井戸の底にうっすらと月明かりがさしこんでいた。私たちの頭上には月の一部が姿を見せている。
「窓か」
「そう。ちょっと待っててくれよ……」
弟は、集めた小枝で器用に小さな窓枠を作った。
「まるで人形の家の窓だな」
「大丈夫……角度をこうして……」
弟が立て掛けた窓枠は、月光を受け、細長い影を作った。影は徐々に壁の方に延びていく。
窓が最大の大きさに達した時、キラキラとまぶしい光が私たちのいる地下を照らした。
* * * * *
「……わたしは、イシュマウリ。人の子よ、月の世界へようこそ」
「おー、久しぶりだなあ。会うのは3回目だな。オレだよ、オレ。あんたも元気そうだな」
イシュマウリは私たちの顔を少し見た後、その手にある竪琴を静かに鳴らした。
「私を訪ねるとは……何か困りごとですね」
「ああ。いろいろあってさ……実はさ……」
イシュマウリは、弟の話を聞いていないようだった。ククールのポケットにある、オレンジの布に興味を示していた。私たちの枷となっていた三枚の布は、それぞれが外れると同時に合わさり、今は一枚の布になっている。
「……この布が、何かを語ってくれそうですね」
弟が話し続けるのをきっぱりと制し、イシュマウリは布に静かに近づき、手を伸ばした。手のひらが淡い光を帯び、布から何か信号を受け取っているようにも見える。
「……わかりました。ここから出ましょう。あなた方が安全でいることを、この布の持ち主が望んでいます」
イシュマウリの発した「安全」という言葉に、弟の顔に笑みが浮かんだ。
「しかし、私は手配されている身だ。安全な場所など……」
イシュマウリはまた竪琴を奏で、柔らかい視線を投げ掛ける。
「……外界では、マルチェロ、あなたを追い、咎める者はいません。賞金もかかっていません。サヴェッラは、あなたの身柄を拘束しないことになりました」
「マジ? じゃあ……」
「その代わり、地位没収です。そして……ククール預けとするということが、トロデーン、サザンビーク、アスカンタの三王室で決定します」
「オレ預け?」
「そうです。勇者として、責任をとるということです」
ククール預けか。
「イシュマウリ殿、何か……とても軽い沙汰の気がするのだが……」
「そうですね……。あなたがトロデーンを脱獄し、賞金がかかってからというもの、あなた方の世界はかなり混乱したようでした。偽マルチェロが現れたり、偽ククールが現れたり。暗黒神はマルチェロの祟りだったとか」
「なんだそりゃ」
「笑える話ではないな」
だが弟は、何が可笑しいのか、腹を抱えて笑っている。
「あなた方の行方が知れなくなってから、大竜巻が頻発しました。まるで、竜神の怒りに触れたかのようでした」
竜神。
まさかあの里の竜神王ではあるまいが。
ククールはようやく笑うのをやめ、オレンジの布に目をやった。
「つーかさ、あんた、何でも知ってるんだな」
確かにそうだ。オレンジの布は、私たちの記憶しか持たないはず。
「この布は、ただの布ではないでしょうね。特殊な力が宿っていた」
「いた?」
「ええ。弱まっています。前はもっと強い術がかかっていた。役目を終え、術が徐々に消えていくのでしょう」
「なんと……。この術をかけた者は……」
「それは、魔術の力がかなり高い人物、あるいは魔族、あるいはそういった種族でしょう」
イシュマウリは、明言を避けたが、おそらくわかっているのだろう。布に術をかけたのは、エイトに違いない。
イシュマウリは、乱れのない衣の裾を整え、私たちの世界につながる方へ歩きはじめた。私たちも後を追う。
イシュマウリの世界から元の世界へ。
「まず、アスカンタの『願いの丘』へ送ります。そのあとは、三角谷へお行きなさい。そしてククール、サヴェッラに行くのです。……あなた方は、自由です」
