「じゃ、これを宜しく頼むよ」
「了解です」
慣れない日本語の敬語を口にしつつ、受け取ったトレーを店舗内の席へと運び、置く。その際にメニューを復唱し、確認するのを忘れない。常に笑顔をキープしておけば問題はない。少なくとも俺の見てくれは悪くはないのだ。笑顔を浮かべていれば相手からの印象は悪くならない。それを終えたら静かに下がってカウンターの方へと戻る。平日という事もあり利用客の姿は少なく、週末のラッシュアワーと比べれば平穏そのものと呼べるような状況だった。元々は恭也の物だった喫茶店の制服にエプロン姿で今、
自分は喫茶翠屋のアルバイトをしていた。
やっぱり、金を稼ぐのは大事な事だ。生活費はかかるし。フィルがそれなりの資産を抱えているが、アイツに借りを作るのはいろんな意味で危険なものを感じる。となるとやはり、何とか自分で生活費を入手する必要がある。となればアルバイトだ。それしかない。いい年した社会人なのだから、働かないという選択肢は今更なかった。そして幸い、やや恥ずかしい話ではあるものの、高町士郎は力になってくれると言ったので、金を借りるのではなくこうやって労働の場を用意して貰った。
結果、こうやってアルバイトとしてウェイターなんてやっている。もっと細々とした雑務を押し付けられると思っていたが、普通にフロアに立たされて驚いている部分がある。とはいえ、フロアに出ていてもやる事はそこまで難しくはない。
痴呆の猿でもなければ守れるルールを守るだけだ。
難しい事じゃないだろう。寧ろ社会のニュースで出て来る問題を起こす馬鹿は、なんでこれぐらいさえも守れないのか時々不思議になってくる。あぁ、いや、自分もそういう馬鹿だったから気持ちは解るには解る。だが馬鹿だろう。そんな事を考えながらカウンターの横に戻る。カウンターの直ぐ向こう側には士郎がいる。
「ありがとう。仕事にはそろそろ慣れた頃かな?」
「まぁ、そこまで難しくはないので助かっています」
「その調子のまま週末を乗り切ってくれると助かるよ。最近は土日の利用客も増えてきているしね」
「頑張らせて貰います」
カウンターに寄り掛かりながら軽く息を吐く。翠屋でのアルバイトも始めてから数週間が経過している。初任給はまだだが、あと数日で貰えるところだ。入ったら生活雑貨周りを充実させないとならない。その他にも研究所の方に食費とかの方も入れなきゃならないし、しばらくは生活がキツイままだろう。とはいえ、漸くお給料がもらえるという事実は中々嬉しい話だ。
ここまで真面目に働くのも、恐らく人生で今までなかった経験かもしれない。
相変わらず、自分に存在する過去かどうか怪しいが。
疑って、疑って、キリがない。どこかで疑うのを止めなくてはならない。そう思っていてもずっと、頭の中を自分が偽物かもしれない、という事実がぐるぐると回り続けている。自分はゲームに出て来るNPCの様なキャラクターかもしれない、と。そう思うとどうしようもないムカつきと吐き気を覚えて、
消えたくなる。
「しかしノア君」
「はい? なんでしょうか」
士郎に呼ばれ、姿勢を正しながら士郎へと視線を向ければ、知ろうがそこまで真面目な話じゃないよ、と苦笑しながら楽にするように手を振る。
「君、もしかして何らかの武術を覚えていたのかい?」
「え?」
士郎の言葉に少しだけ驚きの声を漏らす。
「君の足の動き、自然と音を殺す癖がついているよ。体の重心も安定していて、足腰でちゃんと体を支えるように動いている。武芸の技術が肉体に染みついている部分があるけど、何となく無意識的に出てきているという部分もある……慣れてない、って感じだけどどうかな?」
「せ、正解です」
ズバっと指摘する士郎の慧眼に恐れ入る。だが思い出せばリアルランボーと噂の親父と戦友だったらしい人だ。そう考えると自分では解らない様な実力者なのかもしれない。士郎はうーん、と声を唸らせる。
「私がもう少し若ければ稽古をつけてあげられたんだけどなぁ。今はもう看板を恭也に渡してしまってね」
「いえ、こうやって働かせて貰っているだけで充分です。それ以上の世話は申し訳ないです」
そうやって士郎と話していると、ベルの音と共に店の扉が開く。反射的にいらっしゃいませ、と口にした所で入店して来るのが高町恭也―――海鳴の大学に通う青年の姿であるのを目撃する。入ってきたところで士郎が良い所に来たな、と恭也を見て言う。
