人が他人を『顔見知り』というカテゴリに落とし込む時、そこには概ね二種類の意図が含まれている。
一つは『顔見知り以上の関係と言えるほどに親しくない』相手。
もう一つは『顔見知り以上の関係になりたいとは微塵も思わないが、不幸なことに顔は知っている』相手。
「…………」
「…………」
キリト――もとい、桐ヶ谷和人にとって、目の前に居るこの男はまさに『顔見知り』だった。主に前者の意味で。
もっとも、向こうにしてみれば後者の意味だろう。ARデバイス・オーグマーを付けたその横顔が、何よりも雄弁に彼の感情を物語っている。
「では、桐ヶ谷さん。ご面会の準備ができましたら番号でお呼びしますので、こちらに座ってお待ち下さい」
「あ、ありがとうございます……」
老若男女、多種多様な人であふれる病院の待合室。
面会の手続きを済ませた和人をここまで案内してきた女性看護師は、男二人の間に漂う気まずさを無視してそそくさと仕事に戻っていく。
ここを除いて、待合室の椅子に空きは無い。かといって、どこかに立って待つというのもなかなかの不審者ぶりを発揮してしまう。選択肢が無いことを理解した和人は、背負っていたデイパックを床に置くと、公共施設などによくある三人がけ用の椅子の端に渋々と腰掛けた。
「…………」
「…………お前も面会か。まさか、こんな所で会うとはな」
「それはこっちの台詞だ。エイジ」
真ん中の空席を挟み、反対側の端に座る男――エイジ、もとい、後沢鋭二。
かつて《SAO》クリアを目指して仮想世界で剣を振るい、そして譲れぬ者の為に現実世界で刃を交えた二人の剣士は、テレビから流れるバラエティ番組の歓声と、待合室を行き交う人々の声に紛れるように言葉を交わす。
互いに因縁浅からぬ相手。共にただ前を見つめ、視線をぶつかり合わせる事はしない様からは、男二人の間に刻まれた溝の深さと埋められぬ距離が見て取れる。
当然と言えば当然だ。片や、愛する者の記憶を奪った男。片や、愛する者の蘇生を妨げた男。どう転んでも仲良くできるはずもない。殴り合いが始まらないだけマシというものだ。
真ん中の空席に気まずい沈黙という空虚な存在が堂々と居座るなか、鋭二は何かに観念したかのように深々とため息をついた。
「言いたくもないし、言えた義理でも無いが…………僕は、お前に礼を言わなければいけない」
絞り出すようなその声は、険を含みながらも今までに無い程に真剣な声音をしていた。視線こそ交わさぬまま、和人は鋭二の言葉の続きをじっと待つ。
「お前には、ユナを……黒ユナを救ってもらった。しかも、二度も。
今、彼女がこの世界で歌っていられるのは……たぶん、お前のおかげだ」
「そんな大したことをした覚えは、無いんだけどな……」
「アーガスの跡地に忍び込んで、旧SAOサーバーにダイブする真似までしておいてよく言う。
それに……《オーグマーⅡ》の件。あれはたぶん、お前が絡んでるんだろ?」
「……さて、何のことだか」
明確に否定も肯定もせずに、和人はただ曖昧に笑う。
拡張現実デバイス・オーグマー。ARゲーム《オーディナル・スケール》と共に一大ムーブメントを巻き起こし、拡張現実ブームの火付け役となった最新デジタルデバイス。
そんなオーグマーに『内蔵バッテリーおよび給電システムの急速劣化』という不具合が発覚し、急遽無償交換対応が行われたのは二カ月ほど前の事だ。
交換後のオーグマーは、交換前のものと区別するため《オーグマーⅡ》と呼称されているが、見た目は旧来のオーグマーとほとんど変わらず、バッテリーユニット周りが交換された以外に大きな差はない――と、されている。あくまで表向きは。
旧来のオーグマーが《記憶スキャニング機能》と《フルダイブ機能》を搭載していた事を知る者は少ない。そして、悪名高き『ナーヴギア』より受け継いだその二つの機能をハード・ソフトの両面から排除し、アミュスフィア並の安全性を構築したのがオーグマーⅡと呼ばれるデバイスの実態であることを知る者となれば、もっと。
『これはあくまで独り言だが……ARデバイス絡みのプロジェクトには経産省のお偉方も絡んでいてね。
面子という者があるんだよ、大人の世界には。そう簡単に何もかも明るみに出来るわけじゃない。
それに――いくら君がVRタカ派とはいえ、AR技術がこのまま埋もれていくのは惜しいだろう? キリトくん』
今は亡き――という扱いになっている――菊岡が語っていたとおり、オーディナル・スケールの裏で進行していた陰謀は明るみになることは無かった。教授は表舞台からひっそりと姿を消し、オーディナル・スケールはランキング一位が実質引退状態という歪さの中にありつつも、週末になればどこかでイベントが開かれている程度には活況を維持している。オーグマーⅡ自体の販売数も未だに右肩上がりだ。
