夜来の雨が上がったのは昼を過ぎてからだった。まだ不快なほどでない湿気た六月の空気が、下校する僕にまとわりついていた。
ぬかるんだ道を歩きながら、泥に汚れた革靴に目を落とす。ずいぶん小さくなったなと思った。
いつも通学にはズックを履いていたが、よそ行き用といえばこの革靴だった。疎開して来るとき、僕はさして考えることもなく革靴を履いて出た。
農作業のときは地下足袋や草履を借りて履いたがそれ以外……つまり登下校はずっとこの靴を使ってきた。それも一年たてば足が窮屈になる。下駄はどうにも慣れないし、草履か地下足袋を履くしかないのだろうか。
うんうんと悩みながら家へ帰り着いた。
「ただいま」
玄関の引戸を開けると、火のない囲炉裏端にお母さんがいた。どういえばいいのかわからないけど、お母さんがいた。
秋になってから半年以上も着ていなかった洋服姿なのである。清楚なブラウスに、長いスカートがひらと揺れる。背景がひびの入った土壁でなく、真っ白な壁紙であったなら、僕は東京の家と間違えたと思う。
「おかえりなさい」
お母さんはちょいと視線をうつむき加減にそらした。
「久しぶりに着ると、なんだか恥ずかしいわ」
いつもの格好なのに照れているお母さんが、なんだか新鮮だった。
「それ、どうしたの」
「町に用事があったから。そろそろ時期だし、久しぶりにね。どうかしら。似合う?」
「似合うよ。ずっとこっち着てたんだし」
「そうよねえ。慣れって怖いわ」
ため息を取り返すように、お母さんがぽんと手を合わせた。「そうだ、賢吾。あなたに買って帰った物があるんです」
「なに?」
お母さんが包みから出したのは、白いズック靴だった。
「わあ」と驚いてしまう。ちょうどそのことを考えていたからだ。
「その靴ももう小さくなっているでしょう。今はどこかへ出かけるということもないし、こっちで良いかと思って」
「ありがとう」
お礼を言ってから僕は首をかしげた。「でもどうして? 僕、靴が小さくなったなんて言ったっけ」
「母親だもの。それぐらいはわかります」
「ねえ、それで少し散歩して来ていい?」
「いいけど、遅くなったらいけませんよ」
「わかってる。行ってきます」
無性に嬉しくて、買ってもらったばかりのズックで家を出た。すこし余裕がある。これでしばらくは快適に過ごせる。
適当に村を一周して戻ると、
「あらっ」
と、折り返しの坂道の上から声が降ってきた。柴田のおばさんが手を振っている。その道の先は僕の……というか伯父の家だ。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。今ねぇ、賢吾君の家に行って来たんだけど、この間手伝ってくれたでしょう。お礼に蛍見に連れて行ってあげようかと思って」
「蛍……ですか?」
「そう蛍。見た事ないんだって?」
肯くと、おばさんは満足そうに笑った。
「だったら、一度は見ておいたほうがいいよぉ。すぐ近くにいい場所があんの。清子さんは行けるかわからないって言ってたけど、賢吾君だけでもおいで」
すれ違いざまに、田舎っぽい力強さで頭を撫でておばさんは帰って行った。
ジッ、ジッ、とタンボコオロギが辺りで鳴いている。
鳴き声の主は僕に物を教える優越感を覚えた柴田から聞いた。近くへ行くと警戒するのか声をひそめ、通り過ぎるとまたすぐに鳴き始める。他にも何種類かいるらしいが、柴田も全ては知らないようだ。
「それにしても、残念ねぇ」
草をかき分けながら先頭を歩く柴田の母が、何度目か呟いた。
結局お母さんは用事があるからと来られなかった。どこか困ったように伯父を気にするそぶりがあったので、また何か家の雑用をさせられているのだろう。
今度は僕が連れて来てあげようと、真っ暗な闇に目を凝らして、家からの道程を頭に叩き込みながら歩いた。
村の子らが何人か、黄色い声で騒ぎながら走り回っているのを、柴田の母が注意する。
「はぁい、そろそろ川だから、大人しくねぇ」
言われた子供らが大人しくなると、せせらぎの音に気がついた。
川沿いなのだろう、左右に景色が開けていて、星明りの空が見えている。村から十分ほど山道を上って、木々の切れ間から原っぱへ出てきたはずだと、僕は一度背後を気にしてから進んだ。
ぽうっと行く手に淡い光が浮かんだ。
土手から落ち窪んだ谷間に川が流れているらしい。十分近くまで近寄ると、およそ二間ほどの谷に、灯っては消える光の群れが、ぶわあっと広がっていた。まるで深呼吸をするような緩やかさで、黄色っぽい緑の光が瞬いている。それがふわりと浮かんだり、川面に映ったり、くっついたり離れたりと、僕は感嘆の声を漏らすことさえ忘れて見入っていた。
「なあ、山村。なんで蛍が光るか知ってるか?」
「それぐらい知ってるよ。求愛だろ」
