泣きそうな顔で笑うなんて反則だ。なにも謝ってほしいなんて思っていないのに。
コトリとカップを置く音は、「理紅のバカ」との言葉に滲んでいった。
触れたらもう、触れる前には戻れない。だからこそ、その先のことを考えている。どうすればいいのかと。
――答えがほしい。自分たちの関係性を正当化できる答えが。不安だらけに終止符を打ち、理紅が笑ってくれるようになってほしい。
「理紅」
「なに? あ、そういえば、りぃちゃん課題終わった?」
不安が湧き上がると同時に呟いた言葉に返事があり、振り返った里緒はぎょっと目を丸めた。
「明日紗智に見せてもらう!」
「俺がみてあげてもいいよ」
「疲れたからいい」
「そっか」
隣の席に腰を下ろす理紅は頬杖を付きながらテレビに視線を投げ、そうして里緒を眺める。
「明日、晴れるみたいだね」
「そうみたいだな。オレは歯磨きして寝るけど、理紅は?」
「俺はまだやりたいことがあるから起きてるよ。おやすみ、りぃちゃん」
微笑む理紅は髪を掬い、そこに唇を寄せた。すぐに離したその顔は歪んでいる。見たいのはそんな顔ではないということを、理紅はいつ気付いてくれるのだろうか。
「理紅のバカ野郎! おやすみっ!」
気付かないふりをした里緒は、羞恥に声を荒らげながらリビングのドアを勢いよく閉めていった。
ひとり残る理紅はカップを片し、テレビを消しながら里緒の温もりが残るイスへと腰を下ろす。膝を立てた座り方で。顔を埋めれば、ホロリと涙が頬を伝う。
「りぃちゃん」
蚊の鳴くような小さな声は嗚咽に溶けていく。触れるという強い強い行動は、ただただ里緒を苦しめているだけなのだ。
◇◆◇◆◇◆
藍本理紅が『そう』だと気付いたのは、クラスメイトの発言からだった。
『藍本は好きな子いるの?』
いきなり振られたその言葉を胸の裡で反芻した理紅は、ホチキスを掴む手を止めた。
隣に座るクラスメイトと共に雑用を頼まれいまに至るわけだが、喋りまくるクラスメイトの言葉を耳に受けながら黙々としていたのだ。だがそれは、目の前でへらりと笑う男の一言で終わりを告げる。
「――好きな子?」
小学五年生にもなれば、恋愛話もするだろう。女の子より盛んではないが。
「そうそう、好きな子。いないのか? おれはいるぞ」
「いないこともない、けど……」
「やっぱりいるのか! そうだよなぁ。藍本はモテるもんなぁ」
「おれが好きなのは二組の鈴木さんなんだー」と聞いてもいないことを語るクラスメイトは、綴じたプリントをとんとんと机に軽く当てて整頓していた。
好きな子と言われて思い出すのは、ひとつ上の兄だ。すぐに胸がきゅっと締め付けられ、トクトクと高鳴る。
そもそも、理紅が見ているのはクラスメイトの女の子ではない。視線の先にあるのはいつだって兄だ。笑う顔も、泣き顔も、眉を寄せる厳しい顔も――全てが理紅の中のなにかを疼かせていく。
「その子を見てるとドキドキする?」
「する」
「おれもさ、ドキドキするんだ。やっぱ好きなんだって思うよ」
「そう。なら、告白すれば?」
「そんなことできるわけないだろ!?」と慌てるクラスメイトを尻目に、兄が好きだと強く思った。
◇◆◇◆◇◆
「理紅、アンタ佐藤真由理には気を付けてね?」
ふたりを見送る為に玄関に来た理紅は、紗智の言葉に躯を壁に預ける。
「佐藤ねぇ……。りぃちゃんに近付かないならどうでもいいわ」
「狙われてるのはお前だよ」
「いや、興味ないし。ああでも、セックスしたいだけならしてあげてもいいかな。勃たせてもらえればいけるし。だけど、佐藤はそうじゃないから、相手をするのは面倒臭い。まぁ、写真を見せて引かせればいいんだけど」
「前も言ってたけど、写真ってなに?」
「ベッドに縛り付けて制服をはだけさせた写真。和己は見てたから解るけど、紗智も見る?」
「見ません」
「あ、そ。それより、気を付けて帰ってね。あ、忘れるところだった。紗智これ」
「いつもの」と片手に持つ袋を紗智に押し付けて緩く手を振る理紅に、手を振り返しながらふたりは玄関をあとにした。
「さて、りぃちゃんと戯れよう」
ぎゅうぎゅうと強く抱きしめて、ドロドロに甘やかそうか。
◇◆◇◆◇◆
里緒が離れていくと解れば、すぐに頭に血が上った。小さくなる背中に不安を覚え、足元が崩れ落ちるような錯覚があった。だから、強く掴んだのだ。離すまいと。離れていくなと。
反射的にでも振り返った里緒は、眉を吊り上げて怒っていた。泣きながら。泣かせたのは理紅自身だ。墓場まで持っていこうと誓った本当のことを、言ってしまったのだから。しかし言葉に乗せてしまったなら、止めようにももう止まらなかった。
里緒を拘束して、そしてベッドへと運んだ。酷い選択を与えて。
掴んだ手は震えていたが、首筋に添わせれば抱きしめられた。それだけで胸が高鳴り、頬が緩んでいく。
奥を突く度に里緒は震え、嫌だと喘ぐ。耳にタコができるほどに聞かされたそれを、唇を塞ぐことで遮断する。舌を絡ませて。嘘でも好きだと聞きたくて。
「好き……、好きっ」
ゴムを付けても里緒の中は熱く、ぐずぐずに溶けていくような錯覚がある。それはむしろ心地が好く、泉のように湧き上がる性欲をさらに刺激した。もっとほしいと。里緒とひとつになりたいと。何度だって。何度でも。
――どうしようもなく、愛しいのだ。
だから里緒を抱くのはやめたくなかった。繋がるのは、愛している証なのだから。たとえ愛がなくてもできる行為だとしても。
蕩けきるこの顔を他の誰かに見せるなんて、あり得ない。
「あ、あ……っ、り、く、理紅……」