――あの事件で大きな被害を受けたSAOサバイバーの一人として、そして真実を知る者の一人として、和人には何もかもを世間にぶちまける権利がある。そうすべきだ、と思ったことは一度や二度ではない。
その権利を放棄する代価として、和人が菊岡に呑ませた要求は二つ。
一つは、オーグマーが持っていた強制記憶スキャン機能とフルダイブ機能を完全に排除し、今度こそ無害なデバイスとして世に送り出すこと。
そして、もう一つは――。
「『オーグマーⅡの広域分散型高速並列処理ネットワーク網を利用した、先進医療研究加速支援計画』。
……頭の固い霞が関の連中が、こんな事を思いつくはずがない」
機器にかける処理負荷が高い二機能の排除によって、大きく浮いたオーグマーⅡのリソース。そのリソースをグリッドコンピューティング基盤として活用することが、和人が菊岡を脅して実現させたもう一つの要求だった。
『
――縮めて《GRIDMAN Project》と称されたこの計画は、AR界隈にも一枚噛む事を狙ったレクトの技術的協力、それにオーディナル・スケールで味を占めた様々な企業による協賛を得られた事でどうにかスタートダッシュに成功し、現在も最先端医療研究を強力に後押しするツールとして活用されている。その一部に、アンダーワールドで醸成された加速世界研究技術も絡んでいるのは言うまでもない。
形の上では和人の要求を菊岡が呑んだが、実際は菊岡にも菊岡なりの目的があって和人の要求に従ったフリをしていたのだろう。加えて言えば、和人が思いつく程度の事をあの重村教授が考えていなかったとは到底思えない。
分散基盤活用の展開が斯様なまでに早かったのも、恐らく教授がサブプランとして残していた仕組みを菊岡の側で再利用したからだろう。それをわからないほど和人は子供ではなく、そしてわかっていないふりをする程度には大人だった。
基盤の稼働開始当初このネットワークを形成していたのは、日本国内のオーグマーⅡ、並びにレクトや各種研究機関の演算システムだけだった。しかし時が経つに連れ、米国、ロシア、中国、EU諸国など、世界各地に存在する高度医療研究機関が協力を表明。オーグマーⅡの世界展開と重なったことも幸いし、現在では世界規模の分散並列型高機能ネットワークとして稼働している。
人と人を、そして世界と世界を繋ぐ事が出来るのは、決して悪意に満ちたデマゴーグだけではないのだ。
「オーグマーⅡが――いや、ARデバイスそのものが社会から排除されなかったおかげで、ユナは今も『現実の先に実在するアイドル』として生き続けることができている。
しかも、『人命を救う研究に貢献する』というオマケつきでな」
「最後のはともかく、俺がいなくてもユナは人気者だったさ」
「モニターの向こうにしかいない、ただの偶像としてか? そうなれば……きっと、ユナは喜ばない」
ユナが輝くべき場所は、手の届かない彼方ではなく、手が届くかもしれない現実の先。その意見には、和人も賛同できる部分があった。
「腹立たしい話だが、僕には逆立ちしたってできなかっただろう。下手をすれば、オーグマーごとユナだって葬られていたかもしれない。
だから。…………感謝している」
ぶっきらぼうにそう告げると、鋭二は再び大きなため息をついた。
できることなら言わずに済ませたかった――そう考えていたのが露骨なほどにはっきりと見て取れる所作だ。それでもちゃんと礼を言うあたり、存外に律儀な男なのかもしれない。
「そうか。……まあ、俺もエイジには助けられたし、おあいこって事で」
「僕がお前を助けた? ……冗談なら、せめてもう少しマシなものにしてくれ」
「冗談? いや、そっちこそ。
――『アンダーワールドにダイブする真似までしておいて、よく言う』」
和人の意趣返しは、どうやら上手く行ったらしい。重たい空気の中でも、鋭二が言葉に詰まる気配ははっきりと伝わってきた。
アンダーワールドで人界と暗黒界、そして現実世界のプレイヤーをも巻き込んだ大戦争が始まったあの日。和人自身の意識は最後の最後まで目覚めることは無く、そこで起きた出来事の全てをリアルタイムで理解していた訳ではない。
数多くのMMOプレイヤーが、キャラクターデータロストも覚悟の上でアンダーワールドにコンバートし、力の限りを尽くして戦ってくれたという事実を和人がはっきりと知ったのは、だいぶ後になってのことだ。
《ラース》のスーパーアカウント『ステイシア』、『テラリア』、『ソルス』の姿でログインしたアスナ、リーファ、シノン。
《SAO》時代からキリトと共に同じ時間を過ごしたリズやシリカ、エギルやクライン、それにフィリア、ストレアといった愛すべき腐れ縁達。
《ALO》各種族の領主達。そして最強の剣士として名を轟かす《絶剣》ユウキと、彼女が率いるギルド《スリーピング・ナイツ》の面々。自称『多刀流』のレインはもちろん、かつてあのユージーン将軍をも下した蒼き猛雄・スメラギや、『逆二刀流』のルクス。
