(ちょっと長いよ)
ファーストキスは香澄に奪われた。あれはとんでもない出来事で、当時はめちゃくちゃ混乱してたと思うけど、今となってはあれがあってよかったなと思う。
初夏。Afterglowとの対バンがあって、香澄が美竹さんにじゃんけんで勝ったので出番は二番目だった。だからポピパの出番のときには観客席の前のほうは詰まっていて、後ろの出入り口付近で観るしかなかった。とはいえ、そこなら終わったあとに裏に行くまでのタイムロスがないので、すぐにポピパを出迎えることができるというメリットがあった。
最後の曲である「Happy Happy Party!」が終わって香澄たちが袖にはけていくのと同時に俺は観客席から飛び出して、関係者用の扉を開けて裏の通路に向かった。ちょうど香澄たちが控え室に戻るところを出迎えられたようで、ランダムスターを抱えながら先頭を歩く香澄ににへらと笑いながら手を振った。
俺をみつけた香澄はギターをくるっと背中に回して突進してきた。ギター分の重みが増した香澄を腕を広げてがんばって受け止めると、香澄は突進した勢いのまま俺の唇にちゅーしてきたのであった。
「んーっ♡」
「え?」
「どうだったどうだったどうだったっ!?」
「声がでかい!」
「だってー、めちゃくちゃキラキラドキドキだったんだもん!!」
目の前で香澄がぴょんぴょん跳ねながら叫んでいたが、俺はキスされたことに混乱していて、香澄がなにを言っているのかがわからなかった。背中に回したランダムスターのヘッドが床に当たりそうになって、ヒヤッとしたが、一番うしろから見ていた沙綾が早足でやってきて、ランダムスターのボディを持ち上げてくれたことがなぜか印象に残っている。
「こら香澄、機材は大事にしないと」
「あっごめん沙綾っ!」
香澄は俺から離れて慌てながらストラップを肩から外してギターを傍に控えていた有咲に押しつけた。
「ちょまっ」
めちゃくちゃ嫌そうな顔をしながらランダムスターを抱える有咲を尻目に、香澄はまた俺に詰め寄ってきてライブの感想を訊いてくるのであった。
「わかった、わかったから。ライブすんごいよかったって。でも詳しい話はあとでな、Tシャツとか着替えてこいって。めっちゃいい匂いするから」
「う?」
香澄はすこし離れてTシャツの首元をつまんで自分の匂いを確認する。汗が輝くデコルテがかなり目に毒だったので、有咲に俺が持っとくからと言ってランダムスターを渡してもらい、はやく片づけに取り掛かってくれ、と目で訴える。
「香澄、はやく撤収の準備すんぞ。まりなさん優しいけど時間は厳守しねぇと迷惑かかるだろ」
はーいっ、と香澄はバカでかい声で返事をしてメンバーを連れて控え室に入っていった。俺はいつもみたいに控え室の番人となるために廊下に腰をおろした。胡座をかいた恰好でランダムスターを構えると、ボディの下側のくぼみがふとももにジャストフィットする。ただ、あまり激しく動くと尖ったところが床にこすれてしまうのが難点だった。その尖ったところはやっぱり塗装が剥げていて、でもこれは香澄がこのギターを使ってたくさん練習しているという証だったから、めちゃくちゃジーンとする塗装剥げなんだよな。
お守りがわりに持っている、たえとお揃いのうさぎの絵が描かれたピックをポケットから取り出して、「走り始めたばかりのキミに」のイントロを弾いた。すこし複雑なアルペジオだからこれを弾きながら歌うのはけっこう難しい。でもその日のライブはこの曲が一発目だった。「夏色 SUN! SUN! SEVEN!」みたいな勢いとコーラスでごまかせそうな曲からはじめたらいいのに、わざわざ香澄は大変な曲からはじめるんだもんな、と思うと、あることに思い至った。
そうだ、香澄がいつもより昂奮してたのは、難しいセトリをやりきれたからだ。そうして香澄の態度のことを思い出すと、ステージから戻ってきた香澄にファーストキスを奪われたことを俺はしっかりと理解した。
