それは不思議な感覚だった。
苦しみがほどけ、また新しい試練を与えられたような充実感。
術のかかったオレンジの布……私の手と彼の口を封じていた布が、待ち焦がれたように一つに重なり、私たちから離れていく。
「兄貴……」
私の前で、男が……ククールが言葉を発する。泣きながら笑っているようだ。
「やっと……会えた気がする」
弟は、私を抱きしめる。私も、自由になった両の腕を、彼の背に回した。
唇を重ねる。
乾ききった弟の唇。長い間固く締め付けられていたせいで、強ばっていた。
思えば、口づけは強引に与えられたり、与えたりしてきた。何度も味わった、懐かしい感触。ククールに間違いない。私を翻弄し、また、彼も翻弄させてきた私たちの過去が泉のように溢れ出る。それは苦しくも温かい思い出だった。
私たちは、しばらく互いを抱きしめ、口づけを交わしていた。これが愛なのか何なのか、わからないまま。
目隠しに手を伸ばす。この目で見たい。これが、ククールなのだと、自分の目で……。
だが、結び目に触れない。ずらそうとしても、全く反応しない。いや、私の手に、目隠しが触れられないのだ。
「さわれないとは……」
ククールも手を伸ばす。
しかし、すぐに手を離した。
「やっぱダメだ。オレじゃできねえ。布じゃねえ、岩みたいに固まってやがる。オレが自分の猿ぐつわを外そうとしたときと同じだ」
ククールは、私たちから外れた布を目隠しにあてがったが、結果は同じだった。
どうすれば外れるのだ?
やはり、術者に解いてもらうしかないだろうか。
「この布は、エイトがつけたものか?」
「そうだぜ。詳しい仕組みは教えてくれなかったけど、とにかく、オレと兄貴を守るものだって。……時間がなくてさ。移送の日が急に決まって」
そうだったな。移送の日は結婚式の日でもあったのだから。
いろいろ聞きたいことはある。だが、この目隠しを早く外したい。
「……なあ、前に、外れたっつったよな」
「ああ」
確かに、始めに連れていかれた山小屋が爆風で壊れた時、目隠しがするりと落ちた。外れたあとは、あの山小屋の者が結び直したが、それきりだ。
「バギ……」
「バギ?」
「お前、医者が乗り込んで来たとき、バギを唱えなかったか? 一時、猿ぐつわが外れたことはなかったか?」
火傷の子が死んだ夜、ククールの猿ぐつわが外れ、「逃げろ」と言ったのだ。その時に起きた爆風は、バギ系の呪文に違いない。
「ああ、あの時は不思議だった。乗り込んできたヤツが、兄貴を殺そうとしてさ、そしたら猿ぐつわが急に外れたんだ。そして自然になんか唱えた。それがバギだった。「逃げろ」も言えたのか。あのあとは、猿ぐつわがまた自然に結ばれて。それからは、何度試しても正しい発音で言えなかった。他のどんな呪文もだ」
ククールは少し離れたところで息を整える。
「目ェ閉じてろよ……」
呪文が唱えられると、小さな竜巻が起きた。
風が私を吹き抜けていった。目隠しが取れたのか、はっきりとした感覚がない。
「布が外れたぜ……でもまだ目を開けるなよ? ゆっくり……」
……瞼の内側に明かりを感じる。
見える、ようやく見える。
その時ふと、疑わしい気持ちが込み上げてきた。彼がもし、ククールでなかったら……。
ここまできてなお、信じることができないとは。
目を開けるのが怖い。
瞼は開こうとしない。開こうと力を入れれば入れるほど固く閉じてゆく。
……だが、このまま確かめもせずにいれば、私はまた、向き合わねばならないことをごまかして生きることになる。
「兄貴……」
ククールが心配そうに私の肩に手を置いた。
「兄貴、大丈夫だ。ゆっくり開けて」
ククールの声は、まるで彼の母のように、穏やかに私を落ち着かせた。
大丈夫、これはククールだ。弟がそばにいる。彼の姿を見なければ、何も始まらない。
……すべてを見よう。
私の周りにあるもの全て、受け止めよう。