「恭也、暇な時に軽くノア君に稽古を付けられないか?」
「士郎さん、本当に。本当に良いですから……こっちも対戦相手ちゃんといますから、大丈夫ですから……」
何とか言葉を取り繕いながら押せ押せの様子の店主に落ち着く様に説得していると、苦笑しながら恭也が近づいてくる。
「父さんが済まないな……こう、悪い人じゃないんだけどお節介で……」
「何を言うんだ恭也。困っている人を見かけたら、関われる範囲で助ける。人としては何も間違っていない事だろう?」
「そりゃそうだけどさ、相手の迷惑とかを考えようよ父さん」
恭也のごもっともな言葉に、士郎はしかしだなぁ、と声を出そうとして、厨房の方から名を呼ばれる。
「おっと、桃子に呼ばれてしまったね。一旦裏に戻るけど、一応考えておいて」
「は、はぁ……」
「あそこまで押しの強い父さんも珍しいな……」
厨房へと消える士郎の様子を恭也と共に眺め、軽く息を吐いてから改めて恭也に軽く頭を下げる。それを見て恭也が苦笑する。
「あぁ、いいや。それよりもお前も武術をやってるんだろう?」
「まぁ、やっているというか継承されたというか……」
使おうとすればいくらでもジークリンデの武芸が引き出せるという感じ、だろうか。本人が喜んで手を添えて来る。その感触が日常に根付いているのが解る。無意識的に音を殺して歩いているのは恐らく、能力の暴発か暴走か。そこらへんだと思っている。少なくとも自分は。まだこの他人の技を使うという感覚に全く慣れていないのだ。
「ふむ……まぁ、父さんに言われたから、という訳じゃないけど困っているなら別に頼っても良いぞ? 俺の事は」
恭也の申し出にちょっとだけ困る。
「いや、それは」
「別段言われたという訳じゃないが、俺も他の流派の技は気になるからな。場合によってはウチの流派に取り入れたいし」
「そういうもんなのか」
「そういうもんだ」
だからもっと気楽に構えればいいさ、と言って肩を叩きながら恭也が奥へと消えて行く。その姿を見送り、この高町一家という善性の塊の人間たちを良く理解する。
この人たち、一家全体でお人よしなのだ、と。
「ふぅ、終わった終わった」
長時間の勤務となると一日中世話になっているようなもんだ。昼食付なのは地味にありがたいが、此方から働かせてくれと頼み込んだ分、申し訳なさが残る。自分の存在が余りにも都合が良い、という事実はまるで相手を利用している様な気分になってしまい心が休まらない。結局、フィルは元から存在していた部分は手が付けられないから上乗せする形で付与していたと言ってた。つまり後から思い出す様に追加された高町家は、都合の良い展開の犠牲者ではないか、という話だ。
そう考えてしまうと、素直に頼る事もありがたく思う事も出来ない。
結局、俺が巻き込んでいるだけだ、と思ってしまう。
消えてなくなりたい。
日に日にその思いが募って行く。誰かに頼る度に、自分一人ではどうしようもない状況を理解するたびに、優しくされるたびにそう思えてしまう。
高町家の優しさが、辛かった。
それでも頼らないとまともに生活出来ないという事実が更に辛かった。
「はぁー……何のために生きてるんだ俺」
ディアーチェ、ディアーチェの為。自分にそう言い聞かせながら翠屋からの道を歩く。正直、ディアーチェが既に戻っていた場合、自殺でも考えているぐらいには今の状況には嫌気が走る。自分という人間がもう解らないし、次から次に出される新しい名称、設定、力、能力、武器、
そんなものが今の状況で楽しめるわけもない。
ただただ、疲れて行くだけだ。だけどそれを顔に出した所で心配されるだけだ。だからそれを何とか仮面をかぶって誤魔化さなければならない。だがそれさえ、上手く出来ているかどうかが解らない。士郎には多分、無理をしているって一瞬でバレている。だからあんな風に世話を焼こうとしている。流石親父と一緒にリアルランボーしてただけはあると思う。
「……はぁ」
溜息を零す。この国に来てから、此方の言葉に、文化に、そして状況に流されっぱなしだ。
帰る場所があるのだろうか。帰れるのだろうか。俺は存在しているのだろうか。俺は誰なんだろうか。何故、俺なんだろうか。
その考えがずっと頭の中で転がり続けている。一体、どこの悪趣味なクソ野郎がこんなことをしているのだろう。なんで、こんなに苦しまなければならないのだろうか。もう、死んで全部終わりにする事は出来ないのか?
