マイエラ修道院に身を落ち着けた私は、ある日院長の館で書物の整理などをしていた。
オディロ院長様が長年お守りくださったこのマイエラ修道院。いずれ新しい院長がやって来るのだろう。これまでのこともある、おそらくサヴェッラの影響力のある人物が着任するのだろう。または、このままニノが。
騎士団の方は、私がこのマイエラを出た後に団長になった者がそのまま団長の職にある。彼は若手だが、古参の騎士団員が残っていてなにかと助けている。
……私がいなくとも、マイエラは立ち直った。
ここへ戻ってきて、改めて自分の存在意味を考える。生まれを恨み、弟を憎み、出世欲に駆られていろいろなことをしでかしてきた。ゴルドで負け、弟に命を助けられた。そして弟とともに生きてきた。今、私たちは『振り出しに戻って』このマイエラにいる。私という人間は、特別な価値も力もない、単なる一人の人間であるのだ。そのことをようやく認めることができた。努力し、這い上がり、のし上がった私だったが、いろいろと間違えてきたのだ。今は、とても穏やかな気持ちで先のことを考えることができている。
巡礼の旅、そしてククールが来るまでのマイエラでの日々は、私が客観的に自分を顧みることができた。
自分に何ができるか。それはまだわからない。このマイエラを守り続けること、騎士団の伝統を守り、鍛練していくこと。女神の教えを広く人々に知らしめること。たったそれだけのことだ。それを基本にして、身の回りの人間を大切にしていくだけだ。──それだけだ。
ククールの様子は、三角谷にいた時とさほど変わりはなかったが、規則的な日々の暮らしが修道院時代を思い出させていたようだった。仲の良かった団員と話したり、ドニに遊びに出たりしている。ただ、団員には『適当にあしらってくれ』と言っているので、ククールの記憶が一部おかしなことになっていることに気づくほどには親しく関わっていない。サヴェッラへ同行してくれた二人の騎士団員にだけは説明をしておいた。
「団長殿、こちらでしたか」
書物の整理を終え、院長室の備品などをチェックしていた時だった。ククールと同じ青い瞳を持った、小柄な騎士団員がやって来た。
「何かあったか?」
「あ、いえ」
何かあったか、か……。私はもう団長でもないのに。ついそんなふうに聞いてしまう。
「団長殿?」
思わず苦笑いした私に、団員は不思議そうな顔をした。
「いや……。それで、どうした? ククールが何かやらかしたか?」
「いえ」
では何だ?
「……昼食か?」
「ち、違います…………ふふっ」
なぜか笑いだす団員。
「なんだ、なぜ笑う?」
「あの、申し訳ありません……。ですが、団長殿がお食事のことをおっしゃることなど、今までにありませんでしたから……」
ああ、そうか。三角谷にいたときは、よくラジュやゼシカに食事の時間だと呼びに来てもらっていたから……。私を呼ぶのはそんなことくらいしかないかと。
団員は、ふう、と息を整える。
「あの、団長殿、もしお忙しくなければ、ご一緒に薬草園に行ってくださいませんか?」
薬草園?
「……あの、お昼までには戻る予定ですから」
昼までか。
「いや、別に空腹というわけではないぞ?」
「あ、はい、もちろんです、そういう意味では……」
団員は笑いをこらえる。
「そうか、では参ろう」
私と小柄な団員は修道院から薬草園へ向かった。
「薬草園で私が手伝えることは何だ?」
「実は……申し訳ありません、特に作業はないのです。ただ……団長殿と行って来いと言われまして……」
ああ、あいつか。私の腹心の……。
「いくらニノ法皇がおっしゃったからとしても、本当に一歩も修道院からお出にならないのは身体によくないと……」
「訓練にも参加しているぞ?」
「いえ、そういうのではなく、たまにはぶらぶら散歩でもと……」
ああ、気を遣ってくれたのだな。ククールの処遇も決まらないし……。
では、せっかくなので、ぶらぶら歩くことにしよう。
三角谷で散歩ばかりしていたからか、のんびり歩くことが身にしみついている。騎士団時代は、のんびり歩くのは院長様のお供で散歩に同行するときだけだった。
「……団長殿、変わられました」
「そうだろうな」
昔の私ではない。自分でもよくわかる。
「お優しくなられました。とても。それから、なんというか、ゆとりがおありです」
「そうか。それは、良かったと言えるのだな?」
「もちろんです」
この団員は、私が法皇警護の職に就くのを法曹界に認めてもらうための活動をした際、ずっと側で私を見ていた。あの地獄のような状態から比べれば、今の私は薬草園でふわふわ飛んでいる蝶々くらいのものだろう。
薬草園が見えてくる。良い香りが漂ってくる。ククールはよくこの薬草園でサボっていた……。
「……ククールさん……」
この者もククールのことを考えたか。
「……何かに苦しんでらっしゃるのですね」
「そのようだ。わかるか?」
「なんとなく」
私たちは薬草園が見渡せる川の近くで立ち止まった。
「……わからなかった。それが何なのか……」
そう。ずっとわからなかった。ククールが瞳の奥に隠している秘密の箱の中身を。だが、ククールをトロデーンに迎えに行ったとき、気づいた。あの一言で……。
ゼシカ嬢との話の中で、誰か添い遂げたい人物がいることは確信していたのだが。
それは、どうしても封印しなければならない相手であった。
そしてその人物は、命懸けで私を守ってきた。ククールのために。
