「兄……貴……」
ああ、お前は……。
私の手を一番先に取ったのは、ククールよ、お前なのか。
なぜ、そんな暗い顔をする。瞳に光がないではないか。
「あんた、痩せたな……」
「そうか……」
「ところで、ここはどこだ?」
私は、まだ覚醒していない。ぼんやりした意識の中で懸命に自分の置かれた状況を理解しようとしていた。
だが、弟は、移動呪文を唱え、私をどこかに連れて行こうとする。奴の知り合いのところを回っているのだろう。だが、弟はどこへ行っても周囲を気にし、私を隠すようにしてひっそりと接触を図っていた。
そうだろう、私は罪人なのだ。勇者の一人、ククールが怪しげな人物を連れていた、などと聞けば、ただちにその人物は彼の異母兄なのであろうと容易に想像がつく。
数か所を訪問した後、弟は人気のない草地で腰を下ろした。弟は難しい顔でうつむいていた。青い瞳はただ足元の一点を睨んでいるが、見ているものは脳裏に映ってはいないのだろう。ため息を押さえているのか、呼吸は浅く、肩に不自然に力が入っている。胸の内に何を秘めているのか、私は知りたいとは思わなかった。
私は、この弟に従っていたいと思った。成し遂げたかった野望は潰えた。生きてしまっている今、この弟に従い、懺悔の日々を送るだけなのだろう。
弟は、ゆっくりと顔を上げ、のぼり始めた月を瞳に映した後、押し黙ったまま私を見た。これからどうしてよいかわからなくなったのだろう。騎士団訓練生だった幼い頃によく見せていた困惑がその表情に現れていた。
「……もういい。貴様が私をどこへ連れていこうが全く興味はないが、貴様の知り合いが面倒事に巻き込まれるのは本意ではない」
「……」
「……ドニへ連れていってくれ」
雨が降っていた。
私は川で身を清めた。
数ヶ月の間、私はゴルドの底で過ごし、海風にさらされていた。
弟は、私が身を清めるのを、少し離れたところで見ていた。
昔のことを思い出しているのだろうか。
不思議だ。弟に対する積年の暗い思いが私の中にない。
憑き物が落ちたということか。
暗黒の力を失ったと同時に。
弟は、私にフードのある着物を着せた。フードを深く被せられ、背を丸め、老人のように歩けと言われた。
深夜をかなり過ぎていた。私は身体のきかない年寄りを演じ、指示された部屋に入った。弟は酒場に行ったようだった。
私は温かな湯を浴び、清潔な寝台に横になった。
身体はこのような安楽な環境を欲していたようだ。睡魔がすぐに襲ってきた。私は、何の恐れも抱かずに睡魔の手に落ちた。
なぜか、穏やかな心持ちであった。
ただ、弟に従っていたいと思った。
おそらく、それは幻想なのだろうが。
しばらく、そのような時が必要な気がするのだ。
弟は、このドニの宿屋に私を隠した。従業員は誰一人、部屋に入って来なかった。弟は食物を運び、2、3日に一度、深夜に散歩に連れ出してくれた。
弟は常に周囲に気を配り、怯えているようにも見えた。
ある晩のことだ。
「一緒に寝ていいか?」
真面目な様子でそんな申し出をしてきた。
「好きにすればよい」
私はそう返事をした。
弟は、この一人部屋で寝台を私に使わせた。自分はずっと小さな椅子て眠っていたのだ。何度も寝台を明け渡そうとしたが、そのたびに「兄貴が使え」と言うので、それに従っていた。
私は身体をずらし、弟の眠る場所を作った。弟は無言で私の隣に身体を滑り込ませ、静かに眠った。大人二人、奇妙な光景だが、寝相が悪いわけではないので、そんなに窮屈な思いもせずに眠ることができた。
それから私と弟は、毎晩隣り合って眠った。昔の弟ならば、私の身体に触れたがり、または強引にでも悪さをしようとした。だが、今の弟は、なんの言葉も発さずに静かに眠った。
私に興味がなくなったのか、伴侶を得たのか。だとすれば、なぜ、私と共にいるのだろうか。
何日か穏やかな夜が続いていたが、弟は、苦しそうにうなされ、涙を流すようになった。私は、そういう時には、弟の髪を撫で、口づけを与えた。
弟は私にすがり付き、声を殺して泣いた。弟は私に腕枕をせがんだ。私はそうしてやり、空いている方の手で髪や背を撫でてやった。
弟は、私の胸に顔を埋め、やはり声を殺して泣いた。毎晩、抱き合って眠った。私は夜の間中、口づけを与え、身体を撫でてやった。
弟は、静かに眠った。幼い子どものようだった。
ある晩、突然この宿にサヴェッラの騎士団が入ってきた。一斉調査なので、部屋をあらためると言う。
私たちは窓から飛び降り、弟が素早く移動呪文を唱えた。
「ここはどこだ?」
「……三角谷というところだ」
初めて聞く名だった。
これまで見たことのない世界。平和に満ちているような世界だった。
しかし弟は、森の茂みに隠れた。そして音を立てぬよう、慎重に村の方へ向かった。
やがて、村の入り口が見えてきた。小さな集落だ。夜行性の小さな魔物がふわふわ浮いている。
しばらく様子を伺っていると、水色の巨体を揺らし、ギガンテスがやってきた。
弟は、私の手を取り、ギガンテスに着いていく。
ギガンテスは悠然と歩き回り、やがて森の奥、泉の近くで座った。
「いい時間だよ。本当にいい時間だ」
一緒に着いてきたドラキーがふわふわと辺りを飛びながら言った。ギガンテスは星空を見上げた。
弟は、ギガンテスの前に進み出る。ギガンテスは、大きな一つ目をぱちぱちとさせ、私たちを自分のかいたあぐらの中に入れた。ひんやりしたギガンテスの身体は、しっかりと私たちを隠した。
「エイトが来たよ」
ドラキーは、独り言のように呟いた。
私たちは、ギガンテスのあぐらの中でじっと彼の話を聞いた。
「兵隊を3人連れてきた。ラジュと話したよ。エイトは2人を置いて、もう一人とすぐに帰った。エイト、言ってたよ。ネズミがいなくなったって。でも寂しそうじゃなかった。だから聞いたんだ。寂しくないのって。そうしたら、ネズミは多分家に帰ったんだろうって。だから寂しくないんだって」
エイトとは、あの赤いバンダナの少年か。
計り知れない強さを秘めた、不思議な少年。彼はトロデーンの兵士というが、本当であったか。
「兵士が聞くんだ。他の勇者が来たかって」
ドラキーはギガンテスの頭上をくるくると回りながら飛び、そう言った。
ククールが身を少し固くする。
「だから言ったよ。エイトが連れているのが勇者なら、最近はあんたたちだけだよ、って」
「……」
「ククール、ネズミに会ったほうがいいよ」
「……」
「本当、いい時間に来たね」
「……」
「一番大事なこと……結婚式が決まったんだよ。ギガンテスの影にかくれて、ネズミの家に行くんだ。そしたらククール、早く町へ戻れ」
「……」
「今が、いい時間だ」
そう言ってギガンテスも立ち上がった。
弟と私も立ち上がる。
「早く、戻るんだよ」
弟はドラキーにうなずいてみせ、移動呪文を唱えた。
次の移動先も、見たことのない世界だった。
エイトさんの言った通り、世界中で指名手配されている兄マルチェロ。三角谷にも捜索隊が入っていました。次は竜神族の里へ行きます。竜神族の里へは、トロデ王、ミーティア姫は訪れていない設定です。