なんということだろうか。
この美しい月の世界が……。
私は長い年月を超え、ここに存在しているが、このようなことになったのは初めてである。
ただ、竪琴の美しい音色は、変わることなくこの世界を潤している。目に、耳に心地よい水の姿も変わらず……いや!
「そなた、また私の美しい水の世界を……」
「いいじゃんいいじゃん。ケチだなあ」
長い銀髪の男は、美しい流れにその手を入れ、あろうことかびしゃびしゃと不快な音を作り出している。
「で、ゼシカは帰れたんだろ?」
「うん。リーザスから手紙が来てさ。リーザス祭りの件で、マダム一人じゃさばききれない問題がたくさんあるから、ゼシカに帰るように言ってくださいって、王に」
「へー、マダムから直接トロデのおっさんにか」
我が弟子……エイトは、なぜか床に寝そべっている。
「で……どう?」
エイトは銀髪の男を見あげる。
「……まあ、仕方がないな。それでいこう……」
銀髪の男はエイトの近くに胡坐をかいて座った。
エイトは疲れているのだろう、すうすうと寝息を立てはじめる。
「……なあ、イシュマウリさんよ、絶対にオレたち以外ここへ来させるなよ?」
「分かっている。それに、誰かがいる間は、扉は開けないことになっている」
銀髪の男は、ならいいけどさ、と軽口を叩き、大きな欠伸をした。
「とりあえず、オレは戻るわ。材料、この辺に置いておくからよろしくな」
「……」
銀髪の男は、エイトをちらりと見て、月の世界の扉から出て行った。
この世界は、エイトらの世界と違い、時間の概念がない。長い年月が経過していることは事実であるが、それはエイトらの世界と比較した場合だ。この月の世界は恒久である……。このことは、エイトにいくら説明しても理解されなかったが。
このところ、エイトと銀髪の男はここでちょくちょく落ちあい、なにやら工作をしている。そのうちあの赤毛の少女もやって来るのであろう……。
「こんばんは!」
ある日のことだ。エイトがやって来た。
「銀髪の男は今戻ったところだ」
「そうですか」
エイトはすたすたとある場所へ行く。
「ええと……そうか、うんうん。で、ククールがこれを?」
「そうだ」
先ほど銀髪の男が持ってきた材料をガサガサと広げる。さっと全体を確認し、紙の束に目を通す。紙の束にはなにやらいろいろ書いてあるようで、エイトは読みながらくすくす笑ったり、へえ、と感心したりしている。
「……ときに、エイト、そなたたちは最近一緒に来られないのか?」
「そうなんです。三人ともバラバラな場所にいるから、連絡がとれません」
月の世界は恒久である……。時間の流れのある場所から、別の時間に生きる別の、または同じ人間がこの月の世界に存在することは極めて危険である。その者の行いが、別の時間を生きる者に意識的に影響を及ぼしてしまう。最悪の場合、存在が消滅してしまう。そして消滅した者に関わった全事象が物理的な法則を無視して暴走し、新たな世界を作る。古い世界は、消滅した者と同調し、それもまた消える。
月の世界に住む私が許してはならない掟の一つである……。
「ええと、これはあの日から10日で、今はククールが帰った時から2日後か。まあ、いいペースだね」
エイトはそんなことをぶつぶつ言っている。
「ということは、ククールはあと2日はここへ来てはいけないんだね」
「そういうことになる」
「イシュマウリさん、ゼシカは来ましたか?」
「赤毛の少女か。あの者は来ていない」
エイトは、そうですか、と言い、少し肩を落とす。
そのまま黙ったまま、紙の束に何かを記入している。
「ゼシカが来ないとこの後が進まないなあ。材料はそろったから……」
エイトはまたぶつぶつ言いながら、銀髪の男が持ってきた物をあれこれ並べ直している。
「……ときに、これはいつまでここにこうしておくのか?」
「ええと、もう少しかな。ちょっとわかんないです。また師匠に魔法を教えてもらわなきゃいけないし。今度はどうしてもゼシカの力が必要なんです」
私にはエイトの考えが読めている。彼は、それでよいものか自問自答しているのだ。時間との勝負。エイトは短いチャンスを作ろうとしている。そのチャンスに絶対に失敗してはいけないある計画をしている。銀髪の男はそれを知っているが、赤毛の少女はまだ知らない。
エイトはひとしきり昼寝をし、また自分の世界へ帰って行った。
一人になった私は、この美しい月の世界が、エイトらのもたらした、文字どおり物質的なものでゆがめられていることについて考えていた。それは「困惑」という感情だろうか。困惑というより、迷惑と表現する方がふさわしいだろう。彼らの計画は馬鹿げた、あるいは無茶なものだ。だが、それを完遂させねばエイトの凍りついた心は砕け散ってしまうだろう。
