※この作品はR-18です。

耕される母   作:M-NTR

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一

 山間の農村はすっぽりと雪にくるまれてしまった。

 野良仕事はほとんど無くなり、藁を編むような手内職が主な仕事になったが、それでも慣れないことだらけで、僕はなかなか上手にできなかった。

 お父さんに召集令状が届いて疎開してくるまで、東京から出たことのない僕にとっては、寒さを凌ぐ冬そのものが初めてのことだった。

 囲炉裏の炎は隙間風に凍った顔の片側だけをじんわりと融かす。

 ぱちと薪の爆ぜる音がした。自在鉤に吊るしたヤカンから絶え間なく昇る蒸気の向こうで、お母さんも同じ作業をしていた。

 ちらりとその手元を見る。白い指先が丁寧に、そして器用にするすると藁を編んでいく。その姿は東京の家で編み物をする姿と、どこも違ってはいなかった。

 昭和十九年――去年の六月、銀行勤めのお父さんが兵隊にとられ、僕とお母さんは父の実家へと疎開した。

 すでに祖父母は他界して、兵隊帰りの伯父が百姓をしている家だった。

 お母さんは親を早くに亡くしてから、住み込みで働いていた喫茶店でとお父さんと知り合ったという。陸軍の将校の倅や、老舗呉服屋の御曹司と肩を並べて学校へ通うのはすこし気後れもしたが、自慢の両親はどの家の親にも負けない自信があった。

 帝大出のお父さんは行員の中では出世頭だと聞かされたし、苦労をしたお母さんには生け花のような立派な雰囲気はなかったけれど、野菊のように清楚で慎ましやかな美しさが宿っていた。見慣れぬ分だけ同級生たちには羨ましがられたものだ。

 しかし今は、義理の母が遺した着物を身につけ、藁を編んでいる。

 天井を見上げると梁が剥き出しになっている。木造平屋はあちこちから冷気が忍び込むので、囲炉裏から離れると床や壁は凍ったように冷たかった。

 気温がいくらか高く、造作の立派な家しか知らない僕にはひどく不安だった。縁遠いこの家へ疎開してきたとき、表札の「山村」の文字を見て、本当に親戚の家なのかと疑ったほどだった。

 僕の視線に気がつくと、お母さんは大きな二重の目をやわらかく細め、きちんと閉じているふっくらした唇を微笑に変えた。

「難しい?」

「うん。すこし」

「いいのよ。お母さんがやっておくから。あなたはお勉強なさい。宿題あるでしょう」

「でも」

「いいから」

「ごめんなさい」

 一言謝って、卓袱台を持って来て、教科書を広げた。

 これからの時代は、なんといっても勉学だ。

 お父さんは口癖のように言っていた。戦争が始まっても、「拳で解決しようだなんてのは原始人のやり方だ」と不満げだった父である。

 田舎の学校の勉強がひどく遅れていると愚痴をこぼした僕にお母さんは、

「次郎さんだってここで育ったのよ。どこでだって勉強はできるし、立派な人になれます」と叱ってくれた。

 

 

 大きな音を立てて木戸が開いた。笠に雪を被った熊が家へ上がりこんだ。

 いや、熊のように大きな伯父である。

 伯父の山村一郎は、弟であるお父さんとは違った意味で立派な人だった。

 背丈も横幅もとにかく大きい。お父さんと本当に兄弟なのかと疑うほどだが、お父さんの細面をそのまま粗野に頑強にしていくと伯父の顔になると思われた。しかし野山を駆けるか机に向かうかで、それほどの差が生まれるとは到底信じられぬ大男だ。

 伯父は大陸で武勲を上げたそうだが、その時に受けた銃弾のせいで左脚を曳いていた。除隊してからは田畑を耕している。

「おかえりなさい」

 お母さんの挨拶に目だけで返事をして、上がり框にどかりと尻を置いた。お母さんは湯を桶に取り水で埋め、伯父の元へ持って行く。伯父が手足を温める間に、熱い茶を淹れて手拭いを用意する。

 てきぱき働くお母さんの後ろ姿は、髪を結い上げて綺麗なうなじが見え、身体をぎゅっと包んだ着物の縁は、お母さんの身体の線に沿って艶やかだ。一歩ごとに尻の形が、左右に膨らむ。

 和服がこんなにも体型を見せる衣服だとは知らなかった。

 まだ見慣れない着物姿に見惚れながらも、そうして伯父の世話をするお母さんを見るのはどうしてだか辛かった。伯父がありがとうの一言もいわないせいで、お母さんが女中のように扱われている気がするのである。

 僕の視線に気付いたのか、伯父はぎろりと猛獣のような眼光を飛ばしてくる。本当なただこちらを向いただけかも知れないが、近所の野犬を素手で殺したという噂が頭をよぎった。

