長方形の角を丸めた窓から景色が流れていく。駅の雑踏を離れ、列車の個室に辿りついたことであなたはようやく息苦しさから解放されていた。人混みというのは、どれほど強くなったとしてもやはり、あなたの心を疲弊させる。心の傷跡には物理的な戦闘能力など意味をなさないことは、戦場帰りの兵士がちょっとした物音に過敏に反応してしまうことからも明らかだろう。だから、人に対して臆病になってしまうことは別に自分のせいではないと、あなたは窓枠に頭を預け、ガラスの向こうに視線を送る。
空が青かった。遠くざかっていく景色の川は色と線の混ざった奇怪な立方体に過ぎなかった。いつかヒルズのこともこのように受け流せる日が来るのだと思う。
……彼女は死んだ。そのことに対して未だにどのような形で惜別を迎えればいいのか分からない。
ヒルヅは地下の聖堂で、抗うことも出来ずに無惨な死に方をした。
具体的には全身の急所に鋼の槍が撃ち込まれ、切り離された頭部は焼け焦げた断面を浮かべていた。
証拠はないが、犯人が誰であるかは明らかだった。ただ、不思議なことにヒルヅに対する悲しみも犯人に対する怒りの念も今は判別できない。その代わりに疑念が残っている。なぜ、あんなにもあからさまな形でヒルヅを殺害したのかという疑念だ。もちろん、あの女とは別の誰かが殺した可能性もある。しかし、使われた咒式とそれからあなたの情報を持っている人間というのが限られているだけだ。
ことの真相は今となってはもう、分かるはずのないことだった。となれば、あなたに出来ることはただ一つしかなかった。この列車に乗ってドラッケン族の里に行き、屠竜刀を持ち主の家族に返還することだ。たとえあの男が自分の人生を狙った裏社会の人間であったとしても、今際の言葉には真実があると思えた。
あのあと、少しだけドラッケン族についてエリダナの図書館で調べたが、どうもあの一族は傭兵業で集団を維持しているらしい。そこならば、あなたの進むべき闘争の道も示されるだろう。
ほかに何か考えるべきことはあるだろうか。
ない。メモ帳にあるだけの記憶と思考を書き込んだあなたは、サンドイッチの最初の一切れを牛乳で流し込んで目を閉じた。
もしあの時。もっと強ければ、彼女を助けられた。
いや、そんなことはあり得ない。
「そう。そんなことはあり得ない」
誰だ。問うまでもない。その声を聴くだけで、あなたは憎悪と恐怖で全身が震え出す。個室の扉が開けられ、カタカタと振動していた。
「この世に強さランキングなんてものがあるのなら、私は個人部門で上位百名に入るから」
いる。脳内に語りかけるこの声はけっして幻聴などではなく、むしろもっと近くに。
意識の覚醒と、眼前の仇敵の認識と、掴みかかる動作にようした時間は五十分の一秒未満。
左右の手が組み合って、腹のそこから声にならない戦意をあげる。
「ジネブラァ!!」
竜の剛力と質量を眉一つ変えずに受け止めて、女は椅子に腰かけたままあくびを一つこぼして見せた。
「竜の血族はあなた一人ではないし、覚醒者もまた一人ではない。長生きはしてみるものね。こんにちは同類」
問答などいらない。この女に対しては殺意のやり取りだけがあればいい。だが、女の手は竜の腕力にも微動だにしなかった。
「聞く気はない?では私は勝手に続けるとしますか。あなたを作り出したベギンレイムの尻尾はまだ壊滅していない。私が遊び半分で叩き潰したのは単なる支部ね」
そんなことはどうでもいい。胸の内に黒い竜が燃え上がる。その竜は初めから今までこの女を殺せと叫んでいる。
「まあ、続けましょう。ヒルヅはそもそも傀儡に過ぎない。本来の目的とは別でも、覚醒した竜の血族を放置するほどあの組織は無欲じゃないもの」
色がパズルのピースのように崩壊を始めた。
「だから叩き潰してやった。私の生存がバレてもそこそこ面倒だし」
「嘘だ」
嘘ではない。ジネブラの脳波は本当のことを喋っているとあなたには分かる。だとしたら、どうしたというのだ。そんなことでジネブラの罪が清算出来るわけがない。
「信じたいものを信じればいいし、信じたくないものは信じなくていい。私にとって重要なのは楽しいことだけってこと」
「楽しいこと?」
爬虫類の目を細めて、恍惚とした表情でジネブラはゆっくりと噛み締めるように続けた。
「美少年を犯すこと。熱いお風呂に入ること。美味しい料理を食べること。無駄に複雑な策略を無茶苦茶に破断させること。意味もなく命を懸けて戦うこと」
ああ、とあなたの口から嘆息が漏れる。
ジネブラの発言には何一つ偽りがなかった。だとしたら。こいつは何だ?
ここに至ってあなたは何を告げればいいのか分からない。ハッキリと分かるのはこの女と自分とでは前提条件が違い過ぎるということだけだ。
「長生きをしても自殺したくならないコツは、適度に違う刺激を味わい続けることね。百年ほど生きて気が付いた。あ、これアドバイス。あなたもいずれ私になる」
その嫌悪は、論理的帰結の正しさを直感したからに他ならなかった。間違いなく自分もいずれジネブラと同じになる。感じることが衰え、原始的な刺激のみが唯一自我を保つためだけの存在に。
竜の体には人の心は長すぎて、体よりも先に心が朽ち果ててしまうのだ。
「じゃあね。」
いつの間にかあなたの手は相手をなくし宙を彷徨っていた。席を離れ遠ざかっていく仇敵の背中に、あなたは凍りついた舌をようやく動かす。
「逃がすわけないだろ」
「逃がすに決まっている。あなたが全力を出せばこの列車は崩壊して、乗客が巻き添えになる。あなたにはそんなことは出来ない。あなたは自分の命を捨てることは出来ても、他人の命を奪うことを良しとしない性格だから」
その通りだった。あなたはジネブラにはなりたくない。だから、ここでの戦闘は出来ない。すべて見越したうえでこの女はやって来たのだ。
心配しなくていいとジネブラはあなたを見下ろした。
「あなたは、いずれ私に辿りつく。組み合って分かったが、あなたは私とは違うようだ。竜ではなくさらに禍々しいものが混ざっている。だから、」
あなたは何があっても私を許さないでしょう。
女の足音が遠ざかっていく。足音はすぐに列車の振動に飲まれて消える。消えていく。
嗚呼、嗚呼とくぐもった呻き声を上げながら、ずぞぞずずとおぞましい呼吸とともに鱗のない竜から這い出る虹色の粘液質は、数列の燐光を散乱させながら地下空洞の闇にその姿を現した。その粘液質はしばらく時間をかけて、まるで忘れていた記憶を探すかのように幾つかの形態を試み、宵闇に輝かんばかりの竜の巨体を取り戻す。
彼こそは光越竜ジ・エピアルテス。竜にして竜という枠を超え、別の形態をとった異貌である。
もう少しこう、練らなきゃね。さらば