《GGO》で友誼を結んだクレハ、ツェリスカ、そしてキリトより一歩先に『アファシス』を目覚めさせたあのUFG使い。更には祭と聞いて我慢できずに駆けつけた凶毒鳥・ピトフーイと、彼女に首根っこを引っ掴まれてやってきた巨漢・エム。
そしてもちろん、キリトが名も知らぬ大勢のプレイヤー達。
《ALO》、《GGO》、《SA:O》、《アスカ・エンパイア》。中には《インセクサイト》や、なんと《オーディナル・スケール》からコンバートしたという者まで。VR・ARの垣根すらも超え、様々なMMOからアンダーワールドに集った一万名を大きく超える
圧倒的な数を誇る敵勢力の前に、多くのプレイヤーたちが傷つき、倒れてゆく中、戦線がぎりぎりの状態を保ち続け最後まで崩壊することがなかったのは、彼らの士気の高さと磨き上げられた実力はもちろんの事、顔の広いとある情報屋が各MMO内のコネをフル活用して味方をかき集めたのと並行して、あの七色・アルシャーヴィン博士が直々に情報発信を行い、デマに踊らされて海外サーバーから流入するプレイヤーの数を抑えた事が大きく作用していた。
そんなプレイヤー達の中に――大盾とバスターソードを携え、白と紅の鎧をまとって戦った騎士がいたそうだ。その騎士は最も過酷な戦場に立ち、苦境に陥る味方のために己の体を
――もっとも、戦場の混乱の中で紡がれた目撃談、その全てが真実とは限らないのは当然だ。なにせ、翼を持つ『銀色の烏』の如き戦士と、どこか『黒い蓮』を思わせる異形の剣姫の姿を見たという話すらあるくらいなのだ。見間違いや勘違いという可能性は大いにある。
「……さあ。なんのことやら」
砂を噛んだような表情で露骨に答えをはぐらかす鋭二とは対象的に、彼の頭部に装着されたオーグマーの極小LED部分が、何かをアピールするかのようにチカチカと瞬いた。
――オーグマーは、あくまでナーヴギアの機能縮小版でしかない。そして、オーグマーⅡへの無償交換措置に強制性は付与されていない。
もし、オーグマーⅡへの交換措置を無視した捻くれ者がいたのだとしたら。
もし、オーグマーに隠されたフルダイブ機能を解き放てるAIが、その隣にいたのだとしたら。
もし、そのAIが、和人とも面識のある者だったのだとしたら。
白銀色の髪を靡かせながら、そのAIはあの日のように願ったのかもしれない。
『エイジ、あの人を助けて』――と。
『番号札961番をお持ちの方。ご面会の準備が整いましたので、受付カウンターまで起こしください。繰り返します。番号札961番をお持ちの――』
「――っと、悪い。俺はもう行くよ」
「勝手にしろ」
床に置いていた荷物を持ち上げつつ椅子から立ち上がった和人は、そっけなく告げる鋭二に背を向け、病院の奥にある受付カウンターへと歩き出した。
次に会う機会があれば、もう少しまともに話をすべきなのかもしれない。きっと遠くない未来、いつかまたこの男と同じ戦場に立つ日が来るかもしれないのだから。
――そんな事を考えながら廊下を歩いていると、ポケットに入れっぱなしにしていた携帯端末がぶるりと振動する。一応、この廊下が携帯端末使用可能エリアであることを確認した後、和人は携帯端末を開き、新着の存在を通知するメッセージアプリを起動した。
【定期検査終わったよー。今回も結果良好! キリトはまだかかりそう?】
【いや、もう着いてるよ。これから病室に行くから、もう少しだけ待っててくれ】
【おっけー】
SDサイズにデフォルメされたユナが『待ってるよ♪』という文言と共にぴこぴこと可愛らしく動くスタンプを貼り付けたユウキに苦笑しつつ、和人は端末を再びポケットにしまいこんだ。
《絶剣》ユウキ――紺野木綿季の戦いは、今もこの院内で続いている。
先進VR医療機器・メディキュボイドを用いた24時間フルダイブを継続しながら、多剤併用療法によって病魔の発症を押さえ込み続ける孤独な戦い。己の命を燃やしながら病に抗い続けるその過酷にして壮絶なる旅路は、現在のように一時の平穏を享受することはあっても、生きている限り終わることは決してない。
勝利のみを許される路の果て。辿り着く先に待つのは、彼女の生命そのものが尽きる終焉の日。
――そのはずだった。ほんの少し前までは。
今、彼女の旅路の果てに待つのは『死』だけではない。
遥かなりし20世紀より数多の研究者達が心血を注いできた『HIV』の完全除去。連綿と続いてきたその長く険しい旅路は、今ここに結実の時を迎えようとしている。
その大きな後押しとなったのは、《GRIDMAN Project》によって世界中に構築されたネットワークによる超高速演算だ。従来行われてきた動物実験やシミュレーションに比べ、何万倍も早く、そしてより高精度な結果データを得ることを可能にした演算基盤の登場により、研究は文字通り飛躍的に進歩を遂げた。