「なんだァ?」

「いえ……おかえりなさい」

 僕はこのお父さんとは似ても似つかない伯父が苦手だった。ただでさえ威圧的な体格をしているのに、声は野生動物の唸るように低く、まるで愛想がない。

 伯父は茶を一息に啜ると、適当に湯を拭って奥の居間へと引っ込んで行った。

 嵐をやり過ごした後みたいに、僕とお母さんは見つめ合って、意味のない笑みを浮かべた。

 

 

 伯父が思いがけないことを言ったのは、辺りが雪融け畑仕事の始まった三月の末だった。

「賢吾、学校ある日は手伝わなくていいぞ」

 畑仕事の昼休憩にお母さんが食事を運んで来て、土手に腰かけて食べていたおにぎりを咥えたまま、僕は戸惑いの視線を二人に向ける。お茶を湯飲みに注いでいたお母さんの手が、びくりと止まった。

 夏に越してきたときは夏季休暇であり、二学期からは収穫やら冬備えやらで、学校は半分近く休んでいた。冬になってすることが減ってからは毎日通っていたが、これからまた野良仕事を手伝わなければならないだろうと思っていたので、しばらくの間ぽかんとしてしまう。

「え……でも、これから忙しくなるんですよね」

「まァそうだがな。元々は俺一人でやってたんだ。清子がいりゃ釣りが出る。なァ?」

「え、ええ……」

 お母さんがぎこちなく肯くのに、僕は靄のような気持ちを覚えた。

 春が過ぎれば季節は一巡りするが、お母さんはちっとも田舎に染まっていなかった。近所のおばさんたちのような逞しさはまるで身につかず、苦労の増えた分だけ線の細い儚げな美しさは増した。

 そんなお母さんにばかり苦労をさせて、呑気に勉強をしているわけにはいかない。

「僕だって厄介になっているんですから手伝います」

 僕の主張に伯父は疎ましそうな舌打ちをした。取り繕うようにお母さんが宥めた。

「お母さんがお願いしたのよ。あなたは勉強をして、立派な人になるんだから、学校へは通わせてあげてくださいって。ですから、ね」

 困ったような、ともすれば泣きそうな顔で説得されて、僕はしぶしぶと承知した。

 しかし……である。

 田舎に馴染まないのは、お母さんだけではない。

 あれやこれやと野山を動き回っているのに僕は、片足を曳いた伯父よりもずっと仕事が遅かった。僕が細い腕で必死にあつかう鍬を、伯父は軽々と振るっていた。一度に耕せる土の量もまるで違う。

 立派な肉体で大地を征服するように農具を操る伯父の姿は、男らしくて格好よくも見えた。

 

 

 転校してから休むことが多かったせいで、地元の子供たちにはからかわれがちだった。都会っ子だ、もやしだと言われていたが、成績は僕のほうが圧倒的に勝っていた。それもまた、彼らの攻撃の一因となっていたと思う。

 それでも僕の分も伯父の仕事を手伝うお母さんに報いるためにも勉学に励んだ。いずれはお父さんのように帝大へ入り、立派な職に就く。そのことだけを目標に精を出した。

 学校が終わると僕はまっすぐに家へ帰った。そしてお母さんの手伝いをし、余った時間には自習をするのが日課であった。

「ただいま」

 鍵もない木戸を開けて声をかけると、しばしの間があって、奥から「おかえりなさい」と、お母さんの声がした。

 土間には農具が置かれ、板敷に上がると囲炉裏がある。作業部屋だったり、食事をしたりと様々なことに使う。襖を隔てた先は伯父の寝室も兼ねた居間。声はそこから聞こえていた。

 居間へ移ると、正面に見える縁側の戸も開け放されて、さあと風が通った。

 春の匂いの中で、お母さんは居間をめぐる内縁の柱にぐったりと身体を預け、疲れた顔をこちらに向けていた。半着の衿がはだけかけ、どきりとするほど白い胸元が見えそうになっている。首筋や鎖骨の陰影が色っぽい。もんぺ袴の腰紐も解けていたし、脚を投げ出して座ることも滅多に見ない姿だった。

 半着にもんぺの作業着ということは、お母さんは畑に出ていたらしい。

「お母さん?」

 心配や不安は、ただの呼びかけになった。

「な、なに……? どうしたの?」

 僕に笑いかけるお母さんの顔はぽーっと赤く、疲れが浮かんでいた。いつもは大きな瞳も、閉じかかって見えた。

「大丈夫?」

「ええ、平気よ」

 と、思い出したようにさっと襟を直した。「今日はすこし暑かったから疲れただけ。心配かけてごめんなさいね」

「やっぱり僕も畑、手伝おうか」

 僕がそう提案すると、お母さんはふと笑顔を閉ざしてぼうっと考え込み、気を取り直すように表情を繕った。

「私は大丈夫。成績を落としてしまったら、次郎さんが帰って来た時に笑われますよ。しっかり勉強なさい。お母さんはそれが一番、嬉しいから。あなたのためになら、頑張れるから」

 言い終えると、やはり辛そうに息を吐いた。そんなになっても僕に気を遣ってくれるのが嬉しいようで、しかし自分が情けないような気もした。

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