「ここでの暮らしは、慣れましたか?」
ささやくような女の声が聞こえた時、私はうとうととまどろんでいた。
「……女神か……」
「……」
声の主は鉄の格子のすぐ近くにいるようだが、死角になる場所にでも立っているのだろう、姿は見えない。
その人物は、私の下らない冗談に返答することはなかった。無言であるのに、既に会話の主導権を握られたように思われる。
さて、厄介なかたが現れたことだ。
「わたくしが誰なのか、お分かりですね」
鈴を転がすような、と表現すればよいか。細く高めの声は、小さいがよく通る。
「……お姿を拝見するまでは、と申し上げたいところでございますが、お目通りは望みますまい。姫君。いや、陛下」
「わたくしがただの姫ではなく、王妃になったとお思いですか」
「いえ、王配を迎えられたと考えておりますが」
「……変わりませんね。へりくだったようにも聞こえる、高飛車な物言いは」
「恐れ多いことでございます」
「まあいいでしょう。一つ教えて差し上げます。わたくしは王位についてはおりませんわ。お父さまも、クラビウス王も在位なされておりますのよ」
「左様でございますか。ご健在で何よりですな」
何か気にさわったのだろうか。場に嫌悪感が漂う。束の間、冷たい静寂が場を支配する。
「……あなたは、女性を蔑視しています。……それとも、やはり王室は蔑むべき存在ですか?」
「さて。そのように考えたことはございません」
久しぶりに脂汗がにじむ。こちらは懸命に平静を装っているというのに、姫君は、まるで氷柱。冷たく美しく、そして危険だ。
「自分の罪をどのように思うか……そんなことを聞きにきた、とお思いですか?」
「さて。私は姫君ではございませんゆえ、お考えを言い当てることなど不可能と思われます」
姫君にはまた高飛車な物言いに聞こえただろう。だが、全くその通りなのだ。訳がわからぬ。
なぜ、ミーティア姫がこんな所へ。
トロデ王が私に嫌みを言いたいのはわかる。が、姫君までがこんな薄暗い地下牢へわざわざお越しになるとは。私に何の用があるというのだ。
女の考えを蔑視しているつもりはない。予想がつかないのだ。
長い間、男ばかりの環境。シスターを除けば、関わりのある女性と言えば貴族のご婦人くらいだ。それも互いの立場を守っての関わりのみ。
私は、盛大なため息を懸命に飲み込む。
「……では、どのようなご用件かとお尋ねしてもよろしいか。姫君」
私は牢の奥へ下がり、居住まいを正した。
衣擦れの音。
牢の端に、青と白の衣の裾が見えた。
「ククールさんはどこにいるのです?」
「ククールですと? さて、私にはわかりかねます」
ククールは姿を見せていないのか。
「嘘をおっしゃい!」
「嘘ではございません。私は一人でいるときにトロデ王以下……」
「知っています。お父さまもエイトも兵士も見ていますから。あなたは、ククールさんと一緒にあの竜人族のところへ行ったのでしょう? 竜神族の里へ行く前、いえ、あなたはゴルド崩壊の後、いったいどこにいたのです」
ゴルド崩壊後のことなど、トロデ王には聞かれなかった。なぜ、姫君がそんなことを知りたがるのか。
「失意のまま、あちこち放浪しておりましたが、結局ゴルドの底におりました……その後、女神の思し召しであったのでしょうか、深い井戸の底のような場所へ行き、そこで弟に助けられました。その後は、ドニに潜んでおりました」
嘘を言ってはいけない、と思った。ククールの話と違っていたら困る。ククールと再会した場所は、事実、どこなのか不明だ。
「ドニから竜神族の里へ行ったのですか」
「いえ」
「ではどこへ?」
三角谷のことを伏せておくべきか、一瞬迷った。だが、あの場所は、私たちが訪れた時、すでにトロデーンが入っていた。
「……これまでに一度も訪れたことのない場所でございました。弟の移動呪文でドニから移った場所です。……場所の名は、失念してしまいましたが、村の入り口に魔物が飛んでおりました」
姫君は三角谷へ行ったことがあるのだろうか。
「……わかりました。場所の名を教えて差し上げますわ。三角谷です。人と魔物が共に暮らす、美しい世界。その後はどちらへ」
「竜神族の里です」
やはり、姫君は三角谷のことは知っておられたか。
「ククールさんとずっと一緒に竜神の里にいたのですか? あなたを発見した時は、ククールさんは一緒ではなかったと聞いております。下界と行き来していたのですか?」
「私はずっとあの里におりました。ククールは一緒ではございませんでした」
「では、ククールさんはそのあとどこへ行ったのです?」
「さあ。あれは私を竜神族の里に置くと、どこへ行くとも言わずにすぐに姿を消しましたから。それから一度も会っておりません」
三角谷の魔物は、町へ戻れ、とククールに行っていた。町、とはドニのことではないだろうか。
「信じられません。ククールさんがあなたを放っておくなど」
「あれをお探しなら、ドニを探されるのがよろしいかと。ならず者のパルミドや、ベルガラックも居そうですが」
「そんなところはとうに捜索しています」
姫君は少しの苛立ちを見せた。
「あれを探してどうなさるおつもりですかな」
「……サザンビークへ……同行してから、行方がわからないのです」
サザンビークへ同行?