その研究によってついに実用化の目処がたった、『HIV』完全除去を目的とした新種の治療薬――その臨床試験フェーズ被験者の一人として、木綿季もまた志願していた。
『アスナ。ボク、出るつもりだからね』
『出るって……何に?』
『卒業式だよ、卒業式。帰還者学校の卒業式に出て、自分の手で卒業証書をもらうんだ。
だからさ……。絶対、見に来てよね?』
『――っ! ……うん、うん! 絶対、絶対見に行くからね、ユウキ……!』
『わっ、な、泣かないで、アスナ……。キリトも、見てないでなんとかしてよぉ』
『……悪い。俺も……少しだけ、泣いていいか……』
『もう、二人とも……アンダーワールドじゃ王様だったくせに、ほんと……泣き虫なんだから……』
あらゆるリスクも、うまくいかない可能性も、何もかも全て承知の上で臨床試験に志願すると決めたあの日。
《ALO》内のあの家で、泣き出したアスナ達に釣られて大粒の涙をぽろぽろと零しながら、それでも誇り高く微笑むユウキの姿を、和人は今でもはっきりと覚えている。
それから、しばらく時間が経った。ユウキの、そしてユウキと同じく臨床試験に志願した被験者達の戦いは、今も世界中で続いている。
VRMMO内とは違い、医療関係者でも無ければ研究機関に属しているわけでもない和人に、ユウキの戦いを直接サポートする術はない。ならば、精々彼女の友人として出来ることをしよう――そう決めた和人は、既に新たなプロジェクトに着手している。それこそ、現在ユウキやユイが使用している遠隔プローブを更に進化させた新システム――『フルダイブコントロール式・遠隔操縦ドローン』だ。
VR空間にダイブしているユーザーの動作情報をドローンに送り、現実の世界で自分の体を動かす代わりにドローンを動作させる――発想としてはごくありきたりな物だが、和人はそこにオーグマーⅡ、そしてARシステムを連動させた。
つまり、旧来の遠隔プローブに付いて回った『使用する側の自由度の低さ』をドローンの機動性を以て一気に解消すると同時に、ARカメラを通すことで『使用者のアバターを視界に捉えることができる』上、オーグマーⅡの感覚フィードバック機能を応用し『フルダイブ中の使用者と触れ合う』ことすらも可能とする――予定だ。今組んでいるプログラムが完成し、ユーザーテストで合格のお墨付きを貰えれば、だが。
(……っと。早く行かないと、ユウキに怒られそうだ)
アメリカの新興ベンチャー企業『ジャンク・ユニオン』社にフルカスタムオーダーをかけ、今朝ようやく届いたばかりのARシステム対応型最新式ドローン『Dyna-Dragon』が入ったデイパックを担ぎ直す。
ユウキのあの機敏さにしっかりついていけるだけのパラメータ設定を今日こそ完了すべく、和人は病院の廊下を再び歩き出した。
負け犬とは常に惨めなものだ。たとえそれが仮想世界であっても、あるいは現実世界であっても。自らの野望を真正面から打ち砕いた相手に、文句の一つも言ってやるどころか、礼まで言う羽目になってしまうのだから。
都内でもトップクラスの設備が揃った大病院。特別な患者用の個室エリアとして用意された上層階に向けてエレベータが登り始めても、エイジ――もとい、後沢鋭二の心は晴れはしなかった。
二刀流。解放の英雄。黒の剣士。
仮想世界界隈では今や伝説の存在に片足を突っ込んでいるあの男も、現実世界ではただの青年。力も、技も、《オーディナル・スケール》のランクも、抱えた想いの重さも全て己の方が勝っていた。負ける道理など一つたりとてありはしなかった。
――だというのに。あの男は鋭二を真正面から打倒し、重村教授の悲願を結実寸前で打ち砕いた。
不思議と『憎い』とは思えなかった。
ただ――ひたすらに『悔しい』。それだけが、ワインボトルの底に溜まるオリのように心の内に沈み込んでいく。
「――素直じゃないね、エイジは。お礼くらい、笑顔で言ったらいいのに」
「いきなり人の後ろに立つのはやめてくれ、ユナ。心臓に悪い」
「驚いてないくせに。そういうトコも、素直じゃないんだから」
自分以外誰も居ないはずのエレベータの中、背後から聞こえてくる聞き慣れた彼女の声。
透明感という言葉をそのまま音に乗せたかのような美声にあえて振り向かずに応じてみれば、不満げに頬を膨らませたユナが、わざわざ足音のSEまで響かせながら、鋭二の正面までやってきた。
「今日はイベント用PVの撮影だって言ってなかったか? ユナ」
「そうそう。でも、機材にトラブルが起きちゃったんだって。だから、エイジの顔を見に来ちゃった」
