田んぼの仕事を終えて家に戻るのは、もう日も暮れかかる頃だった。
伯父と二人きりでは話すことがない。というよりも、口をききたくなかった。自然と早くなった足取りで家へ帰った。農具を片付け居間へ入り、僕はぎょっと立ち止まった。
お母さんがくたりと身体を折って、畳についた手で何とか身体を支えているというふうに項垂れていた。今日は一日、伯父と一緒だった。昼間から犯されたということはない。
「お母さん?」
声をかけるとようやくこちらに気付いたように、ゆっくりと顔を上げた。いつからそうしていたのか、半開きになって震えた唇は、すっかり乾燥しきっていた。
「あ……」
何かを言おうとしたまま声を失った。お母さんの手元には紙が一枚あった。
嫌な予感がした。紙を拾う。
黒い印刷の文字で「死亡告知書」とあった。
ほんの短い文章だった。本籍地と階級が記され、まったく事務的にいつどこで死んだかのみが記されている。
それなのに、何度読んでも山村次郎というお父さんの名前と、その戦死者が同じ人なのだと理解できなかった。
ぎしりと背後で床の軋む音がした。深いため息が聞こえた。
僕がまだ現実を理解できていない中、お母さんは立ち上がると、勢いをつけて帰ってきたばかりの伯父に飛びついた。
「どうして!」
涙に濡れた喚き声をあげる。どれだけ伯父に苦しめられようと、絶頂させられようと、そんなに切なく、僕の胸を締め付ける声は出したことがない。
「どうして! どうして、どうして……」
お母さんはそればかりを何遍も繰り返しながら、伯父の胸をその幾度も叩いた。最後には力尽きるように、伯父の汗じみた国民服の衿を掴んだまま慟哭した。
やるせないというため息をついて、伯父がぼそりと言った。
「お前らが東京へ帰ってる間に届いた。次郎が帰るまで世話になりたいなんていうから、言い出す機会を逃したまんまだった」
伯父はお母さんの身体を押し返しながらのそりと起きると、ボリボリ頭を掻いた。
「まァ、そういうことだ。戦争だ、死ぬこともある」
そう言いながら伯父は、自分の左脚を擦った。「あいつは運が悪かった。それだけのこった」
「そんな……そんな言い方……」
反論もそれきりで、お母さんは俯いて嗚咽を漏らした。
しばらく誰も口を開かずに、山を渡る風の不気味な嘶きだけが耳についた。
「清子、行く当てはあるのか」
ふいに伯父が言った。泣いたままお母さんは、首を振った。
「なら嫁に来い」
「えっ」と、僕が驚いてしまった。
じろとこちらを見て伯父は、僕の疑問を制した。
「珍しい話でもねェだろ。まァ、好きにすればいい」
言うだけのことを言ったというふうに、「今日はシゲのとこの世話になる」と出て行った。伯父なりの気遣いなのだろうか。
あまりの事態に、僕もお母さんも頭が働かず、ともかく漬物だけ齧り、汗を流して、さっさと床に入った。
それからお母さんは病人か、あるいは幽霊のように、ぼうっとして過ごした。炊事や洗濯をする間も、手元を見たまま意識はどこかへ飛んでいるようだった。
数日が過ぎたある夜、僕はお母さんが布団から抜け出す気配で目を覚ました。
お母さんは音や気配を殺して襖を開けると、月影の青白さが射し入る居間をしずしずと歩く。そうして部屋の真ん中に眠る伯父の枕元に座った
「一郎さん」
囁くような声音で呼ぶが、伯父は目を覚まさない。
「一郎さん」
今度は少し声を大きく、横になった身体を揺すった。伯父は目を覚ますと、大あくびをしながら胡坐をかいた。
「なんだ、こんな夜中に」
「あの……この間の話……」
お母さんは細い声を切ると、しばらくの間押し黙り、はっきりと続けた。「私、お受けしようと思います」
伯父はまたひとつあくびをすると、「そうか」と呟いた。
「話は明日だ。もう遅い」
それだけ言って、伯父はもう寝転がった。肩透かしを食らったのか、お母さんはしばらくぼんやりしていたが、やがて伯父に頭を下げ、こちらの部屋へ戻ってくる。
意識がよそへ行っていたせいで布団に戻るのが間に合わない。僕が覗き見ていたことを知ったお母さんは、少し気まずそうな顔をした。
静かに布団の上に座ると、歯切れ悪く小さな声で言った。
「そういうことに……なりますから」
「そういうことって……」
「恩給と蓄えと、お母さんが働きに出て、生きて行くことはできるでしょうけれど、あなたの将来を思えば、こうする方がいいはずです」
「そんな……僕だって働くよ。学校だって……」
僕の主張をお母さんは、悲しげな表情で却下した。
「お願いよ。次郎さんとの約束だもの。あなたを立派に育てるって……」
そう言われてしまえば、僕はもう首を縦に振るしかなかった。
