乱れた服を直してからも、許してと何度も囁く弟は、額や唇に口付けては離れていく。
「――許して」
「解った、から。もうやめろ」
「本当に許してくれる?」
「許すから……。だからやめろってば。オレは、教室に戻るからな」
「いいよ。教室に戻っても。俺のこと介抱してたとかなんとかで理由をつければいい」
「うん。ありがとう」
「りぃちゃん、帰りは一緒に帰ろうね」
理紅は頷いた里緒にキスをして離れ、教科書やノートを広い集めて小さくなる兄を見送る。その目を細めて。
「可愛いりぃちゃん。毎日しても飽きないんだけどな」
理紅が里緒を抱くのは一週間に一度。中学の頃は勉強をみるということに託つけて毎日していたが、里緒が泣いて頼むので二日に一度となり、最終的には一週間に一度となった。その代わりにキスは日課となり、時折口でするのも付け加えている。それが一週間に一度と飲んだ、理紅の最大限の譲歩である。
「りぃちゃんがいないなら、ここにいる意味はないか」
欠伸を噛み殺した理紅は小銭とペットボトルを拾い、のろのろと教室まで戻っていく。
――兄がいない退屈な教室まで。
◇◆◇◆◇◆
息を切らした里緒が教室のドアを開ければ、一気に視線が集まった。
「遅れてすみません……。弟、が気分悪くなって、介抱してました」
「そうか。弟の方は大丈夫か?」
「はい」
「まぁ遅刻は十分だし、弟に免じて出席扱いにしてやるからな。席座れよー」
「は、はいっ」
ほっと胸を撫で下ろした里緒は足早に自身の席に行き、腰を下ろした。
「里緒、教科書八十二頁。ノートはあとで見せてあげるから」
「ありがとう、紗智」
隣に座る幼馴染み・
続けられた授業が終わり、里緒が机に突っ伏していれば、紗智は里緒の髪を撫でた。
「大丈夫? 理紅はまたアレかね?」
「……ああ」
アレとは理紅の暴走のことを言う。里緒が好きすぎて変な行動に出ることが多く、受け止める里緒の疲れは半端ない。
「里緒くん、弟くんが呼んでる」
「理紅が?」
声をかけられて視線を遣れば、出入り口には理紅が立っていた。じっと里緒を凝視しながら。ちょっと行ってくると紗智に告げ、里緒は理紅に歩み寄った。
「どうした?」
「うん。ジャージ忘れたから貸してほしいなと思って」
「解った。いま持ってくるから」
踵を返す里緒を瞳に映す理紅は、腕を組ながらドアに凭れる。退屈そうに。紗智はその姿に呆れていた。
「理紅。ジャージ」
「ありがとう、兄さん。これお礼ね。紗智にもあげていいよ」
ジャージが消えた掌には、ラムネ菓子が乗せられる。その一粒ラムネはラッピング袋にいくつか纏められていた。
「じゃああとでね」
身動きが取れない里緒の首筋を撫でて去る理紅に、教室内では感嘆の言葉が吐き出される。主に女子からであるが。
「あー、弟くんかっこいい」
「藍本くんが羨ましいなぁ」
「だよねー。あんなにかっこいい弟と一緒にいられるなんてさぁ」
女の子たちが放つ言葉に耳を塞ぎたくなるが、掌にはラムネがありそれは叶わない。席に戻った里緒は苛立ちを隠すように紗智にラムネを押し付けた。
「紗智にやる」
「ひとつぐらい食べないと、理紅が怒るよ」
「いい。いらない」
フイと顔を逸らす里緒は眉根を寄せる。校内でこうして女装をしているのも、理紅が「兄さんは女装が趣味だから」と押し通したからだ。本当は「りぃちゃんは女装が似合いすぎて可愛いから」という理由からだが。
外面がいい――猫被りが特技の理紅は、恐ろしいことに親の前でさえ猫を被る。だから親や教師、近所の人からも評判がいい。こうして押し通せるぐらいには。理紅の本性を知るのは、里緒に紗智、そして和己だけである。
「里緒」
「……なんだよ?」
「ひとつは食べて」
「はい」と渡されたラムネは、淡いピンク色をしていた。はたと見た紗智の手にあるラムネもすべて同じ色だ。連想ゲームのように理紅との情事で使うローションのボトルを思い出してしまい、ぶわりと里緒の頬が染まる。
「里緒?」
「なんでもない!」
「どうしたの」と首を傾げる紗智に慌てて頭を振る。
理紅にとって、兄である里緒とのセックスにどういう意味があるのか、里緒自身未だに解らない。初めて抱いたあの時に「愛がなくてもできる」と言ったのに、組み敷く理紅はまるで恋人とするかのように口元を緩ませながら、恍惚な表情で事に及ぶ。――兄弟にも拘らず。それが恐ろしくて抵抗しているが、最後は理紅に飲まれていく。長年染み付いた「言いなり」という服従は、簡単には覆せなかった。
◇◆◇◆◇◆
「それ、里緒の?」
「そうだよ。ジャージ忘れたからね」
里緒からジャージを借りた理紅は、更衣室に行くなりさっさと着替え始めた。袖を通したそれは、色が違い一目で里緒のだと解る。理紅は里緒がいる間は、里緒以外からはものを借りないのだから。
少し小さいであろうそれを着こなせるのも、理紅のなせる技だろう。着替え終わって理紅を見れば、理紅は恍惚とした顔でジャージの匂いを嗅いでいた。
見かねた
「理紅、それはちょっとやめとけよ。俺でも引くぞ、さすがに」
「ん……、もうやめるから」
袖口から添えていた鼻を離して、理紅は微笑を浮かべる。それは里緒の匂いを嗅いで想いを馳せているからか、ジャージを里緒に見立てて包まれていると感じているからか。どちらにせよ、「早く行こうか」と放つ理紅を末期だと思うより先に、里緒に対して同情が浮かんだ。
◇◆◇◆◇◆
紗智が寄越したラムネを渋々口に含み、すぐに歯で噛み砕く。広がるラムネの味に里緒はまた眉を顰め、窓の外を眺めた。ラムネは嫌いではない。むしろ好きな部類だが、理紅がくれたことと色に腹が立ってしかたがなかった。