苦しくて苦しくて、泣きそう。
消えてなくなりたい気持ちを、ただ、助けると決めた。その矜持の為だけに何とか頑張る。だがこれでディアーチェが戻って来た時、
自分が、どういう行動をするかが……ちょっと解らない。
少なくともそのまま普通に生きて行くというのは耐えられない事だ。それにもし、俺が最初から存在しない様な存在であれば、消えてしまえばいいのだ。そうすればどうせ、別の奴が用意されるんだ。その時はそいつに全部押し付ければ良いだろう。どうせそいつが喜んでやってくれるだろう。
次の道化だ。
薄っぺらい言葉で己を誇っていた事に死にたくなる。中身がないと言われればそうだ、としか答えられない。実際、経験してきた人生が消えたのに等しいのだ、信じられないという事は。だから言葉に人生が何も詰まっていないのだ。何を語ってもぺらい、軽い、意味がない。だったら喋らない方がはるかにマシに決まっているというものだ。
人間、落ちれば落ちるものだ。
それを我が身で良く理解した。
だがそれでも生きていかなくてはならない。それは義務だ。故に帰ってフォーミュラの勉強を進める為にも暁町への帰り道を進もうとしたところで、
「あ、ノアさん」
「ん? あぁ、なのはちゃん」
学校の帰りか、制服姿のなのはが正面から歩いてくるのが見える。そう、中学生ぐらいの年齢なのだから、普通に学校に通っている筈なのだ。そして夕方にもなってれば帰ってくる。キリエにアミタ、シュテルもレヴィもそこはどうやら学生らしいが、学校を普通に休んで生活を満喫している為、学生らしさは皆無だ。あの連中と比べるとなのははまだ普通だ。
普通だが、
「ノア君は仕事帰りですか?」
「あぁ、今終わった所だよ」
「そうですか、お疲れ様です。おかげで私も休日増えましたし」
ありがとうございます、とピースサインを浮かべて来る。その真面目に此方の対応をするなのはの姿を見て、素直に感心する。
「なのはちゃんは凄いな」
「へ? 何がですか?」
此方の言葉に軽くサイドテールを揺らす様に頭を傾けながら、なのはが何の事か解らない、と表情を浮かべるが、
いや、だって、と言葉を向ける。
「なのはちゃんさ」
その言葉でなのはがはい、と言葉を向けて来る。
「―――」
その言葉になのはが動きを止めた。一瞬だけ呆然として、それから直ぐに表情を取り戻す。
「そんな事ないですよ? 何を言ってるんですかノア君ってば」
そう言ってなのはは軽く笑うと、
「じゃ、私は帰りますね」
そう言ってやや駆け足でなのはが横を抜けて翠屋へと向かって去って行く。逃げるように去って行くなのはの姿を見てから軽く頭を書いて、歩き出す。
「年下虐めて何やってんだ……」
年長者の筈だろ、俺は。年下虐めて、年下に面倒みられて。それで生きているのが情けなくはないのか。情けなくて死にたいぐらいだ。
ほんと、平穏で何もない死にたくなる事だらけの日々が続く。
螺子を回してゆく。
映画と漫画でなのはが実は特に罪悪感を抱いているという訳でも、家族に構われていないから歪んでのではなく、ただただ達観しすぎて子供らしからぬ思想から終着点へと理解してしまっているキャラクターである、というのは恐ろしい情報でしたね猿渡さん……。