また、私の頭の片隅に引っ掛かっていたことがもう一つ。私の死をなぜミーティア姫が強く望んでいるのかということだ。姫君とは、トロデーンに投獄されていた時に二度、話した。あの冷たい態度は単に罪人に対するものだけではなかった。エイトの命を脅かしたということを含めても。
そして三角谷で言った『あなたが生きている限り平穏は訪れない』の意味。
以前、ククールは私をトルソーにする夢を見たことをゼシカ嬢に話していた。私が死ななければククールの勝ちということ。では私が死んで勝つのは誰なのか、その答えはここにあったのだ。
私が死んだら勝つのは姫君。
ククールが愛しているのはエイトだからだ。そしてエイトもきっと。許されざる二人は、エイトの結婚で区切りがついたように見えた。だが、感情を押し殺した結果、ククールに記憶のねじれを生じさせた。エイトのほうは恐らく、トロデーン復興に忙しく、幸か不幸か、自分の感情云々という状況になかったのであろう。
私が死ねば、ククールが自由になると考えるのが普通だ。勝つのは姫君ではなくてククールだろうと。
だが、それは違う。私が死んでしまえば、ククールは自責の念にかられ、生涯、私を弔って過ごすだろう。なぜなら、ククールの中ではまだ私たちは和解していないのだから。私はエイトの「良かったね、君のお兄さんに会えて」という言葉で、ようやくわかったのだ。
それに対し、姫君は既にそこまで読み取っていた。共に旅をするなかで感じてきたことなのだろう。なんと賢くも恐ろしい人物か。姫君にとって、ククールが今の状態にあることは願ったり叶ったり。今こそ、ククールに最大のダメージを与えることができるのだ。
だからこそ私は、ククールをなるべく早くここから旅立たせてやらなくてはならないのだ。私や周囲の人間がどんなに言葉で説明したところで、わたしたち「きょうだい」の「和解」は訪れない。ククールが自分から求めなければ……。
* * * * *
私は強い思いを感じながらも、日々を穏やかに過ごしていた。ククールは混乱が続いているようなので、小柄な騎士団員をつけマイエラ周辺の見回りをさせている。
それが功を奏したのか、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
そしてある夜のこと──。
風が窓を揺らした。まるで来るべき時を告げるかのように。
私は導かれるように、団長室を出た。
騎士団員宿舎から礼拝堂へ行く。女神像を見上げながら、私はオディロ院長様を思った。
導きのままに、中庭へ出る。
無音の中庭を薄い月明かりが照らしていた。
迎えに行ってやらねばならない。長い間迷子になっている愛し子を。
コツ、コツとゆっくり歩いて行く。ぼんやりと立つ、銀の髪の人物の前へ。
「どうしたんだ? こんな時間に」
「あつ! あに……じゃない、団長どの……」
あの夜のように、ククールは不安な目で私を見る。
「一人か?」
「え? あ、はい」
迷子の小鳥のように、視線が定まらない。
「大丈夫だ。お前は愛されている」
「なん……なんで?」
ククールはサファイアの瞳をまっすぐ私に向けた。
「名は?」
「?」
「名はなんと言う?」
「……ククール」
私は手を差し伸べる。
「そうだな。お前がククールだ……私の弟だ」
「兄貴……」
不思議そうな顔でククールは私の手を取った。
「私たちの帰る場所は、このマイエラ修道院だ」
「うん……」
手を強く握る。
「私はこれからもずっと、ここにいる」
「うん……」
もう一度手を強く握りしめ、そっと放した。
「さあ、オディロ院長様の墓前に参ろう。私はお伝えすることがあるのだ」
私は墓地へ向かった。
ククールも黙って着いてくる。
私は院長様の墓の前で、膝をついた。
「……院長様、私の弟ククールが戻ってきました。立派に勤めを果たし、世界を救ったのです。よくやったと誉めてください」
「兄貴……」
「私はこのマイエラに骨を埋めるつもりです。どうか、お許しいただきたい。……さあ、お前も」
ククールも隣で膝をつく。
「あ、うん。……院長様、オレ、兄貴と仲良くします。安心してください」
月に雲がかかる。闇の中で私たちは微笑みあった。
「……オレさ、なんか、すーっとつかえがとれた気がするんだよね」
「そうか。良かったな」
「オレ、解任されてんだよね?」
「そうだ」
ククールがにっこりと笑った気がした。
ようやく……ようやく戻ったか。
私たちは立ち上がった。見上げた空は雲が多く、月明かりは流れる雲にしばしば邪魔されいてる。
「私もすーっとつかえがとれた気がする」
「なんだよ、兄貴もかよ……変なの……。まあ、いいや。……オレたち、変なきょうだいだよな」
「そうだな。変だな。それもまあよい」
あはは、とククールが声をあげて笑う。ククールはもう一度院長様の墓を見つめる。
「院長様、兄貴を見張ってて下さいね。まあ、大丈夫だと思いますけど……」
「なんだ、見張る? 見守るじゃないのか」
私の言葉に、ククールはまた声をあげて笑う。
ああ、これでやっとお前はマイエラから、私から離れて自由になれる。
さあ、ククールよ、お前の想い人のところへ行け。添い遂げるも、決別するも、互いの目を見ればわかること。
「まあ、お前がもし、ここに居たければ居てよいのだぞ。騎士団に入りたければ……」
そこまで言ったときだった。
「危ない!」
!!!!!
