「やばいって……」
なにがどうやばいのか、書いてくれないと判別できないでしょとごちる紗智は、左隣の里緒を見遣った。欠伸をしながら黒板を眺める里緒は半分寝ているのかもしれない。なにせいまの授業は英語なのだから。
「里緒」
「んー……、紗智どうした?」
「私ちょっと気分悪いから、保健室に行ってくるね」
これは理紅に会うための嘘であるが、里緒は目を丸めた。眠気もどこかに飛んだだろうが、たぶんまたすぐに戻るであろう。
「うえっ!? マジで! 紗智、大丈夫か?」
「大丈夫。里緒は心配しなくていいよ」
里緒に手を伸ばし、頭を撫でて席を立つ。そして驚く教科担任に紗智はにこりと笑みを浮かべた。
◇◆◇◆◇◆
先生に保健室に行く旨を放ち、そこに足を運べば、気付いた弟が涙ながらに駆け寄ってくる。
「姉ちゃ~ん」
「理紅は?」
「理紅はそこで、佐藤真由理が……」
カーテンの向こうを指し示す和己に慌ててカーテンを開ければ、理紅はベッドに横になっていた。スマートフォンを弄りながら。
その横に並べられたベッドの上では、佐藤真由理が手首を纏められてパイプに縛られている。口にはハンカチが押し込まれており、くぐもった声が聞こえていた。彼女の眉は顰められているが、理紅は見ていない。
「あれ、紗智……? どうしたの、いま授業中でしょ?」
顔を動かせば、ようやく紗智がいることに気が付いたようだ。
「和己からメールがきたのよ。アンタ一体なにしてるの?」
「ああ、横にいる奴なら、ウザイから縛った。しかもうるさいし最悪」
「あのね、ウザイしうるさいのは解るけど、やりすぎでしょう?」
呆れながら放つ紗智は、眉間に皺を寄せた理紅とうぐうぐとなにかを言いたそうな真由理の間に立つ。
「やりすぎ、ね。こっちは脅された挙げ句に押し倒されたんだけど」
「それはそれは」
「しかもこの女、3Pにもつれ込もうとしてたし。さっぱり意味が解らない。3Pはいまいちだからしたくないんだけどな。あ、和己は解らないけど」
「俺だって趣味じゃねーよ!」
「はいはい。そんな話はどうでもいいから、早く彼女を離しなさい」
「無理。ウザイからこのままでいいでしょ?」
「養護教諭にバレたら面倒でしょうが。それに、里緒にバレても大変でしょうよ」
「――紗智、それ反則」
片手に持つ紗智のスマートフォンがきらりと光り、理紅はまた眉を寄せた。
「……しかたがないな」
長いため息のあと、理紅は徐に起き上がる。
「まぁ、下僕の見当はついたし――離してあげてもいいよ。もちろん条件付きで、ね」
怯えた目を向ける真由理にさらに眉を寄せた理紅は、冷たく吐き捨てた。
「なにその目。アンタが怯える意味はないでしょ。胸糞悪い」
「理紅!」
「写真、ばらまかれたくなかったら、大人しくしてなよ。お前がりぃちゃんに手を出したなら、俺は全力でお前を潰すから。バカじゃないんだからさ、俺の言うこと、聞けるよね?」
――ぞわりとした。理紅の目は笑っていない。それどころか口端が歪んでいる。
「男を漁ろうがなにしようが勝手だけど、俺とりぃちゃんの邪魔だけはするな」
スマートフォンを真由理に放り投げ、口に押し込んだハンカチを取り出してはすぐにゴミ箱へと投げ捨てる。うまく入らずに外に落ちたがどうでもいい。拘束を解いた理紅は、ネクタイを結び直そうと襟へそれをかけた。
「……理紅、くん……」
「あー、本当につまらない」
さも当然のように放つ理紅の顔は無表情だ。
「つまらないから教室に帰るわ。あとはよろしく頼むね」
紗智たちに笑みを溢したあと、理紅は欠伸をしつつそのまま保健室を出た。
◇◆◇◆◇◆
流れるその沈黙を破ったのは和己だ。姉を見遣り、ため息を吐きながら。
「よろしくだってよ」
「理紅が言うなら、それ相応にってことでしょうね。それにしても、面倒くさいことをしてくれたわ――佐藤真由理さん」
四つの瞳に射抜かれる真由理の躯はびくりと震えるが、怯んではいないようだ。
「理紅くんには私みたいな人が似合うでしょう? かっこいい理紅くんの隣には、可愛い私がいなきゃいけないのよ」
放り投げられたスマートフォンを撫でながら、うっとりと真由理は放つ。薔薇色の未来を思い描いているのだろうが、ふたりからしてみれば苦笑ものだった。
「馬鹿ね。似合う似合わないの問題じゃないって解らないの?」
「理紅は佐藤には振り向かないよ。だから諦めな」
「解らないでしょ、そんなの……! 私は絶対理紅くんを落とすの! 理紅くんが傍にいてくれるなら、他の男を漁るのはやめるんだからねっ」
この女は人の話を聞いていないらしい。
というより、理紅が弄っていたスマートフォンは真由理のものだったのか。
「姉ちゃんどうする?」
「これ以上なにかされても困るしなぁ。けど」
話を聞かないのなら、これ以上話していても無駄だ。
苛立つ紗智は小さく舌を打ち、弟に吐き捨てた。
どうにもならないから、あとは理紅に任せると。
◇◆◇◆◇◆
渡り廊下をのろのろと歩いていれば、四時間目の終業のチャイムが鳴り響く。
「お昼、か」
何度目か解らない欠伸をしながら窓の外を眺めれば、走る足音が聞こえてきた。
数メートル手前で止まるそれに視線を遣れば、理紅は微笑みを浮かべる。
「理紅……! お前なんでここに……」
「保健室から帰る途中だよ。りぃちゃんは?」
「紗智の様子を見に行こうかと、思って、さ」
「紗智なら大丈夫だよ」
肩で息をする里緒の腕を引きながら窓枠に凭れて、抱きしめる。里緒からは中庭が見えたが、視線は理紅にあった。