現実世界と、仮想世界の間――頭部に装着したオーグマーが映し出す拡張現実に存在する歌姫は、オフの時間帯は鋭二のところに遊びに来ることが多い。大切な人の為に、大切な君を生贄に差し出そうとしていた――その事実を知って、尚。
重村教授が隠遁した今、彼女の身柄――というのは適切かどうか不明だが――は、カムラ社、そして《アリオルーム》という芸能事務所の管理下にある。その二社が、ユナのコピーAIを複数作成し同時運用するという愚行に走ったせいで、自己同一性を基盤とするユナの自我は崩壊寸前まで追い詰められた事があった。
それを食い止めるために、鋭二は協力者――よりにもよってあの男――と共に旧《SAO》サーバーへとログインし、どうにかユナの自我崩壊を阻む事に成功した。
当然、カムラ・アリオルーム両者には事の顛末を話し、ユナコピーの運用を止めるよう話を付けに行ったのだが、重村教授の庇護を失った鋭二の言葉を、金とコネと計算で動く企業が聞くはずもない。
このままでは、またユナ自身が崩壊してしまうのではないか――忸怩たる思いを抱える鋭二の前に、救いの手は唐突に現れた。天に浮かぶ鋼鉄の城でも、異次元からでもなく――地の底にある加速された世界から。
世界初の真正人工知能・アリス。
彼女の存在を世に知らしめるキッカケとなったあの記者会見で、一人の記者が『オリジナルAIとコピーAIの同時運用についてどう考えるか』と質問を投げかけた。具体名こそ出さなかったが、それがユナとユナコピーの事を指していたのは言うまでもない。
その質問に対し、アリスは『どう控えめに言っても良心的とは言い難い』旨を己の言葉として返答し――そして、炎上した。
アリスが、ではない。
アリオルームが、である。
公式ページは3日に渡ってダウンし、オーグマー内外を問わずSNSにはアリオルームへの批判が殺到。しかもそのタイミングで、アリオルーム社長が以前出演していた番組で『AIの同時運用における効率性イズメイクマネー&パワー』だの『危険性は実際少ない』だの『バグったら潰す。ディスイズノーリスク』だのとつらつら語っていた動画が発掘された事がトドメとなり、アリオルームはユナの複数同時運用を即時停止するコメントを出した。
かくして、一つに統合された黒ユナは、今日も今日とて拡張現実世界での生を謳歌している。暇をみつける度に鋭二をからかいに来るのは相変わらずだ。
好事家の間では『ユナ派』『アリス派』『《SA:O》でたまに見かける小さくて可愛いチュートリアルNPC派』の三派閥が形成されているという噂も聞いたことがあるが、鋭二にしてみれば『バカらしい』の一言に尽きる。
ユナが一番に決まっているではないか。
「ねー、ねー、エイジ。たまには、エイジの方からあたしに会いに来てよ」
「……僕が行っても、門前払いにされるのがオチじゃないか?」
「そこは大丈夫。あたしが『エイジが来たらすぐにあたしの所に通してね』って、スタッフさん達にちゃーんと言っておくから」
「いや……それはそれで、かなりまずい気がするが……」
アイドルが同業者でもなんでもない一人の男に会いたいと言ってしまうのは、このご時世においても色々問題なのではないだろうか。かといって、鋭二が会いに行かなければ、不満を溜めたこのおてんば姫が何をやらかすかわかったものではない。
いずれは恥を忍んで顔を出さざるを得ないだろうが、その時にはユナに面倒がかからないよう、カムラにいる知り合いにそれとなく話を通してからにしよう――そんな事を、鋭二は記憶の片隅に留め置いた。世界初のARアイドルに、妙なスキャンダルが出回るのは向こうも望まないだろうから。
「あたしがいーったらいーの。――って……」
「どうしたんだい、ユナ?」
「機材、もう直っちゃったんだって……。スタッフさん達が帰ってきて、って言ってる。
……あーあ、つまんないなー」
廊下の床面を爪先でぐりぐりと弄りながら、ユナは露骨にしょぼくれてみせる。頭を下げて視線を床に向けつつも、時折何かを期待するような上目遣いの視線を、ちらりちらりと鋭二の方へと向けてくる。
どこでそんなスキルを覚えた――いや、『誰に教わった』のか。即座に犯人の目星を付けつつ、鋭二はいつものように彼女の頭に手をあて、眩いほどにつややかな白銀色の髪を優しく撫でた。
「ユナ。君を、そして君の歌を待っている沢山の人達の為に……もうひと頑張りしてくれないか」
「……エイジも? エイジも、あたしの歌を待っててくれてる?」
「ああ、当たり前じゃないか。君のファン第一号だぞ、僕は」
鋭二がそう言った途端、ぱっと頭を上げたユナの顔には、華やぐほどにまぶしい笑顔が浮かんでいた。彼女のこの笑顔を見る度に、ユナを喪わずに済んだ事への喜びが胸を満たし――彼女を贄として捧げかけた罪の痛みが、細剣の鋒の如く己の胸を刺す。
その笑顔を向けられる権利が、こんなにも弱く愚かな己にあっていいのだろうか?