「ゆっくり……」
ククールの言う通り、ゆっくり開いていく。
薄暗がりのなか、目の前に人がいる。ありふれた着物を着ている。
ぼやけていた視界が次第にはっきりとしてくる。
「……どう? 眩しくない?」
「……ああ、眩しい。お前の青い瞳が……」
「兄貴!」
青い瞳で銀髪の、美しい弟が私にしがみつき、子どものように泣いた。
「また、お前に救われた」
「……何度だって、何度だって……オレは……」
「私は生きることを考えねばならんのだな?」
「あんたまだ死にたいのか? 変な気おこすなよ……」
「いや、もうどちらでも良い。ただ、お前は自由になれるだろう?」
「自由か。……なあ、さっき、『お前は自由ではなかった』みたいなこと、言ったよな? ……あれ、本当にそう思ってたのか?」
「そうだ。ずっと私に振り回されていたのだろう? もうそんな必要はない」
「必要? 必要か……」
「ああ。私のことで悩むのはよせ。私のことを考えて道を選ぶのはやめるんだ」
「オレを捨てるのか?」
「何だと? 何を言っている? お前が私を捨てればよい。私がお前を捨てるなどという……」
「じゃあ、離れないでくれよ……一緒にいてくれよ……兄貴を捨てるなんて……ありえない」
弟は再び泣き出す。
私たちの枷が外れても、私たちはどこへ行くこともできなかった。砂の底で静寂に包まれている。
「ルーラつかえないんだよなあ」
「そうだな……」
術が使えるようになり、まっさきに脱出を試みた。だが、この井戸の底のような場所は、天井があり、私たちはしたたかに頭を打った。明かりが入ってくるため、てっきり頭上は開いているものと疑わなかった。
「ちょっとしか開いてないなんてな。ケチ!」
ケチか。
再び術を使えるようになったため、最低限の健康状態は保てていた。弟も明るい元気さを取り戻し、そんなくだらない言葉を口にする。
だが、いつまでもここにいるわけにもいかない。二人で死ぬしかなかった状況を打破したのだから。そして、弟は私に死を許さない。
「お前は私に勝手に死ぬなと言った。……だが、ここでこうしていたら、いずれ死ぬぞ。お前は私と餓死したいのか?」
「餓死か。それもいいな。……マジで、あのままあんたと死ねばよかった。でも、あんたがオレをはっきりオレだとわからないままで死ぬのは嫌だった。今はもう、一緒に生きたい」
「一緒にか」
「そうさ」
この不思議な地の底にいて、弟は終始ニコニコとして、いろいろな話をしたがった。主にマイエラ時代のことだ。誰があのとき何と言ったとか、私が理不尽に怒ったとか。
私たちは、飽きることなく、幼い頃からの話もした。ドニでは、お互いのことをよく知らぬままに育った。そして、私は弟を憎み、弟は私に憧れた。
その思いは、一般的なきょうだいの間にあるものとはおよそ違うものだろう。私たちは、互いに向ける思いが強すぎた。
それは育ちの環境に他ならないと言えるが、自分の喜怒哀楽を、理性など働かせずにぶつけてしまった結果だ。
「……私は何度『お前さえ生まれなければ』と言ったことだろうか」
「反省してんの?」
「バカを言え」
「じゃあ、後悔してる?」
後悔。それも違う。
「いいさ。許してやるよ」
「許してやるだと? 生意気な奴め」
私たちは笑った。
「オレはさ、兄貴が生まれていてくれて、良かったよ……」
「……………」
バカを言うな……。
「あれ? ひょっとして泣いてんの? 感動しちゃった?」
私は、涙がこぼれないように上方をうかがう振りをするしかなかった……。
?
「どしたの? 兄貴」
弟もつられて上を見る。
「月が……」
井戸の底を照らす月が、ちょうど真上にさしかかっていた。
弟は、ハッとしたような素振りを見せ、何やらやりはじめる。
何を、と言いかけた私も、ハッとあることに気づいた。
やっとオレンジの布が外れました。次は、月の世界のあの人が登場します。