シャワーを浴び終えたあなたはジネブラに渡された服を見て大きなため息をつく。ハイネックでノースリブの黒くぴっちりとした上衣は腹筋丸出しで、スパッツめいた下衣はあれですよ、膝までしか丈がない。この格好はカマホモ扱いされても仕方がないのではないだろうか。それともこの世界では常識の範囲ないなのだろうかとあなたは頭を悩ませる。少なくとも最後の一線を守るためには理由が必要だ。1、2、3、4……あなたは閃いた。
仮に自分を購入する人間がいたとして、そういう奴は間違いなくペドフェリアを拗らせた変質者なので、この体のラインを強調する露出の多い服装はそういった人向けのセックスアピール的な目的があるのだろう。
しかしこれを着ないとあなたは、一週間も着用を続けていた不潔な服を着なければならない。また不潔な服を着用した場合は、ジネブラの指摘した通りに購入額が下がりぞんざいな扱いを受けるやもしれぬ。というわけで、この服を着るのは断じてあなたの意思でによるものではなく、あくまで商品のラッピング感覚に基づくものであり、その責任は服を選んだジブネラにあるのであってあなたにはない。
仕方がないのでこれを着るだけである、とあなたは出来るだけ鏡を見ないようにして手早くそれを着用した。せめてこの上に羽織るものがあればまだマシなのにと顔をしかめる。最後に用意されたブーツを着用すれば満足だろうか。これまでの服装はビニル袋に入れて、備え付けのゴミ箱に投げ捨てる。あの体臭が染みついた服も変態にとっては需要があるのかもしれない。
……いや、やはり文句の一つもつけるべきだろう。あなたは肩を怒らせバンの止めてある場所に向かう。せめてコートでも羽織らなければ恥ずかしくて街を歩くこともできないではないか。セックスアピールのためにこの服装が必要ならば、取引先に行ってからコートを脱ぐべきだ。これなら理屈も通っているし納得するだろう。
そういうわけでジネブラにお願いしようと思ったのだがバンがない。
バンがあるべき場所には、代わりに小型の自動車が停められている。そのカブト虫のような形の小さな車体は、どこか古い時代の優雅さを漂わせている。以前動画サイトで見た海外の白黒映画で、このような車体を見た記憶がある。四人乗りの優雅なかぶと虫は海沿いの道をどこまでも走るのに最適だ。
と、まあこんな風にあなたが冷静でいられたのは、車体に寄り掛かるジネブラが幸せそうな表情を浮かべながら寝ていたからだ。よく分からないが彼女はこの車種に愛着があり、一時的な都合で手放していたのかもしれない。
「おい、起きろ、」
指でジネブラをつつくとあと三十分などと抜かす。居眠りし過ぎて追手に捕まったなんてマヌケすぎる。あなたはもう少し強めにジネブラの肩を叩く。
「んん゛!?寝てた!?今私寝てた!?」
顔を上げた女は着替え終えたあなたの姿を見て目を輝かせ、涎のあとを慌てて拭った。
「それはもうぐっすりと、」
「あちゃー」
あなたの呆れ顔から目を逸らし女は顔を覆い天を仰いだ。
「それでこの車は?」
「この子は私の愛車バルコム
愛おし気に女の指先がバルコムを撫でる。薄く細められたジネブラの目は、どこか遠い場所を見ているようだ。甘酸っぱい思い出、取り戻せない黄金の日々がその車体には詰まっているのだ。まあ、そんなことはどうでもいい。
「いや、峠の虐殺魔王とは一体何者なんだ?」
明らかに走り屋につけられる名前ではない。あなたの質問にジネブラの目が暗く沈む。きっと嫌な思い出があるのだろう。深く聞くと転生先の世界がまた嫌いになれそうなので、あなたは不穏な単語を無視することに決めた。
「ま、それはそうとして。モチベーション補給ね」
呆れ顔のあなたをジネブラが抱きしめる。甘い匂いがあなたの鼻をくすぐる。あなたはその匂いが気に食わなかった。
「ジネブラさんシャワー浴びたら?なんか臭う」
「犯すぞクソガキ」
これでいいのだ。
ふざけたやり取りも束の間のこと、何かを感じ取ったのかジネブラの表情が真剣味を帯びたものに変わった。便乗して頭を下げ身を隠そうとするあなたをジネブラの手が引っ張り後部座席に放り込む。