突然、突き飛ばされる。直後にザクッ、と剣が刺さる音。誰かが刺された。
「お前っ!」
これはククールの声。
何が起こったのだ?
「いやあー!」
女か!
「マルチェロさん……大丈夫ですか……」
背後からか細い声、誰だ? まさかエイト?
暗くて見えない。だが、私を突き飛ばしたのは彼に違いない。私に倒れかかり、血のにおいをさせている。やがてずるずると地面に倒れる。
「あんた、何てことを!」
またククールの声。誰に話している?
再びザクッと肉を刺す音。
今度は何が?
「わ……私を介錯してください……私が乱心し、マルチェロに斬りかかり……兵士長を斬ってしまった……ククールさん、そうしてくださ……い」
誰だ?
何が起こった?
複数の人間が突然現れ、そして誰かが誰かを傷つけた。確実に2名の負傷者がいる。
「ククール、誰か……あの医術に長けた団員を呼んでこい! 早く!」
「わかった!」
ククールが疾風のように走り去った後、雲間からわずかに射し込む月明かりを受けて光った剣を見つけた。震えた手で振りかざしている兵士のものだ。血がしたたっている。私はその剣をを奪い、遠くへ投げた。
「後生だ、介錯を……」
兵士は自分で腹を刺したようだ。腰のあたりから血が流れ出している。
「喋るな。慌てずそのままじっとしていれば間もなく出血で死ぬ」
「そうか……兵士長は?」
「無事だ。かすり傷だ」
「良かっ……た」
この兵士は軽傷だ。
だが……。
初めに刺された人物を抱き起こす。私の腕の中で、はあはあと荒い息をする彼の顔を確かめる。
エイトだ。間違いない。背中を刺されたのか。背を支えている私の腕にも血が染みてくる。刺された時の音からすると傷は浅そうだ。しかし、この苦しみ方はおかしい。
焦点の定まらない黒い瞳がゆらゆらとさ迷う。
「わたくし、わたくし………!」
「エイト、エイト! 大丈夫だ、すぐに治療をする」
「マルチェロさん……良かった、あなたを死なせずに……」
「違う、君こそ生きていてもらわなければ……喋るな! 動くな!」
エイトの身体から力が失われた。
エイトの足元に血に染まった短剣が落ちていた。あたりに薬品の匂いが漂っている。
「短剣に……短剣に毒物を塗りましたね、姫君?」
「わたくし……わたくし……こんなことになるなんて……まさかエイトが来ていたなんて……」
「エイトを助けたければ、毒物を……何の毒物を使ったか、おっしゃってくださらんか!」
「あなたこそ、エイトが邪魔だったのではなくて? お気付きでしょう? エイトとククールさんが……」
「そんな話をしている暇はない! 何の毒物を使ったのか!」
「団長どの!」
ククールが小柄な騎士団員と他数名の騎士団員を連れてきた。灯りも持ってきている。その灯りに照らされた私たちの周囲は、二人分の血に染まっていた。
小柄な騎士団員は素早く二人の傷を診る。すぐに止血の処置がされる。
「……兵士のかたはククールさんの回復術で大丈夫です。エイトさんは……とりあえず治療室にお運びしましょう」
二人はすぐに治療室に運ばれる。
「兄貴、大丈夫だ。エイトは強い男だから。きっと……」
「先に行け。私もすぐに行く」
ククールはうなずき、踵を返した。
次は最終話です。