キスしたあとの香澄の態度を考えるかぎり、香澄は自分がそんなことをしたと気がついていない様子だった。ふつうなら、そんなことはありえないだろうと思うかもしれないが、香澄は野生の獣的なところがあるというか無意識で行動することがあるので、そのときの混乱した頭であっても香澄のことを正確に推測できたのであった。
そしてその推測は当たっている。控え室の扉がすこしだけ開き、りみがこう話してくれたのだ。
「あっ、響くん。あのね、やっぱり香澄ちゃん覚えてないみたい」
「覚えてない?」
「覚えてないっていうか、なんだろ、わかってない、みたいな? そんな感じ」
「それってなんの話?」
「ええっ!? 響くんも覚えてないの!?」
うわー、恥ずかしいっ。じゃあ私だけが気にしてたってこと!? と、りみは赤くなってゆく顔を隠してそう呟いた。
「もしかして、あれ、ちゅーされたこと?」
「はわっ!? そそそそ、そうだよ。うん……」
「あー、じゃあやっぱ香澄、自分でもなにやってるのかわかってなかったんだ」
「響くん……。あの、あんまり気にしちゃダメだと思うよ」
「そうかもしれんけどなぁ……。俺、はじめてだったんだよな」
「えっ、そうなの!?」
「うん。まぁ、香澄もはじめてだろうけど」
「それなら、なおさらなかったことにしたほうがいいんじゃない?」
「うーん、ま、そうかもな。そうするよ」
そう言うとりみは、ほっとした表情になった。今から思うとりみは俺のファーストキスが欲しかったんじゃないかと思う。あんな事故みたいな感じで香澄に奪われるなんてずるい、と思ったのではないだろうか。でも、そのことはりみだけが知っている。さすがにこのことを訊くことはできなかったし、このあとに香澄にしたことは、ほかのメンバーたちにはあまり知られたくない、後ろめたいことだった。だから、あのキスのことを掘り返すようなことはできなかった。
CiRCLEからの帰り道、俺はずっとそわそわしていた。香澄は覚えていないといえども、彼女にキスされたことには変わりはなかったからだ。あの一瞬の感触は今でも思い出せない。香澄も覚えていないだろう。でもだからこそ、あれはいったいなんだったのか、意味がなかったのか、しかしキスしたのは事実ではあるのだ、という思いが駆けめぐった。どうしようもない気持ちになった。
そんなだったから、いつものところでみんなと別れたあと、香澄のエフェクターボードを持ってあげていたのを忘れていたことに気がついた。スマホで香澄に連絡をして、香澄の家まで持っていくことにした。
香澄は帰路の途中で立ち止まって俺を待ってくれていたみたいだった。
「ごめんね、持たせちゃったうえにそのこと忘れてて」と香澄は両手を合わせて謝った。
「いいよ、こうして香澄と帰ることができるし」
「えへへ。やさしいね、ひーくんは。ほんとは私もおたえみたいにガラガラのやつで運びたいんだけどね」
「あー、マグナカートなぁ。あれ、『香澄はそれで遊ぶし、ほかのひとにぶつけて歩くだろうから絶対だめ!』って有咲に止められたんだっけ」
「うん。そんなこと絶対ないのになぁ」
と言いつつ歩く香澄だったが、こっちに振り向くときに背負ってるギグバッグを電信柱にぶつけそうになったので、腕を入れて阻止したりしてやらねばならなかった。そんなだから有咲に言われるんだぞ、と呆れたように言うと、香澄はいつもみたいにえへへへと苦笑いするだけだった。
そう、香澄はやっぱりいつもどおりの香澄だった。
「な、ステージから帰ってきたとき俺になにかしたの覚えてないか?」
「抱きついた?」
「そう」
「うん、覚えてるよ」
「それだけ?」
「んん? うん。え、違うの?」
「違うよ」
「えっ、なにしたんだろ。もしかして膝がお腹に入っちゃったり? そうだったらごめん」
「もっとすげぇもんが入ったよ」
「ええっ、ほんと!? 膝じゃないとしたら、星!?」
「星が入るってなに!? 頭お星さまかよ!」
