「おい、もやし」
同級生の柴田と井上が紙くずをぶつけてくる。僕はうんざりと返事をした。
「なに?」
「学校終わりにメンコすんだけど、おまえも来いよ」
東京でも少しやって、荷物の中にまぎれていたはずだが、とてもそういう気にはなれなかった。
「ごめん。家の手伝いがあるし、それに勉強もしないといけない」
「おまえそんなに勉強してどうすんの」
井上が小馬鹿にした顔で訊ねてくる。僕はむっとしたが、たぶん表情は変えずに済んだはずだ。無暗に争うことは賢いことではない。それに二対一で勝てる気もしなかった。
「お父さんみたいに、立派な人になるんだよ」
「お父さん?」
二人は一瞬顔を見合わせ、柴田が何気ないふうに言った。
「そういや、おまえの父ちゃん、死んじゃったって?」
「は?」
いきなりの悪い冗談に、僕は思わず二人を睨んだ。「そんなわけないだろ。誰がそんなこと言ったんだよ」
「誰って、なあ」
「ウワサだよ、ウワサ」
「そうそう。おまえの母ちゃん、ダンナが死んじゃって、その兄貴と結婚したって」
「そんなわけないだろ!」
机を叩き、椅子を倒して立ち上がった。
柴田と井上は珍しく反抗した僕に驚いた素振りを見せたが、だからこそいじめ甲斐があるといふうに、口の端を歪めて意地悪そうな笑みを浮かべた。
「羨ましいよなあ」
「山村の母ちゃん、都会の人って感じで、美人だもんな」
「いっくらリッパでも、死んで嫁を取られたらなあ」
「でも、葬式もしないで兄貴とくっつくなんて、都会人って尻軽なんだな」
「うるさい!」
たまらず僕は叫びながら飛びかかった。腰にしがみついて二人を押し倒し、近くにいた井上を一発殴りつけたところで、わきから柴田に突き飛ばされた。
はじめて必死の抵抗と反撃をしたが、数の不利のうえ、飯には困らず身体も良く動かして育った田舎少年二人に、都会育ちのひょろっちい僕では到底及ばなかった。
殴られ、蹴られ、反撃をしてもまるで衝撃が違って、そのうち身体を丸めて守ることしかできなくなると、肩で息をした二人は、
「もう行こうぜ」と、僕を残して帰っていった。
泣きべそをかきながら家へ帰ると、お母さんは夏の着物の繕いをしていた。
布地に通った針をすうっと抜き上げながら、
「おかえり――」
と、「なさい」も接がずに、僕の方をじっと見た。
泣いたことがないとは言わないが、泣いて帰ったことは一度もない。いつもとは違う僕の様子に、お母さんはしばしの間考えるふうに黙っていた。
そしてようやく思い定めたように、毅然とした態度で言った。
「賢吾、そこへ座りなさい」
ピシャリとした物言いに、おずおずとお母さんの前に正座をした。呼吸は整わず、しきりに肩が震えて、涙もこぼれたままだった。
「何があったの」
僕は迷いながらもありのまま話した。いつもからかってくる同級生がいること。彼らにお父さんが死んだと言われ、お母さんを馬鹿にされたこと。それでカッとなって喧嘩をしたが返り討ちにあったこと。
涙を拭って、鼻血の跡を擦り取ってお母さんを見ると、思いつめた顔をして固まっていた。
「お母さん? もしかして本当に――」
不安になって訊ねると、お母さんははっと面を上げて、きっかりと僕を見据えた。
「あなたは信じたんですか。次郎さんが……亡くなったなんてこと」
「信じてない!」
大きな声が出た。前のめりになった身体を戻す。「お父さんが兵隊に行くときに言ってた。俺はどうせ後方だから安心しろって。お父さんが間違ったこと言うはずがない」
お母さんはひとつ肯くと、厳しい声で言った。
「なら男が泣くものじゃありません。まして自分で殴りかかった喧嘩で。腕っぷしの強さが男の強さじゃないわ。自分が何をすべきか、何をせざるべきかをきちんと考えて、ぐっと我慢のできる人が、強い男の人というものです」
それからお母さんは口を一文字に結んだまま押し黙った。
僕は深呼吸をして、目元を拭い、鼻をすすり、どうにか涙を止めた。
するとお母さんのきりっとしていた表情がふいにやわらいで、僕を手招きした。
膝立ちににじり寄ると、お母さんの白い手が優しく頭を撫でた。