「連中、もう追いついたみたいだ。急いでここを出ないと」
ジネブラの言葉の直後にボンネットの上で火花が跳ねた。追手の銃撃だ。しかいバルコムには特にダメージがあるように見えない。なるほど、この車は特注品なのだ。そうでなければわざわざバンから乗り換えようとはしないだろう。
「さっすが一千万イェンの防護仕様ね。持ち出した金をつぎ込んだ甲斐があったわ」
「いや、それだけの金があれば十分人生をやり直せるだろ!?」
「こっから先の人生は働きたくないの!!資産運用で暮らすに限るわ!!」
そのために人身売買に手を染めるのは限りなく性根が腐っている。再び着弾、発進と同時にハンドルを切ったバルコムのフロントガラスに連続して銃弾が命中し、横一文字に火花が走る。
「おらおら!ジネブラさまのお通りだぁ!!」
バルコムが急加速、連射は続き正面に火花の豪雨が弾けるが、ジネブラは気にもせず更にアクセルを踏み込む。正面には機銃を構えた男が四人、慌てて回避行動に移るが恐らく間に合わない。バルコムの加速性能は明らかに一般道路を走るには過ぎた代物だった。豪胆な男の一人が肩に担いだバズーカ砲を放つが、一切の躊躇なくバルコムが加速する。
ジネブラは車の防御力に任せて敵を轢き殺すつもりなのだ。正気じゃない。あなたの顔はいつになく真っ青だ。鈍い音を立てて砲弾が弾かれ明後日の方向で火柱を上げる。鈍い激突音とともに避け損ねた二人が宙を舞う。躱した二人も銃弾が切れたのだろう。追撃はない。
「ふんふん、これなら峠の虐殺魔王とも渡り合えそうね」
愛車の性能に満足したジネブラは、カーステレオから流れる曲に合わせて鼻歌なんかを歌っている。勇壮なテンポを支配する声が綺麗なので歌手の名を尋ねたらルルリューと返ってきた。マズカリー王の行進曲をアレンジしたものに歌を加えたものだという。
気に食わない。それは客観的に見てもいい曲だ。けれどもあなたはこの勇壮で、前に進む力を唄う声もなにもかもが嫌いだ。
あっという間に曲がサビに入る、パーキングエリアの看板はもうはるか遠くに流れて消えていた。これでしばらくは大丈夫だろうか。
「あと三時間でエリダナね。付いたらゴーゼス経済特区に行くわよ」
「ゴーゼス経済特区?」
「ラぺトス七都市同盟とツェべルン龍皇国を分けるオラリエル大河、その河口にある人工島をそういうの」
「なるほど、いかにも裏社会だの非合法組織がいそうな場所だ」
「そう、多分あなたの終生の地ね」
一度入れば二度と出られない。言外にそう言われてあなたは急に背筋が寒くなった。寒くなったところでどうしようもないのがなお悪い。あなたは暴力も知略も持たないガキで、隣にいるのは暴力の専門家だ。逆らえば殺されるとはならないまでも四肢を捥ぎ取られ昏睡させられる。その程度はやるだろう。
「……たかが四肢を捥ぎ取られる程度か」
言葉にすると恐怖が退いていく。それなら怖くない。仮に失敗したとしても、女はあなたを殺すことは出来ないのだ。天に運を任せてみるのも悪くないのかもしれない。とにかく死ななければ逃げ出す隙はあるし、逃げ出すならばどこかの強大な組織から追跡が掛かるような立場になる前がいい。
「何か言った?」
ジネブラの疑問をあなたは首を振って追い払う。
それには単なる街中は不味いだろう。相手に追跡をあきらめさせるくらいの、探すのが事実上不可能だと思わせるぐらいの場所から逃げなければ駄目だ。たとえば嵐の海に飛び込むような、それくらいの危険を冒さなければこの女からは逃げ伸びられないという気がする。
いや、成功率は悪くないはずだ。
現状では、ジネブラは逃げるあなたを探しながら、同時に組織の追手の相手もしなければならない。こうなると普通に逃げるよりもはるかに逃走の成功率は上がる。
カーステレオから流れる曲はいつの間にか変わっていた。先ほどとは打って変わって、暗い中でオレンジ色の炎が燃える曲だ。