イシュマウリは、竪琴を奏ではじめた。すぐに、宙を浮いているような不思議な感覚に包まれた。
* * * * *
「いてっ!」
固い地面に放り出された。無事に願いの丘に飛ばされたようだ。ククールは木にぶつかったらしく、木に悪態をついている。
「天気が良くてよかったな」
月あかりがまぶしい。
「ホント、それな」
ククールも空を見上げた。
「いい時間か?」
「ああ、いい時間だよ!」
弟は、移動呪文を唱えた。
行き先は、三角谷だ。
「あ、ククール! 久しぶりっ! 元気に生きてたね!」
村の入り口では、陽気な魔物が出迎えてくれた。
「おーっす! おかげさまでな。お前も元気そうだな!」
ククールは魔物とハイタッチし、森の方へは行かず、村を指差す。
「こっちへ行くのは初めてだろ? バーとかあるぜ」
弟は、足取り軽く先へ進む。
小規模ながら自然と融合した美しい村。滝の音が心地よい。細い道を進んでいくと、店がある。ククールは扉を開けた。
「おや、お珍しい」
「よう、マスター。元気そうだな。今日は兄貴を連れてきたぜ」
ククールの言う通り、小奇麗なバーがあった。マスターと呼ばれた男は、グラスを拭く手を一瞬止めたが、特に驚いた様子もなく作業を続けた。
「はじめまして。三角谷へようこそ。ごあいさつを兼ねてピュアギガンテスをお出ししたいところですが……」
マスターは、私たちに椅子を進めると、ミネラルウォーターを出し、二つの背の高いグラスに丁寧に注ぎ、私たちの前へ置くと、店の奥へ行ってしまった。
水。あの地の底から脱出して以来、何も口にしていない。地の底にいた時も、わずかに口を湿らせる程度の水分しかとっていない。弟も同じ感想を持ったのだろう、グラスいっぱい満たされた水をじっと見つめている。私は奥へ行ってしまったマスターと、目の前のグラスに感謝の言葉を発した。弟は、できのよい子供のように「いただきます」と言った。
グラスを傾ける。冷たすぎないその水は、まず口の中をうるおし、ゆっくりと喉を伝っていった。
「美味い……」
思わず感想を口にしてしまった。
「……三角谷の天然水です。ミネラル分が豊富です」
!!!
「ラジュちゃん!」
ククールと共に振り返ると、そこには桃色の髪のニンフがいた。このニンフがラジュ。
「お二人とも、よくご無事で……」
「いつぞやは大変世話になった……」
私は立ち上がり、礼を述べる。
ラジュは微笑みを返し、カウンターの端に座った。
「さて、お待たせしましたね」
カウンターに戻ってきたマスターから声がかかる。
「ラジュさんもいかがですか。温まりますよ」
「まあ、ではご一緒させていただいでもいいかしら」
「おお、もちろんだよ、ラジュちゃん。さあさあ、どうぞどうぞ……って、マスター、これ、何?」
「何って、聞くまでもない。スープであろう」
目の前に置かれた白い飲み物からは、湯気が立っていた。
「なんでスープ?」
ククールは、スープとマスターの顔を交互に見る。
「お二人とも、胃が空っぽでしょう? お酒なんて当分ダメですよ」
マスターは、澄ましてそう言った。ラジュもクスクス笑う。
「マスターの言う通りですよ。この三角谷でゆっくり休んでくださいね」
「お代は貰うキー!」
「わっ!」
バサバサと飛んできたドラキーにククールが驚く。
「バカ! おいやめろ! 頭に乗るな!」
「キャハハー!」
「これじゃ、なんにも飲めねえじゃんか!」
ドラキーはククールの頭や肩にちょんちょんと乗り、食事の邪魔を始めた。
「久しぶりににぎやかになりそうですね……」
マスターもラジュも、楽しそうに笑って見ていた。
とりあえず三角谷に身を落ち着けました。次は4章最終話です。