「お父さんやお母さんのために怒ってくれたのは嬉しいけど、それであなたが怪我をしたら、私は悲しいわ」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないけれど」
そう言いながら、お母さんは僕を抱き寄せた。しっかりしているのにやらかい、不思議な感触のふとももに手をついて、胸元に頭を投げ出す格好になる。照れくさい気もした。お母さんが大切なものを抱くように腕を回して、僕の後頭部を撫でるのが、嬉しいくすぐったさだった。
「すぐに……そう、すぐに戦争は終わるわ。そうすればじきに次郎さんも帰って来て、いつも通りの暮らしに戻れるからね」
恥ずかしがりながら僕は「いつも通りの暮らし」を思い出していた。東京の家に暮らし、銀行へ出社するお父さんを見送って、お母さんに見送られて学校へ行く。
ああ――あいつらの言ったことはやっぱり嘘だ。
お母さんに包まれたぬくもりは、やわらかな匂いは、あの頃となんら変わってはいない。
身体を動かすことが増えたおかげで、肌の艶は良くなって、苦労の分だけ美しくなったお母さんは、東京に暮らしていた頃と同じように、まっすぐな芯に支えられた優しで、僕を叱り、励ましてくれる。
「じきに……」
言い聞かせるように、お母さんは呟いた。
「それじゃ、今日はよろしくねぇ」
しゃがれた声で林檎農家の柴田の母が、僕のお母さんに笑いかけた。その顔をそのままこちらに向けて、「賢吾君もよろしくねぇ」
柴田家も父親が徴兵をされているという。そうでなくとも農家は近隣との助け合いで成り立っているらしく、僕もこうしてたびたび、お母さんとや伯父と手伝いに出ていた。
「今日何するかは知ってる?」
「摘花……って聞いてますけど……」
「よくわかってない感じね。うちのに説明させるわ。和男ぉ、あんた、賢吾君に教えてやんなさい!」
作業のしやすい高さに整えられた規則正しい林檎の林から、ひょこりと同級生の柴田が顔を見せた。「えー、面倒臭いな」と言いながらも「こっち来い」と僕を呼ぶ。
一度お母さんを振り返り、僕は柴田のところへ歩いた。お母さんにはおばさんが説明するらしい。
「おまえこんなことも知らないのかよぉ」
柴田は成績で敵わないことの仕返しのように言った。「ほら見ろ。一つの場所から花がいくつも出てんだろ。これの中心のちゃんと咲いてるやつ以外を切ってやんの」
枝を掴んで僕に見せるように、ぷちぷちと花や蕾を千切っていく。その作業を頭でなぞりながら、鼻をくすぐった香りに驚いた。
「林檎のにおいがする」
「は? 何言ってんだ。林檎なんだから、そりゃ林檎のにおいがするだろ」
「だって林檎の花なんて見た事ないから」
「ふーん。東京って林檎ないんだ」
「いや、林檎はあるけど……」
「まあいいや。こんな感じでやればいいから。わかんないことがあったら呼べ」
「うん」
肯いて適当な枝を持ち、それからふと訊ねた「ねえ、千切った花はどうするの?」
「どうって、その辺に捨てときゃいいよ」
「わかった」
林檎の蕾は赤く、開いた花弁は白い。桜の花によく似ていた。同じバラ科だったなと、植物図鑑を思い出した。そういう知識はあっても、僕は本当は何も知らないのだなと思った。これがあの真赤な果実になることも信じられない。
花と蕾の集まりから中心の立派な花だけを残して、一つずつ慎重に摘んでいく。鑑賞するでも生けるでもなく、摘んだそばから捨てて行くことが、なんだか申し訳ないような気がした。
「ねえ」
僕は作業を続けながら、柴田に質問する。「どうしてこんなことするの」
「もったいないって? ゼイタクはテキだーってやつか?」
「そうじゃないけど」
「中心花に栄養を集めて、大きくて美味しい実にするためっていうのもあるけど、中心花以外は元気のない実にしかなんないだって。フリョー品ってやつだな」
「ふうん」
相槌を打ちながら、ぷちりと花を摘んでそこらへ捨てた。
立派な実になれないから間引かれる。なんだかかわいそうな気がして、雑草の上に転がった開きかけの蕾をじっと見た。