追放された民族が、逃げた先でも迫害される。迫害に立ち向かった人々も敗北し縛り首になり大樹に吊るされる。ゆらゆら揺れる主人の死体を一度餌を与えた子犬が不思議そうに見上げている。
陳腐な歌詞の内容が、ルルリューの圧倒的な歌唱力によって命を吹き込まれていた。この歌は、自分のことを予知して書かれた、そんな気さえした。
車がエリダナ市へ到着した。
追跡は振り切ったのか停留所を出て以来、追手からの襲撃はない。灰色の城壁を抜けると、車の窓越しに人の熱気が押し寄せてきた。時間帯的に会社員の退勤時間にはまだ早いのだろう。道を行くのはあなたと同じ年頃の学生たちだ。髪を染め、贔屓のスポーツ選手で論争し、雑誌の記事を話題に友人と馬鹿笑いしながら歩いていく。あまりにも羨ましい光景だ。そうあなたは思う。特別な能力、優れた容姿、そんなものよりも普通の生まれで人と仲良くできる性格のほうが余程優れている。あなたは、転生前の選択がほとほと愚かだったと、自分自身に呆れるよりほかなかった。運動神経が鈍い、頭が悪い、だからそれを補えば彼らの輪の中に入ることができる。そんなものは都合のいい妄想だ。あなたには輪の中に入るために、自らを変えることのできる強さがなかっただけだ。
それでも地球は回っている。あなたは一人で生き続けなければならない。生き続ける限り「あなた」は変わらないからだ。背筋を撫でおろす冷ややかな絶望感を深く噛み締める。
バルコムが市内の道を進んでいく。
エリダナはあなたの予想を裏切るほど大きな都市だ。
市を二つに分かつオラリエル大河は空の色と同じく青い。あなたを乗せたバルコムはオラリエル大橋を渡ってラぺトデス七都市同盟側の岸へと迂回する。これも追手を撒くためだ。ツェベルン龍皇国側からオルテナ橋を渡ってゴーゼス経済特区へ向かう方が確かに早いが、最短距離は敵にも予測されやすい。
あなたの乗るバルコムは今、橋を渡っている。川の上を渡っている。今しかないとあなたはジネブラの様子を伺った。
思った通りだった。目の下に隈ができ、目はどこか集中を欠いている。一週間の逃走生活で彼女は憔悴しているのだ。前を行く車のあまりの遅さにジネブラが舌打ちを一つ、二つ。バルコムの走行速度が低下する。
今しかない!
あなたは風圧に負けないよう全身の力を使って助手席のドアを押し開け、身を投げた。
「はぁ!?」
風の音が耳を打ち、肌がアスファルトにすりおろされる。衝撃で呼吸は完全に停止。骨折はないが動けない。はるか先に停まったバルコムから女が降りてくるのが見えた。
一秒前までは立ち上がることもできなかったが今はもう動ける。不死身の体に今回ばかりは感謝しながらあなたはオラリエル大橋の柵を乗り越えた。
眼下に広がるのは七十六メートル先の水の流れ。
迷っている暇はない。女が魔杖剣を抜いてすぐそばまで迫ってきているのだ。
「おおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああ!!」
絶叫で理性を投げ捨てて、あなた宙に身を投げた。風が金切り声を上げてあなたの肌を流れていく。着水まで約四秒。着水時の速度はおよそ時速百三十八キロメートル。
「生存率は1.95% ……クソ」
ジネブラは橋の上から見る水柱に悪態をついた。
せめて足から、四秒の間にあなたが考えたのはたった一つだけだ。
巨人に殴られたと思うほど衝撃に意識を飛ばされ、激痛に意識を戻されまた失う。海水交じりの塩辛い水を呑みながらあなたは必死に周囲を把握しようとした。前後左右に加え上下はどちらか、浮上するつもりで沈んでいるのではないか。落水の衝撃で肺が縮んでいるためか、溺れることはなさそうだが、酸素の足りなくなった頭が段々馬鹿になっていく。
死ナセヌ!
あなたの脳に直接響くイメージが消えかけの意識を叩き起こした。悪夢が視界を乗っ取るように、晴れやかとはいえないまでも川底と水の境がはっきりとして来る。尾骨から伸びるもう一つの感覚は恐らく尾だ。
再びあなたは竜へと姿を変えていた。
ぬがばちょ!!