「いや流れ星がわ~って」
そんなアホな会話で困惑する香澄はおもしろかったが、本気で俺のファーストキスを奪ったことを覚えていない様子に若干の苛立ちがあったみたいで、ファーストキスのやり直しができる機会がないかずっと探っていた。
もちろんそんな機会が今まで訪れたことがないので、その日だって訪れることはなかった。香澄の家に到着するまでは。
「ひーくん、ちょっとあがってかない? たしかゼリーとかあったと思うから」
「んー?」
「あ、お礼したいなと思って」
「そういうことか」
いつもの俺ならその申し出は断る。ポピパのみんなとはこれ以上の関係になるつもりはなかった。彼女たちがバンド活動に真摯に打ち込んでいるそこに、誰かに「男」ができてしまうということがあっては、いいことにはならないだろう、と思っていたからだ。
そんなこと関係なくなってしまうくらい、俺は、香澄とファーストキスのやり直しがしたかった。しっかりと覚えておけるものにしたかった。いや、もしかしたら、あの感触は忘れてしまったと今では思っているが、あのときは鮮明に覚えていたのかもしれない。それなのに香澄はまったく忘れている。それがどれだけ座りが悪いことか、そのときの俺の行動が示している。
ライブ帰りの香澄の帰宅時間に合うように夕飯が用意されていて、俺はそれにご相伴に預かることになってしまった。香澄の家族とはポピパのライブで出会ったことがあったので、紹介という形にはならなかった、なぜか彼氏をはじめて家に連れてきました、みたいな雰囲気になったので、かなり居心地の悪い思いをすることになった。
香澄は、なぜかそのときはそれを察してくれて、俺のことをポピパのマネージャーだと説明してくれた。俺がいなかったらポピパはもう活動してなかったかもしれない、だからみんなにとっての恩人だ、というものだ。恥ずかしい説明だ。俺なんかがいなくても、ポピパはポピパでやれただろうと思うが、それは確かめようのないことだった。だから、俺が恩人だというのは、香澄たちにとっても、俺にとっても事実ではあった。
夕飯のあと香澄に部屋に招待された。香澄は冷蔵庫からゼリーをふたつ持ってきて、これを食べようと言ったのだが、ゼリーの蓋にそれぞれ「あすか」「かすみ」と書かれていた。その「かすみ」のほうを俺に差し出してきたので、妹の分を食べようとしているらしかった。
「一個をわけっこしよう」
「えー、それじゃあお礼にならないよ」
「香澄とひとつのものをわけっこして食べ合うの、俺にとってはめちゃくちゃお礼になるなー」
「えっ、あっ、そうなんだ……」
香澄が照れる。そうやっていつもは絶対に言わないことを言って雰囲気を作っていった。ゼリーもそれぞれのスプーンで食べるのではなく、洗い物が増えるのは申しわけないからと言って、ひとつのスプーンで、しかも「お礼なんだから香澄に食べさせてもらおうかな」なんて言って、食べさせ合う方向にもっていった。この手腕は自分でも驚くほど鮮やかだったと自負してもいいと思うが、もしかして単純に香澄も食べさせ合いっこをしたいと思っていたのかもしれない。
香澄と俺は密着しながらゼリーを食べさせ合った。こんなに長く密着したのははじめてのことだったから、香澄のいつもの天真爛漫さは鳴りを潜め、恥ずかしそうな、それでいてどこかうれしそうな表情で俺の差し出すスプーンを咥えた。
「なぁ、ほんとに覚えてないんだよな?」
「ライブ終わりのこと?」
「そう」
「ごめんね、ほんとに覚えてないんだ。ていうか、ライブ自体もそんなに覚えてなくて、とにかく楽しかった~! やりきった~! って感じ」
「たしかに今日の香澄は神がかってたというか、走り始めたの第一声がなんか今までと別モンだったんだよな」
「そうなの?」
「ああ、めちゃくちゃかっこよかった」
「えへへ」
「ま、だから覚えてないっていうのも無理ないかもな」
「それ、私がなにをしたのか教えてもらえないやつ?」