「なんだよ」
当てが外れた柴田は残念そうに舌打ちをして、母親に叱られるのも聞かずに川へ降りて行く。たしかに川と同じ目線になれば、また幻想的な光景だろうと思って見ていると、蛍が一匹ふらふらと空中を漂うように目の前にきた。そっと手で包むと、自分でも驚くほど綺麗に手の中に入ってしまった。
こそこそと手の平をくすぐる感覚があって、指の隙間から綺麗な光が漏れるのが不思議だった。
そうだ、お母さんに見せてあげよう。きっと喜ぶはずだ。
「あの、おばさん!」
そうまで急ぐ必要はないが、僕はもう帰る方向へ身体を回して断りの声をあげた。「すみません、先に帰ります!」
「え、ちょっと。道わかるの?」
「はい。覚えています」
僕は草をガサガサ蹴倒して、夜の闇を駆けだした、両手で蛍を包んだままでは動きにくかったけれど、一刻でも早くお母さんに見せてあげたくて、僕は必死に走った。
途中で息があがり、それでも早足に家まで戻って、はて、両手が塞がっている状態で、どうやって戸を開ければ良いのだろう。玄関先で考え、指先をひっかけてなんとか開けた。
ただいま、と言いかけ、僕は戸惑った。
お母さんの声がしている。奥の居間からだ。でも、灯りは漏れてこない。
意味をなさない断続的な声に、「いやっ」や「やめて」という言葉が混ざる。
何か――ひどいことをされている。
蛍が手の隙間から逃げた。大切に大切に運んできた光が、ふわりと飛んで出て行った。
僕は息を殺し、近くにあった鍬を持って、そっと襖を開けた。
暗くてよく見えない。
目を凝らす。
もぞもぞと動く影。
巨体が身を震わせている。その動きに合せて、お母さんの辛そうな声が聞こえる。
「オッ、オぉ」と低い声。時折鋭い高さに変わる。
お母さんがいじめられている――
「うわあああああッ!」と部屋に躍り込み、お母さんに圧し掛かった伯父めがけて鍬を振り下ろした。
ガツガツと何度か叩きつけると、伯父は「ぐっ、う……」と呻き声を上げた。
「お母さんを! よくも、よくもォ!」
ガツンと硬い物を叩いた感触の直後、鍬を振り上げるとめきりと柄が折れてしまった。あっと思った瞬間には、顔面で火花が爆ぜて、僕は真後ろに転がっていた。
熱い。たぶん、殴られた。鼻のあたりが発熱したようにカアッと熱い。
衝撃で頭がくらくらする。
ぼたぼた血が流れ落ち、骨がジンジン痛む。
「ぐううううう……」
何とか身を起こした直後、どんと重い衝撃が肩にぶつかり、ぼくはまた転がった。
闇の中に伯父の巨躯が不気味に浮かんでいる。
痛みと恐怖に、僕の心は折れた。
硬い拳が何度も襲ってきた。頭を抱えて蹲ることしかできない。
骨を打つ痛みに歯を食いしばって涙をこぼす。
「待って! 待って下さい!」
お母さんが叫びながら僕の上に覆いかぶさると、ようやく拳骨の雨は止んだ。
「ああ……」
僕の顔を手探りに確かめ、血を指で拭う。
「どけ清子。そいつは俺を殺そうとしやがった」
伯父は低く、怒りの熱を帯びた声で命令した。はっと手を離して、お母さんは伯父の方へ向き直る。
ほっそりしたお母さんの背中、肩甲骨の陰影、くびれた腰から臀部にかけてのふくらみが、薄闇の中にぼうっと見えた。僕が飛ばされたせいで襖が倒れたんだ。現実逃避のように閉め忘れた玄関を見る。
「あの……申し訳ございません」
お母さんは細い声で謝罪すると、両手をついて頭を下げた。
僕の方へ、白桃の尻が突き出される。何故衣服を身に着けていないのだ。伯父に殴られた時と同じほど、僕の頭は衝撃に襲われた。お母さんの裸になのか、土下座になのか。あるいはその両方か。異常な事態に脳が、逸らせぬ目がぶるぶる震え、現実感が失われる。
「何がだッ!」
伯父が怒声と共に、不自由な左脚でお母さんを蹴った。お母さんは崩れた姿勢をすぐに戻して、また亀のような土下座に直った。
「この子は私のために……私を守ろうとしてくれたのですから……責任は私にあります。ですからどうか……どうか賢吾を許して下さい……」
不穏な沈黙を、僕もお母さんも動くことも話すこともできないで待った。
「まあいい。手当てだ」
舌打ちをして伯父が告げると、お母さんは慌てて灯りを点けた。電灯の眩しさに細めた目に、巌のような筋肉が飛び込んだ。伯父も裸である。それが何を意味しているのか、嫌な答え合わせのようだった。
お母さんが置き薬を取って来て、僕の前に座ろうとすると、
「おい」
伯父が不機嫌そうに呼び止めた。
青い顔で固まったお母さんは、わずかに表情を変えて僕に笑いかけると、伯父の手当てをした。
頭を割ったらしい。血が野獣の顔を伝っている。お母さんはその血を拭い、頭を消毒して包帯を巻いた。
ようやくと僕の方へ来ようとしたお母さんの細腕を、伯父は乱暴に掴んで引き倒した。薬箱の中身がばらっと散る。