そうか。弟は一度皆の前に姿を現し、再びどこかへ姿を消した。サザンビークへの用事とは、勇者一行がそろっていなくてはならなかったのだろう。その用事とはたった一つ。
「婚礼のお断りに行かれたのですな」
「そうです。エイトが真に、サザンビークのエルトリオ王子の忘れ形見であったことをクラビウス王に進言しました。クラビウス王はエイトをお認めになり、わたくしとチャゴス王子との婚約は破談になりました。わたくしがエイトを王配とすることで、サザンビークとわがトロデーンに伝わる古くからの約束も果たすことになりました」
やはりか。最善の策だ。
あとはククールに私を討たせれば、勇者である王配の地位も安泰ということか。
「エイト殿が知っておられよう。または、他の二人が……」
「そんなことは続けておりますわ」
姫君は苛立ちを仕舞い込み、冷たくそう言い残すと、足音も立てずに去って行った。
ククールが姿を消した。あの根なし草、どこをふらふら遊び歩いているのだろう。逃げ回っているとしたら、移動呪文が使えるあの男を捜索するのは難しい。それとも、まだ知られていない場所でひっそり暮らしているのか──。
彼らがサザンビークへ行ったのは、私が竜神族の里にいる間のことだろう。グルーノ爺と、サザンビークとトロデーンがどうなるか話し合っていた時だ。竜神族の里は、我らの住む地とは時の流れが違う。あの里で、確かに私は一月を過ごしたが、地上では6日ほどしか経っていなかった。6日の間、どこかでサザンビークとの話し合いが行われた。そして、ククールは消えた……。
サザンビークに滞在中、ククールはトロデーン側から私の居どころを問われたに違いない。しかし、ククールが口を割らなかったため、トロデ王とエイトが来たのだ。ククールは、私を迎えに竜神の里へは来ていない。どうせ尾行でもついていたのだろう。尾行をまくか、時を見ながら里へ来るつもりだったのか。
弟は私が捕らえれていることを知っているのだろうか。私が捕らえれていることを知っていて姿を現さないのか。あれも、私を討たなければならぬと予想しているのか。
討てば、勇者の地位は確立される。トロデーンが安泰になることは、世界平和につながる。勇者が私と繋がりがあれば、諸外国にとっては格好の政治的カードになるからな。このまま逃げ続けられれば、時を経て、私も弟も、寿命を迎えるだろう。私はこの地下牢で。弟はどこかで。
なんということだ。弟は、勇者であるのに、誰も知らぬ所で一生を終えるのか。あれはまだ20歳ではないか。長い人生、ずっと日陰で生き続ける……。そんなことはあってはならない。そうだ、あれが陽の下を堂々と歩くには、私がいては駄目なのだ。私など、自分の好き放題生き、世界を混乱に陥れた。弟はその世界を救った勇者なのに。
私は、絶望した。自分のしたことが自分に返るのは良い。しでかしたことの後始末はつけねばなるまい。だが、なぜ、あの男にも火の粉がかかる? きょうだいだからか?
かつて、私の周囲にいた人々の言葉が甦る。弟を、ククールと向き合うことで私も救われると。ククールを認めよと。
わからない。あの男の存在など、あってもなくても私が生きていくのには関係がないと思っていた。今もきっと、そうだ。関わってくるから、こちらも相応に対応しただけ。私が弟を望んだわけではない。あれは後から勝手に生まれてきただけだ。
……ああ、そうか、ククールにしても、私は勝手に生まれていただけだ。自分は正妻の子であるのに、身分の低い女に産ませた兄が、先に生まれていただけだ。
なぜ、ククールは私を疎ましく思わなかったのだろう。腹違いの兄など、面倒な存在以外の何物でもないだろうに。
なぜ、私に皆、ククールと向き合えと言ったのか。修道院時代、ククールがずっと私を求めていたわけがわからない。ククールにとっての私は、幼い頃に亡くした親の代わりにもならない、年上の単なる身内ではないか。向き合ってどうすればよかったのか。ドニで数日過ごしていた時のように、泣いているのを慰めればよかったのか。ではそれ以外の時はどうすればよかったのか。優しくしてやれと皆が言ったが、優しくするとは、どうすることだったのか。
いくら考えても何か自分で納得のいく答えなど見つからなかった。再会してからは、この弟に従っていたいと思ったのに、なぜそう思ったのかがわからない。自分のことなのに理由がわからないとは──。
地下牢では時間がいくらでもあった。どれほど考えてもなんの意味もない、堂々巡りの思いにいささか疲れてもきた。あとは死ぬだけなのに、死はいつ訪れるのかわからない。何もせず、死ぬその時までここにいなければならないのか。眠りも浅く、常に自分の生涯が追いかけてきて、いたたまれなくなる。ゴルドの底で幻のようになりながら岩を掘っていた時の方が、余程生命力に満ち溢れていた。
……することがない。誰の役にも、何の役にも立たない。
再会した時、弟は、私が生きていてよかったと涙を流した。感情的な奴だ。昔から情に厚く、泣いたり笑ったり、表情豊かな男だった。いっぱしの遊び人になり、カードでイカサマを覚えた頃からはポーカーフェイスを気取るようになっていたが。私の言動にいちいち文句を言い、絡んできていたククールだったのに。黙って私を見ているだけで、文句も何も言わなかった。やはり、厄介者に思っていたのだろうか。
……みじめに生きよう。弟のために。世界のためでなく、あれのために。
そう決意した私はこの地下牢で、絶食し、自然治癒力を使い果たすことにした。
穏やかに眠り、誰の言葉にも耳を傾けぬようにした。
身体は徐々に衰えた。
『勝手に死ぬなんて許さない……』
ゴルドでの弟の言葉の一つ一つが思い出される。
私の野望は何度でも止めてやると言いはなった……。もう、野望などない。
だからもう、私のことで苦しむのはよせ。
私を捨て、自由に生きろ。
一人ぼっちであれこれ考えすぎているマルチェロでした。ミーティア姫は苦手なようです。竜神族の里五日分が地上の一日分というのは勝手な設定です。次も牢屋でのお話です。