「そういうことなら、頑張らないと! サイッコーのお仕事してきちゃうから、期待しててね! エイジ!」
「ああ、期待してるよ。ユナ」
「終わったらまた遊びに来るから♪ それじゃ、またね!」
すっかり上機嫌になったユナは、ぱたぱたと手を振りながら霞のように消えていく。今頃はもう仕事場に辿り着き、いつもの明るさを振りまいていることだろう。
彼女のモチベーションを回復させられた事に安堵しつつ、鋭二は一人廊下を歩む。
――埃一つ無い清潔な道の奥に、目的地の病室はあった。個人情報保護の為か、病室の前の表札に入院者の名前は書かれていない。そこに誰が居るかを知るには、オーグマーのようなAR機器を通し、なおかつ装着者が特別な許可を得ている必要があった。
たとえば、今の己自身のように。
「――僕だ」
二度ノックしたあと、それだけを告げる。わざわざ名前を名乗らなくとも、扉の向こうにいる者なら声だけで誰なのか察してくれるし、声紋認証システムは正常に起動する。
事実、オーグマーの小型スピーカーから微かなSEが響くのと同時、起動した声紋認証システムが扉の前に『入室可』を示す緑色のARアイコンを表示させた。
ふっ、と軽く息を吐くことで緊張を緩めようと努力したあと、鋭二は病室の扉を開けた。
「ごめん、遅くなった。頼んでた品が時間通りに届かなくてさ」
青空の見える大きな窓から、燦燦と降り注ぐ陽光に照らされる広い個室。白を基調としつつ、どこか高級感を漂わせるその部屋は、たった一人の”眠り姫”の為に捧げられたもの。その”眠り姫”の玉座であるベッドは、扉からの視線を遮る白いカーテンによって隠されていた。
頼まれていた品が入った手提げ袋を持ち直し、後ろ手で扉を閉めなおしたあと。返答の声が無いことを訝りつつ、鋭二はカーテンを避け、”彼女”が身を横たえるベッドの側に立った。
「…………?」
そこにいたのは、鋭二が想像していた通りの女性ではあったが、その様相は想像とは幾分異なっていた。
薄青色をした滑らかな病院着に身を包みながら、ベッドの上に仰向けに横たわる彼女。その頭部にはまっているのは――フルダイブVR機器・アミュスフィア。今もなおフルダイブ中なのだろうか、その胸は呼吸に連動してかすかに上下しているものの、鋭二の入室に対しては何のリアクションも起こさない。
下腹部のあたりで重ねられた綺麗な両手。フルダイブする直前まで使っていたのだろうか、その傍らには電源が入ったままのタブレット端末が一つ、無造作に置かれていた。不思議と画面はロックされておらず、起動状態の電子書籍アプリが一冊の絵本の表紙を表示している。
「――『
絵本のタイトルが、無意識に口をついて出た。
皮肉めいたタイトルを前にして怪訝な表情をしていることを自覚しつつ、鋭二はタブレットをスリープ状態に落とすと、ベッドサイドに置かれていた面会者用の椅子に腰かける。
「…………」
VRヘッドセットを装着したままベッドの上に横たわり、死んだように眠る彼女の姿を見るたび、鋭二は内臓を鉄の刃でかき回されるような痛みを覚える。
実際、そうされた方がまだマシだっただろう。体に負った傷ならいつか癒える。神経を走る痛みは薬で誤魔化せる。
しかし、心に負った傷は――天に浮かぶ鋼鉄の城で彼女を守れなかった弱さと、彼女を取り戻す為に現実世界で為した悪鬼の所業を思い出す度に感じる、この重く鋭い痛みをごまかしてくれるような薬など――何処にも存在するはずない。
(まあ、しょうがない……。今日は、帰るか)
手提げ袋を丸ごとサイドテーブルの上に置き、鋭二は椅子から立ち上がった。ふと、彼女に少しだけ触れて、この名残惜しさの慰めとしてもいいだろうか――心の中で鎌首を擡げた欲望を、しばしの逡巡の後に振り払う。
一瞬でもそんな誘惑に駆られてしまった己自身に呆れながら、鋭二はベッドに背を向けた。
「――起こしてくれないの? エーくん」
背後から聞こえてきた声に、鋭二の心臓がどくりと音を立てて高鳴る。その一瞬で、出口に向かうはずだった脚は完全に停止した。
どうやら、入室してからずっと揶揄われていたらしい――そんな事にやっと気づき、気まずい思いを抱きながら鋭二は再びベッドの方へと向き直った。
「おはよ、エーくん。5秒ぶりかな?」
アミュスフィアを額のあたりまで持ち上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべる”眠り姫”――重村悠那が、鋭二を見つめていた。
「――おはよう、悠那」
見事に引っ掛けられた気恥ずかしさを誤魔化すように、前髪をかきあげながら鋭二は再び椅子に腰を下ろす。
その様子をにこにこ顔で見届けたあと、悠那はアミュスフィアを外してオーグマーⅡを付けなおす。そしてベッド脇にあるリクライニング操作ボタンを押して、分厚いマットレスごと上半身を起こす。ちょうど、鋭二と目線の高さが同じになるように。
「全く……狸寝入りができるくらいには調子が良さそうで安心したよ。悠那」
「エーくん、もしかして……怒ってる?」
