怒りを滲ませた声と共に持ち上げられた顎から、理紅のものが溢れ落ちた。それと口端を繋ぐ細い糸には目もくれず、理紅は「口、
取り出したティッシュで丁寧に唇を拭われた里緒は、しかしその場から動くことはなく、「おかしい」と小さく口を開いた。理紅ばかりが
キッと理紅を睨めば、また取り出したであろうティッシュを持った片手で軽くそれを拭き、素早くしまってしまう。吐き出せていない辛さがあるというのに。その証拠に、いまも布を押し上げている。
「ちょっ……! なんでしまうんだよ! まだイってないだろうが。オレも飲むから、出して」
「アレは飲み物じゃないよ」
「理紅は飲んでるだろ?」
「りぃちゃんのものだから」
「だったら、オレだって……!」
「やれる」とファスナーに伸ばした手は即座に捕らえられた。手首を掴む掌は震えているのか、仄かに振動が伝わってくる。
「大丈夫だから。早く濯いでおいで」
「理紅の飲むまでは行かない」
「俺が強いることに、りぃちゃんがそれ以上の苦痛を味わうことはないよ。解ったなら、早く行って。お願いだから」
間違ったことをしている気はないと言いながら、そんな泣き出しそうな顔をするなんて矛盾している。そして、その顔で言われてしまえば、引き下がるしかない。
「……解った……。理紅のドアホ!」
手を払い除けて走り去る里緒は、入り口で振り返って理紅を睨みながら吐き捨てた。きゅっと唇を噛んで。
「知ってる」
理紅は目を見開いた刹那、小さく笑う。端正な顔はまだ泣き出しそうで、里緒は顔を戻して「バカ」と呟いた。
その優しさは、ただ不安を募らせるだけなのだから。答えが探せないことに。タブーとされていることを犯していることに。――それでもいいと、思い始めた自分に。
不安の現れか、震え出した指先には気付かないふりをして、里緒は洗面所に駆け出した。
理紅は落ち込んでいることだろう。それでも、かける言葉なんて見つからない。「ごめん」と謝るのも、「大丈夫だ」と元気付けるのも違うのだから。
いまはなにを言っても、きっと理紅を傷付けてしまうだけだ。
◇◆◇◆◇◆
「またこんなに送ってきて」
「これなんかりぃちゃんに似合うよ。夜に着てあげて」
「バっカ! お前これ、ノースリーブだろ。風呂上がりは風邪引くかもだ」
「風邪引いたら、看病してあげるから」
洗顔して口を濯ぎ、リビングに戻ろうとした矢先、インターホンが鳴った。玄関に行こうと洗面所のドアを開ければ、理紅がリビングから顔を出す。
「理紅」
「出てくる」
「あ、ああ、解った」
後ろ姿を見送ってリビングに戻れば、数分もしないうちに荷物を抱えながら理紅が戻ってきた。
「母さんから」
「またかよ」
単身赴任の父に着いていった母は、生活費を振り込んでくれているにも拘わらず、ことあるごとになにかを送ってきていた。着るものであったり、食べ物であったりと様々だが、一番多いのはやはり着るものだろう。しかも、里緒に対するレディース用の服が主だ。
「片しておくから、着替えておいで」
「はいはい」
理紅の横顔を一瞥し、里緒はふたたび立ち上がる。
「理紅」
「どうしたの?」
「そのさ……、お前イけた?」
「お蔭様で」
「今度は、理紅だけじゃないからな」
「どうだろうね」
にこりと笑う理紅はそのまま段ボールを開け始めた。振り返って見た後ろ姿に覇気はない。それでも、やはりかける言葉はなかった。
早々にルームウェアに着替えた里緒はリビングに足を踏み入れ、センターテーブルに積み上げられた服を一瞥する。白や淡い色のブルーなどカラフルなそれらは、母親の趣味かなんなのか、フリル付きが多かった。いま着ている服もそうだ。裾にはフリルが踊っている。もちろん、膝丈のスカートにも。
「あれ……?」
「りぃちゃん」
「うわっ!」
リビングに理紅の姿はなく、探そうと目線を動かした先、背後から抱きしめられる。肩に重みがかかり、思わず顔を動かせば、理紅の髪が見えた。首筋に触れるそれに躯を跳ねさせれば、手が伸びて片側の髪を弄り始める。
「な、なんだよ。お前も着替えてたのか?」
「うん」
「あっそ。理紅」
「なに?」
「なんでもねーよ。いや、やっぱりあるわ。髪の毛、弄るのやめろ。くすぐったい」
「りぃちゃんの髪、触り心地がいいから」
「バカ野郎。いいから片付けるぞ」
「はいはい」
呆れながら理紅を見れば手を取られ、隣同士でソファーに座り、テーブルに手を伸ばす。畳んでいる服を一枚一枚広げて吟味するのは、着る用とあげる用を別ける為である。
「こっちも似合うな」
「それ、肌が透けて見えるだろ。デザインは可愛いけど、無理」
「重ね着用じゃないの? りぃちゃんはエッチだね」
「ばっ……バカ! 違うし! そんなこと考えてないっ」
「冗談だよ。これは紗智にあげようか」
「理紅っ」
にやにやと口角を上げる理紅の膝を叩き、フイと顔を背ける。
「可愛い」
「うるさい。理紅のアホ」
髪を撫でる理紅の手を払い落とすが、その手はふたたび頭頂部を撫でる。
「縮む」
「りぃちゃんに触れたい」
「少しだけだぞ」
「いつも触れてるだろ」とは言わずに、里緒は服に手を伸ばした。唇を尖らせながら眺めるVネックのそれには、ワンポイントらしい雪ウサギが胸に刺繍されている。袖口と裾には相変わらずフリルが付いているが。
「それ、一番似合うと思う」
「おう。これなら普通に着られる。あと、こっちと、あれも」
選んだものは全てデザインも落ち着いているし、部屋着にも外出着にもできる。紗智にあげるものとして別けた服は、如何にも女の子しいなデザインであり、それならばやはり女の子に着てもらいたいのだ。