「知りたい?」
「うん」
「キス」
「うん?」
「香澄にキスされたんだよ。ファーストキスな」
「へ?」
「キス。ちゅー」
「いや、うん、何回も言わなくてもわかるけど……。冗談だよねっ?」
「りみに訊いてみたら? もしかしたら有咲とかも見てたかもしれないけど、りみは確実」
「えっ、えっ、えぇっ? 私、ほんとにひーくんに……キス、したの?」
「したよ。されました」
「うそっ、まったく覚えてない……」
「うん」
「それに、約束やぶっちゃった」
「約束?」
「ううん、それはなんでもない。ていうか、ほんとに?」
「俺はこういう嘘は吐かないのは知ってると思うけど」
「えっと、じゃあ、私とひーくんがキスしたのは、ほんとのこと」
「うん」
「私とひーくんがキスしたの?」
「実感なさそうだなー」
「いやだって覚えてないんだもん! なんで!? どうして私覚えてないの!? てかどういうこと!? ライブ終わりに抱きついてちゅーってしたの!?」
「そうだよ」
「私バカじゃないの!? 覚えてないんよそれ! ひーくんは覚えてるの!?」
「覚えてるから、こうやって話してるんだけど」
「あああ、それはそーか……。えっ、じゃあずるい。ひーくんずるい」
「なにが」
「私もファーストキスだった!」
「じゃあやり直す?」
「えっ?」
そして完璧な流れで香澄をカーペットに押し倒して、俺はキスをした。香澄は突然のことに目をぱちくりさせた。
「えっ、今、キスした?」
「したよ」
「あんまり、よくわかんなかった、かも?」
「なんだそれ。それじゃあもっかいな。今度はゆっくりするから」
「じゃあこれが、次がファーストキスってことにしてもいい?」
「それじゃあ俺も次がファーストキスってことにする」
「うん。……ほんとに、するの?」
「目は閉じる?」
「閉じ……恥ずかしいけど、私、ひーくんの顔見るの好きだから、開け、とこう、かな?」
「香澄、今めっちゃ恥ずかしいこと言ったの、わかってる?」
「うーーーー」
ポカポカと俺の身体を叩いてくる香澄が可愛らしかった。これがファーストキスでよかったと思った。
「それじゃあ、するから」
「うん」
頬を撫でると、香澄はうっとりとして目を潤ませた。仰向けになって倒れた状態だけど、すこしだけ顎をあげて俺のキスを待った。香澄の唇は、さきほどよりも暖かく、しっとりと柔らかだった。香澄の肩に手を置くと、まだ強張っているのがわかった。右手を頭に持ってゆき、置く。それから下唇を挟むようにしてキスをすると、香澄は、んっ、と吐息を漏らし、目を細めた。香澄からいい匂いがした。そうやって長くやさしいキスをすると、香澄の身体から強張りがなくなっていき、俺の背中に手を回し抱きしめてきた。
そうして、俺と香澄のファーストキスは終わった。時計を確認すると、香澄の部屋に来てから三十分以上経っていた。手を引かれ身体を起こした香澄は、俺と同じように時計を確認して驚き、えへへとはにかんだ。
香澄のベッドの縁を背もたれにして、隣り合って座った。香澄は俺の肩に身体を預けて甘えてきた。今日のライブのことや、あのときのキスがりみに見られていたこと、りみとこういう会話をしたということなんかを話した。帰らなくてはならない時間はすぐにやってきた。
「さすがにもう帰らないとね。明日になっちゃう」
「ああ、香澄の両親も心配するだろうし」
「ほんとは、泊まっ……。ううん、なんでもない。また明日ね」
胸の前で手を振るのを掴み、香澄の身体を引き寄せキスをした。
「また明日」
「はわぁ……」
最後の香澄の顔は、今まで見たなかで、一番可愛いものだった。
次の日、香澄の態度はじつはあまり変わらなかった。ただ、通学中、香澄と隣り合ってみんなの一番うしろを歩くことになったとき、香澄に袖を引かれなんだろうと思って顔を見ると、女の顔をして微笑むときが何度もあるのだった。
みんなに知られてはいけないこの背徳は、それからしばらく続いた。