「これくらいの事で怒ったりしないよ。……まあ、少しばかり呆れてはいるけど」
ため息をつく鋭二に、悠那は両手を合わせ、『ごめんね』と言い添えながら詫びる。それにウィンクまで付けられてしまっては、鋭二はもう何も言えない。
元より、悠那を問い詰める気はほとんど無かった。代わりに、もっと大事なことを確認する。
「まあ、それはともかく……本当に体調は大丈夫なのか。悠那」
「うん。そっちは本当に大丈夫。先生にも『リハビリをとてもよく頑張っていますね』って褒められちゃった。すごいでしょ?」
「そうか……それなら、いいんだ。安心した」
「この調子なら、1年くらいでどうにかなりそうなんだって――歩けるように、なるまで」
部屋の隅を見つめる悠那につられ、鋭二もまた同じ場所――そこに置かれた車椅子を、見つめる。20世紀からほとんど姿を変えていない、軽量アルミフレームにゴム製の車輪をつけた躯体――それが、今の悠那の脚代わりだった。
世界初のフルダイブVR機器にして、後に数多の人間の命を奪った悪魔の機械・『ナーヴギア』。フルダイブVRMMO《ソードアート・オンライン》の発表と同時に爆発的な人気を得たその機器が、凄まじいまでの品薄となった事は言うまでもない。高額転売を目論んだ一部のど阿呆共が、21世紀に作られた化石のような転売規制法に引っかかって次々にお縄となった事で転売市場すら壊滅した。
故に、入手できた者は、ベータテスター、もしくは凄まじい強運――あるいは不運――の持ち主か、あるいは『開発サイドに強力なコネを持つ者』に限られた。
そして
そして、悠那と鋭二は揃って《SAO》の虜囚となり――悠那は、死んだ。
《SAO》における死。それ即ち、現実における死であることは言うまでもない。では、その確実性を担保しているものは何か? それは『ナーヴギア』――より正確に言うならば『ナーヴギアに搭載された超高圧電磁パルス発生システム』である。
《SAO》での死を現実の死たらしめているのは、仮想世界の剣や怪物共ではなく、現実世界に存在する悪魔のような機構なのだ。
結論から言えば、重村悠那が使用していたナーヴギアには不具合があった。
重村教授がどうにかこうにか入手したナーヴギアは、小売店輸送時の不手際で破損した物や最終検品時に弾かれた物を工場で修復したもの――『リファービッシュ品』などとも呼ばれる、完全な新品とは言えない類の品だった。
アーガスにナーヴギアの製造・修理を委託されていたとあるファクトリーは、実に丁寧な修理を行った。アーガスより渡された設計仕様書をしっかりと吟味し、そこに書かれている仕様を正確に理解。新品同様の状態まで修理を終え、アーガスの要求通り重村教授宅に配送した。
故に、ファクトリーサイドのスタッフに一切の瑕疵は無い。たとえ、ナーヴギアに茅場以外誰も知らない殺人システムが組み込まれていたとしても――もっと言うなら、その殺人システムの出力を極秘管理する繊細なパーツにわずかな不具合が残っていることを発見できなかったとしても、誰に彼らを責める権利があろう?
仮想世界のあの牢獄で、ユナのHPが尽きたきっかり10秒後――現実世界で、ナーヴギアが重村悠那の脳を焼いた。
しかしその出力は、彼女の脳に大きなダメージを与えこそすれ、生命活動を停止するにはわずかに足りなかった。
それから、しばらく後の事になる。《SAO》第100層が突破され、失意のうちに生還したノーチラス――もとい、後沢鋭二が、『重村悠那が植物状態になって生きている』事を知ったのは。そして、重村教授が『SAOサバイバーの記憶を活用した重村悠那復活プロジェクト』を持ち掛けてきたのは。
全てを喪った絶望の中、鋭二に齎された微かな希望――それが茅場が為したことと同様の悪魔の所業だと知った上で、鋭二は喜んで悪魔に魂を売った。パワードスーツをまとい、悠那を救わなかった全ての者に刃を向ける復讐鬼となる道を選んだ。
嗤いながら多くの人間を傷つけ、狂喜と共に記憶を奪い続けたその修羅道の果てに――敗北した。どこにでもいる、ただのゲームプレイヤーに。
――悠那が目を覚ましたのは、それから一か月ほどが過ぎた後の事だ。
その詳しい理由は、今でも分かっていない。
SAOサバイバーからかき集めたユナの記憶の断片や、悠那の人格をベースに作られたモジュールである黒ユナの活動データを試験的に幾度か転写した事が脳神経の活性化に繋がり、当初の想定よりだいぶ遅れた形ので覚醒を誘発したのではないか――隠遁する直前、重村教授はそんな類推を残していった。
もっとも、鋭二にしてみれば理由などどうでもよかった。悠那が生きて、そこにいる――その事実さえあれば。
たとえ、目覚めた彼女が歩行障害を患っていたとしても。
そして、己が為した罪の全てを、彼女に知られてしまうのだとしても。
「その……リハビリは、辛くないのか。悠那」
「大丈夫大丈夫。まー、確かに楽じゃないけど……でも、エーくんが思ってるよりずっと楽しいよ。
新しいリハビリ友達もできたし」
「友達?」
「そうそう。紺野さんっていう女の子なんだけど……もうね、すっごく可愛い子なの!
