中、敵の動きの遅滞を見逃すリュオウではないだろう。
十合先にタオローは己の死を視る。数度の旋転と剣戟を経て、さらに勢いを増して放たれる横薙ぎの屠竜刀がタオローの左腕の死角から打ち込まれる。
速度と重さが乗った屠竜刀の一撃を半身を負傷した体術では捌ききれない。
追い詰められて、一つだけ思い至ることがあった。なぜ十連続の刺突なのだ?なぜ、戴天流の組み立てを放棄してただの十度の高速刺突を奥義へと設定したのだ?それでは敵の理屈の肯定ではないか。
だから。
恐らく六塵散魂無縫剣は奥義への扉でしかない。
二と三が過ぎる。
瞬間、タオローの頭部に光が飛来した。それは、胎児が母の体内にいながらも腹の外の世界を認識するに等しい出来事だった。
四の刺突に体が崩れる
つまりはこうだ。タオローは、いや兄弟子も、どころか師父さえも、開祖の掌の上の存在にすぎない。
画家が雄渾な竜の絵を描いて見せたというのに自分たちはその一筆一筆の見事さに気を取られ、竜の絵を見落としていたのだ。
五と六の石突を返しての奇襲に、逸らし切れなかった勁力が刀身を激しく振動させた。
戴天流の本質は敵の脳‐神経への攻撃である。詐術と言ってもいい。人間の感覚器を欺き自滅を誘う動きを戦技に取り入れ、間合いを捻じ曲げ、機を狂わせる。
そうでなければ超音速と重機の怪力を併せ持つ攻撃を人の身で回避することなどできはしない。だから、ようやく見えた。この一手の、この世界を継がせるために開祖は戴天流を作ったのだと。
七の斬撃を受け、とうとうタオローの指から血が噴き出した。
兵は欺道である。所詮、社会秩序に反する技法を喜んで振るうものは殺人者に等しい。戦いなどそもそも起きてはいなかったのだ。
八の蹴りは避けるに値せず、九の直突きも同様に何もない空間を素通りした。
光が散乱する。音が早くも遅くも聞こえる。時空と認識していた事象がリュオウの周囲で捻じ曲がる。
十合目。
放手奪魂の袈裟切りが、深々とリュオウの体を分断する。背骨をも断った魔杖刀の帽子がリュオウの右腰のあたりから飛びだして、両者は触れ合わんばかりの距離で停止していた。
「やるではないか……。今の一手、目に写すことも敵わなかった」
支えとなる骨格を両断され、前に倒れるリュオウの巨体をタオローが支えた。
「リュオウ。すまない……すまない」
刀身の圧し折れた魔杖刀がタオローの右手から零れ落ち、音を立てる。
「あやまるな。この結末が私が望んだことだ。戦いは楽しい、楽しいな。血反吐を吐き、刃を叩きこみ、内臓を抉り合う。サイコロの出目でその日の天気を占うように、死力を尽くしてなお勝敗は不確実だ。これだから戦いは止められない」
タオローの瞳を覗き込むリュオウは澄んだ目をしていた。これではどちらが勝者なのか分かったものではないではないか。いや、初めからこの戦いに勝者などなかったのだ。
ゴボゴボ、とドラッケン族の口から血泡が逆流した。
前のめりに倒れるリュオウをタオローは手を添えてゆっくりと、そのまま倒れさせた。勇猛なドラッケン族の死に方はその方が相応しい。
床に突き立った屠竜刀が倒れ込む。戦う力を失ったリュオウから離れ、屠竜刀はタオローの右手に柄を寄せた。ドラッケン族の手であれほど軽々と振るわれていた屠竜刀は、タオローの手には重たかった。
視界が暗くなっていく。擦り切れた黒の長套がリュオウの刃を手に離れていく。
願わくばコンタオローに剣と月の祝福を。彼の手に我が魂の残響を。
体内に打ち込んだ電磁パルスが通信機器を破壊する。
手に馴染まぬ屠竜刀を下げ、タオローは聖堂の床に空いた穴を覗き込んだ。
穴の底はどれほどの虚無か知れない。
あと3話くらいだと思うのですけど