「さあ。それは俺にも解らないな。もうそろそろ時間だから教室に帰るね」
空いた手でくしゃりと頭を撫でられ、里緒は小さく頷いた。ふたたび唇を尖らせて。
踵を返す理紅と和己のふたりを見遣り、ポツリと呟く。「オレは兄貴だぞ」と。
紗智は里緒のその姿に小さく笑いながら、「拗ねないの。ほら、帰るよ」と背中を押した。
◇◆◇◆◇◆
五時間目は最も苦手とする数学である。午後イチでコレでは、眠気を誘っているとしか思えない。そして当然のように里緒は、半分夢の中にいた。
「里緒、寝たらダメだからね」
「……解ってる。寝たらお説教コースだかんな。しかも二時間も」
「最悪だった」と紡ぐ里緒は、もちろん身をもって知っている。お説教は三十分で済んだが、その後の雑用が辛かった。プリントを纏め、ホチキスで綴じるというのを延々とやらされた。実際には一時間半で終わったが、延々と感じてしまったものはしかたがない。
「藍本ー、寝るなよー。寝たら説教だ」
「寝てませーん。つか、名指しはやめてくれー。眠気飛んだ」
里緒の言葉にクラスは笑いに包まれ、そのまま授業は続行された。そして六時間目の現代文も、帰りのHR前の掃除もHRも難なく終え、放課後のいま、里緒は理紅のクラスに来ていた。ほとんどの人は帰ったか部活に行ったであろうそこは、疎らな人数で占められている。
里緒の目の前の席に座る理紅はなにかを書いているようで、目元はそこに注がれていた。
「ジャージ返してもらったから」
「そう」
目線を合わせるように里緒は屈み込み、じっと理紅の手元を眺める。
「なに書いてんだ?」
「入部届け」
「え……、お前部活に入るの?」
「まさか。一応書いてるだけだよ。兄さんと過ごす時間が減るのは勘弁」
書き終えたそれは、無情にもすぐにクリアファイルにしまわれてしまう。入部の欄には、男子バスケット部と綺麗な字で書かれていた。
「バスケ部って、確か部長が腕の骨折ってなかったっけ?」
「折ってたね。でも俺には関係ないから」
「兄さん」と目を細めて「帰るよ」と放つ理紅に、「ならカバン取ってくる」と里緒は立ち上がった。ジャージを返してもらったことを伝える為に来たのであって、カバン自体は持ってきていないのだ。
「待ってるから」
「おう」
緩く手を振る里緒を見送り、理紅は帰り支度をし始める。通学カバンになっているスポーツバッグの中には、色が違うジャージが入れられていた。
「――また忘れたことにしよう」
嘘だと気づかれるまでは。
いつだって、兄が恋しいのだから。
◇◆◇◆◇◆
教室に帰れば、なぜかそこに和己がいた。里緒の席にぽつりと座る和己は、なんだか不安げに眉を寄せている。
「和己……?」
「里緒に、頼みがあるんだ」
「なんだよ?」
早く言えと目で訴えた里緒に、和己は口を開く。
和己の話を聞いている間は顎に手を添え、聞き終えた後は小さく頷いた。
「……そうなのか。解った。説得してみる。けど、入部するかしないかは理紅が決めることだからな」
「それは解ってる。じゃあ、よろしくな」
「おうよ」
心が軽くなったであろう和己の足取りは、軽いように見える。
里緒はカバンを手に、和己に続いて教室を後にした。
◇◆◇◆◇◆
教室の入り口から、頬杖を付く理紅の横顔が見える。退屈そうに欠伸をするその姿に、どくりと里緒の心臓が跳ねた。茜に染まる理紅の顔は、妙な艶があったのだ。いや、茜に染まらなくとも、理紅の全てはいつも輝いていた。
――口には出さずとも、カッコいいと何度思ったか。理紅のようにカッコよくなりたいと、何度願ったか。
「りぃちゃん、遅かったね」
「あ、ああ……悪い。話し込んじまって」
「そうなんだ」
里緒に気が付いた理紅は、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ごめん」
「そんなに謝らなくてもいいよ。早く帰ろう」
急いで理紅の席に走り寄れば、理紅はカバンを肩に席を立つ。そうして里緒の腕を取り、勢いよく歩き出したが為に、里緒はつんのめりそうになった。
「ちょっ……、危ないだろ!」
「ごめんね。けど俺は、ムカついてるから」
「だから謝ってるだろ。つか、お前さ……、その、部活……っ」
ぐいぐい引っ張られながら、それでも負けじと里緒は口を開くが、振り返る理紅の顔に息を呑んだ。突き刺さる視線の先の冷めた目が、茜の中で光る。
「なにを言われた? 和己か部員か部長かは知らないけど、なにを言われたの?」
「その……部長、が、怪我をしたのは……」
「知ってるよ。そんなこと。部長が直々に来て、マシンガントークで話したから」
「えっ!? そうなのか!?」
「気持ちは解るけど、りぃちゃんとの時間を割くのは無理だよ」
頭を撫でるいまの目は、あの冷たい瞳ではない。理紅の冷めた表情は迫力があり、恐怖も生まれてくる。
「で、も……理由を知ってるなら――」
「協力してやれよ」。しかしその言葉は、飲み込むしかなかった。理紅の唇がそこに触れ、上唇を舐められる。
里緒は躯を竦め、理紅を見上げた。
「俺が一番嫌いなことは、りぃちゃんとの時間が減ることだって解ってるよね?」
吐息が鼻先にかかるぐらいの近さで放たれる声には、強い怒気が孕んでいる。
「協力ぐらいしてやれって思っているんでしょ、りぃちゃんは。どうしてそんなことを思うの?」
「和己が、負けたくないって、言ってたから」
「和己が――、ね。りぃちゃんが遅かったのは、そういうことだったんだ」
もう一度唇を舐められるが、今度は柔く噛まれた。理紅はそのまま何度も舌を這わせ、口角を上げる。
「りぃちゃんは、俺よりも和己と楽しんでたんだ? 気に入らないな」