VRリハビリルームで時々会うんだけど、『天真爛漫』って言葉を絵に描いたような子でね。会うたびに、なんだかこっちまで元気をもらえちゃうんだー」
「悠那がそこまで言うなんて……相当だな」
フルダイブシステムが医療の現場に活用されるのは、今や珍しい光景ではない。
特に導入が素早かったのはリハビリ分野だった。肉体の動作困難を抱えた患者を、一度VR空間にフルダイブさせ、そこで実際に手足を動作させることで四肢を動かすイメージを具体化させる――そんな手法は、今や各地の病院で実際に利用されている。
悠那がこの病院で、歩行トレーニングと並行して進めているのも、まさにそういったVR空間リハビリの一つだった。
「それで、エーくん。頼んでた物、持ってきてくれた?」
「ああ。これでいいんだろ?」
鋭二がサイドテーブルの上に置いていた手提げ袋の中から取り出したのは、フルダイブVRMMOタイトルの一つ――《アスカ・エンパイア》のゲームパッケージだ。
和のモチーフをふんだんに取り入れた《アスカ・エンパイア》は、国内市場においては、上から何番目だかに入る程度には人気のVRMMOらしい。少なくとも鋭二はそう聞いている。
取り出されたパッケージを受け取ろうと悠那が腕を延ばす。その手がパッケージに触れる直前で、鋭二はその手をひょいと躱すようにしてパッケージを引いた。
「む。さっきのお返しのつもりですか~、エーくん?」
「まさか。僕はそんな子供っぽい事しないさ」
「えー? それじゃ、あんな悪戯をした私がまるで子供みたいじゃない」
「『まるで』じゃなくて『まさに』だよ、悠那」
頬を膨らませてむくれる悠那に、鋭二は真剣な顔で向き直る。
「悠那。僕がこれを持ってきたのは、あくまでお医者さんの許可があるからだ。頼むから、それだけは忘れないでくれ」
「ちゃんとわかってるよ、エーくん。
『万が一体調に異常が出たり、ドクターストップが掛かったらすぐにやめる』、『リハビリもちゃんと続ける』っていう約束、守ればいいんでしょ?」
「『消灯時間後にこっそりログインしない』が抜けてる」
「……あ、バレちゃった?」
「ああ。全く……先生に怒られて、アミュスフィアごと取り上げられても僕は知らないからな」
呆れを露わにしたため息をついた後、鋭二は《アスカ・エンパイア》のパッケージを、悠那に手渡した。
「エーくん、ありがとう! 大事にするね」
「どういたしまして。
……そういえば聞いてなかったけど、どうして《アスカ》を選んだんだ?」
「んーとね。さっき話した、紺野さんにオススメしてもらったの。
《ALO》や《GGO》とは違ってPvP要素がほとんどないから、VRMMO復帰タイトルにするには向いてるって」
「そうか……まあ、確かに」
その『紺野』さんという女性の事を鋭二は全く知らないが、彼女の言うことには同意できる。
あの《絶剣》が名を轟かせたおかげで決闘スタイルのPvP熱が一気に高まっている《ALO》や、《ALO》以上にPK上等というハードな《GGO》に比べれば、確かに《アスカ》は平穏で、VRMMOからしばらく距離を置いていたプレイヤーが選ぶには適していると言える。
それが、《SAO》なんて
「……ねえ、エーくん。エーくんにもう一つ、お願いしたい事があるんだけど」
「ソフトをインストールしてくれ、とかかい? 悠那」
「それは自分でできるから大丈夫。
その……良かったらなんだけど。エーくんも一緒に、《アスカ・エンパイア》始めない?」
彼女の無邪気な申し出に――鋭二は、黙って首を横に振った。
たったそれだけの動作に、鋭二は己の心が内側から掻き毟られるような痛みを感じる。
「――ごめん、悠那。それは、できない」
絞り出すように、声を出す。
本音を言えば、彼女の申し出を受け入れたかった。また、悠那と共に仮想世界で生きてみたかった。
その気持ちに従うには、今の鋭二は弱く、そして罪に塗れすぎている。新たなVRMMOで、新たな知己と共に新たな冒険に飛び出していくであろう彼女の側に立つ資格は、とっくの昔に失われているのだ。
『彼女が退院するまでの間に限る』という条件付きで、悠那に会うことを重村教授に許されているというだけで――満足すべきだった。
「……そっか。うん……じゃあ、しょうがないよね。エーくんにもエーくんの事情とかがあるわけだし、うん」
ほんの少しだけ、悠那は残念そうな顔をした――そう思ってしまったのは、自惚れなのだろうか。
その迷いに答えを出すより早く、悠那はいつもの笑みを浮かべると、鋭二に向けておもむろに両腕を伸ばした。
「じゃ、代わりに。今日も一緒にお散歩してくれる? エーくん」
「あ、ああ……それなら」
悠那の両脚の膝裏と背中に腕を回し、鋭二はそのまま彼女の体を持ち上げる。オーディナル・スケールでの記憶回収計画前、万一パワードスーツが機能不全に陥った事を想定し、血の滲むような思いでトレーニングを続けた事がこんな所で役立っている。
鋭二のその努力を差し引いたとしても――悠那の体は、軽かった。誰よりも長く眠り続けたSAOサバイバーなのだ。その体が帯びる疲弊は、かつて鋭二が目覚めた時以上のものであるのは当然だ。
それでも、重村悠那は生きている。触れ合う体に伝わる心臓の鼓動と仄かな体温の温かさが、その事をはっきりと証明している。
その体の軽さと、命の重さを共に感じながら、鋭二は悠那の体をゆっくりと下ろして車椅子へと座らせた。
「今日はどこへ行こうか、悠那」
「んー……まずは売店。のど飴切らしちゃったし。それで、その後は中庭に行きたいな。今日、すっごくいい天気だし。
運転よろしくね、エーくん」
「ああ、了解した」
一瞬だけオーグマーを操作し、悠那の外出許可――といっても院内とその周辺だけだが――が下りていることを確認する。
「――ところで。ユナにまた変なこと教えただろう、悠那」
「……あ、それもバレちゃった?」
「当たり前だ」
「むー……そーいうところは、鋭いのになあ……」
「そういう所って?」
「べっつにー。なんでもありませーん」
なんでもないわけがない声でそう告げたあと、悠那はぷいとそっぽを向く。
少しだけ不機嫌になった悠那の様子に戸惑いながらも、鋭二は車椅子の後部レバーを握り、ゆっくりと前方へ押し出した。
怪異蔓延る和の世界――《アスカ・エンパイア》。
かつて『