私は竪琴を奏でる……。私の月の世界の空気の流れが変わっている。あの物質的な……「荷物」のためだ。今までと響きが変わっている。「荷物」が増えるごとにこの世界に響き渡る調べの色が変わっている。この世界は恒久である。だが、変化を存在させてしまった。私は「苦しみ」という感情の事を考えた。エイトら人の子が味わう「苦しみ」とは、今の私が持つべき感情なのであろうか。私には感情という概念があまりなかった。時おり人の子らと関わることでもたらされる、彼らの感情を思うことはできる。だが、それは私の物ではない。人の子の怒り、苦しみ、悲しみ、というものである。私自身の中から沸き起こる感情というものはわずかで、それも長く続かない。いや、長く続かないと思っているのは私だけなのか。私には時の長さを感じることはできない。人の子らの世界で経過する年月を理解することはできても、感じることはない。
時とは、かくも不思議なもの……。
「こんにちは! イシュマウリさん」
赤毛の少女だ。
私は、これは「疲れて」いるのだろうか。この少女の訪問で、また私の世界が変わったことを瞬時に知り、私の中からわずかな「迷惑」という感情が一瞬生まれた。美しい水の流れが速まっている。
「ごめんなさい、ちょっと荷物が多くて……」
少女は大きな袋をずるずると引きずってくる。ああ、私の世界の床に人の子の世界の泥が線をつける……。すぐさま美しい水の流れがあらわれ、その泥を浄化する。
「ねえイシュマウリさん、これをどこへ?」
私は、エイトが並べていた「荷物」の場所を手で示した。
「ありがとう」
少女はまたずるずると引きずり、その場所へ持っていく。美しい水の流れは泥の跡を着いていき、すぐさま浄化する。私は今まで感じたことのない、人の子の言う「憤怒」なる感情について考えていた。
少女は袋の中から「荷物」を取り出す。それは銀髪の男が持ってきたものと似ていた。そして紙の束をペラペラとめくり、エイトのようにくすくすと笑い、ニタニタとも笑った。
「……ということは、あの日から15日がたっているわけね。エイトはあと3日、ククールはあと5日ここへ来てはいけないのね」
「……」
「イシュマウリさん?」
「そなたたちは、いつまでここにこれを置いておくつもりなのか」
「ごめんなさい。でも、これでとりあえず材料がそろったから、始められます」
赤毛の少女の考えもわかる。「これからどうすればいい」かわかっていない。
「……エイトによれば……。このメモにね、書いてあるんです。イシュマウリさんに魔法を教えてもらって、この……『あやかし玉』に細工をしろって。ククールの持ってきたほうはあたしの持ってきたあやかし玉より大きいから、そっちには……だけど、簡単にこわれないように……って、メモに……」
「分かっている」
もう、私が管理せざるを得ないのだ。
「イシュマウリさん」
少女は大きな瞳をエイトのメモからこちらへ向ける。
「ごめんなさい、あたしよくわかってなくて……。エイトとククールの書いたメモ、このあやかし玉の細工のことより、毎日どうだったかっていうか、二人のその……」
「それもわかっている……。まるで恋文のような内容なのであろう」
少女は、彼女におよそ似つかわしくない、品のない笑みが口元に現れるのを懸命にこらえ、下を向いた。私はそのことに触れるのを避け、「荷物」の話に戻した。
エイトらの計画は、二種類の『あやかし玉』に細工をすることだった。
「……説明する。そなたの持ってきた『あやかし玉』は外側を強化し、あるきっかけで割れるような魔法をかける。そして、銀髪の男が用意した方は、中味がすでに抜かれている。そこへそなたの力で煙と光を閉じ込める」
「閉じ込める? そんなことできるかしら……。ああ、そうね、だからイシュマウリさんのところなのね!」
赤毛の少女は難しい計算のやり方を覚えたような、幼い子供の表情になる。
「ちょっと不安だけど、頑張ります。……ええと、こっちね、ずいぶんたくさんあるわね」
少女は、ひとつふたつと数を数えだす。
「20だ。その一つ一つに、そなたの炎系の呪文を凝縮して詰め込む。そのあと玉全体に物質強化の呪文をかける。そこはエイトの仕事だ。そなたは慎重に、空いた穴から呪文を流し込む技術を身につけると同時に、正確な量を放出する技術も身につける必要がある」
「うわあ……あたしにできるかしら……。いえ、やらなきゃですものね! ええ、頑張るわ。さあ、イシュマウリさん、はじめましょう!」
赤毛の少女は、大きな瞳を爛々と燃えたぎらせ、私に肉迫する。
私も怯むわけにはいかないが、……誰がこのようなことを想像しただろう。この美しい、静かな月の世界が……。
イシュマウリが潔癖症ぽくなってしまいました。エイトさんたちは脱獄用の工作をしています。次は久しぶりにヤンガスが語ります。マルチェロの恩赦が通らなくて、脱獄をするしかなくなったあたりの話になります。