殴られて反撃のできないときよりも、ずっと悔しい思いが、胸を覆った。
「一郎さん、んっ……あ……」
お母さんの犯される声ではない、夫婦の睦言が襖を隔てて聞こえてくる。
数日のうちにささやかな祝言が挙げられ、二人は正式に夫婦となった。苗字も変わらないし、伯父は僕の将来についてお母さんに任せると言った。これまでと何ら変わりはない。
ただ――お母さんの寝床が、僕の隣から伯父の隣へと変わっただけのことだった。
「ちゅ……んむ、ぁ……む、んぁ……はぁ、ふ、ああ……んっ……」
口吸いの音が嫌に耳についた。唾液の混ざり合う生々しい音。唇を重ねるだけではないらしい接吻を、僕は覗き見る勇気が出なかった。
伯父が欲望を吐き出すだけでも、お母さんが執拗に責められるでもない。快楽に身を浸し、魂の昇りつめるように、二人はお互いの身体を貪り味わっていた。
「あアあああぁっ……! ん、ん……それ、深ぁ……は、あ、ああ、い、イイ……あんっ、あ……」
ギシギシ、ガタガタ。行為を彩る家鳴りに、お母さんの囀りが響く。
「清子」
止まぬ音の合間に、伯父の声がした。
「ア、ア、ああ……ん、アア、な……何ですか……?」
「俺の子を産め」
その言葉に、僕はびくっとした。
「えっ? ん、んんッ……あ、で、でも……い、一度ォ……!」
喘ぎ声を堪えながらのお母さんの返事に、僕はぎょっとした。「でも、一度」……。
一度、すでに孕んだということか。
想像した途端、暗い気持ちが僕を包んだ一方で、下着を押し上げて勃起した。僕の中で男根だけが、異様な興奮をしている。
「気にするな。産め」
伯父はあくまで、そう命令した。
お母さんは喘ぎ声の中に戸惑いを見せながら、伯父とまぐわい続けていた。
そういえば新聞で読んだことがある。戦争が終わってもうすぐ十月になるが、近頃妊婦が増えているという。単純に男が戦地から帰ったからという理由もあるだろうが、流産や死産もめっきり減ったというのだ。その数字が、光景が、何よりも平和の象徴であると記事は結ばれていた。
「は、ああっああアァアッ!? ンンんんんッ、そぉ……ほ、おお、それッ……!」
お母さんの声が甲走る。おそらく伯父が、返事を急かすように動きを速めたのだ。
「清子」
「ん、ああ、あ……イっ……イイ、あッ、う……産み、ます……。はぁ、あ……い、一……郎さんの、赤ちゃん……、産み、ます。だ、からぁ……!」
「そうか」
「アっ!? アっ! それ! それええっ!? あ、イイ、ズンズンくる! ううっう……、オく……私の、イちば、あァあァ――ッ! こ、んなぉ……知らな、イ……アアああぁあアア――――っっ!」
「次郎の奴よりいいか」
「ンあアあああっ! あ、ああ……そんな、そ、れはァ……」
「どうなんだ」
「イ……んん、言えません……ア、そこォ! ガ、あッ! んっ……!? ん……あ、れろ……ん、ちゅ……」
「どっちがイイんだ。言え」
「あ、ああ、あ、あなたッ……! 一郎さんです。ずっとイイ! こ、んなにっ……気持ちが、イイ、なんてぇ……私……わたしぃいいッ!」
「俺ァ、あいつと違って身体は丈夫だからな。え、清子」
「そうっ、よォ! あの人は、こんなに、逞しく……激しく、な……ああああああッ!? アア、そ、っそそ、れ……イ、クううううううううッ――!」
「俺の子が欲しいか、清子」
「ホシいッ! もっとォ……もっとキてっ! 一郎さんの……ア、あなたの、でぇ……全部、わ、忘れさせてええッ! アナタの種で、孕ませてっ! 次郎さんのと違う、あ、アア、つ……強いタネでええッ!」
「ああ、清子。孕ませてやる」
「あっ、あっ、アアアアッ! 嬉しいッ! うれしいわっ、あアアあアあアアッッ!」
「丈夫な子を産ませてやるぞ」
「キて! オ、オおおお、私の、オくに……は、胎に……一郎さん、一郎さん、イ、ああオああアアあああッ!」
二人の情事は続いていたが、僕は先に果ててしまった。漏らした精液を拭ってそっと縁側へ出た。
お母さんの言葉は自分の選択を正当化するための、自分の心を守るための暗示なのだろうか。それとも心からの言葉なのだろうか。それを確かめる勇気は、きっと僕にはない。
一段と大きな叫びの後、ぱたりと音が止んだ。きっと二人は汗だくで汁まみれの裸身を絡めたまま、荒い呼吸をしているのだろう。
伯父の太い鍬に耕されたお母さんの胎に、新しい種がまかれた。どうしてだか僕は、僕への愛情を養分にして、その種が育つ気がしてならなかった。
流れそうになる涙をこらえようと夜空を見て深呼吸をした。
初夏の夜風に運ばれ、ほのかに林檎の香りがする。
そろそろ摘花の時期だ。
僕は摘み取られ捨てられた、不良の蕾を思い出していた。