灰色のひめしずか 作:かわいそうなのでも抜ける猫
「私、信じていました」
ゼルダは、ふっと消え入りそうな声を溢す。
ガノンは、完全に封印された。
かつてハイラル城を落とし、ハイラル全土を焼き尽くそうと魔の手を伸ばした恐ろしき妄念の存在。
それを抑えつけようとした姫巫女を、苛烈に凌辱し心を折ろうとしたかの怨敵は。
百年の時を経て復活したリンクと、百年耐え続けたゼルダによって、今ようやく封印されたのだ。
ふるふると、そのか細い腕が振るえる。
百年もの間ガノンに犯され続けた体。
彼女の心を折るために、幾度も魔物を孕まされたその体。
互いに魔力を啜り合うかのように、ずっとガノンから力を注がれ、ずっと魔力を吸い上げられていたその体――――。
「……姫?」
ゼルダの体に、リンクは眉を顰めた。
生まれたままの状態で、ガノンの体液で汚された白い肌。それを隠すように彼は彼女に外套を纏わせたものの――どうも、彼女の様子がおかしい。
肩が、震えている。
唇に、血の気が失せていた。
体が、朽ちるように土色へと変わっていく。
「……百年の封印で、私の力は枯れ果てたようです」
ゼルダは、悟ったようにそう言った。
「……私はずっと、ガノンに搾取されていました」
大きな瞳に、大粒の涙が溜まる。
「同時に、私もガノンの魔力を吸わされていました」
それが、ぽつりと落ちた。
「百年の間、私たちは互いに互いを食べながら過ごしていました。だから、だから私は百年保てたのでしょう……」
皮肉なことに、と付け加えるか細い声。
「だから、だからガノンを失った今、私は……私は、もう」
ビシッと、罅が走る。彼女の掌に、大きな罅が走った。
「……っ!」
それにリンクは、息を呑む。
彼女の
「……リンク、最後のお願いがあります」
「……嫌だ」
「リンク、私を……私を――――」
――――殺してください。
予想できた言葉だった。
百年生き永らえることができた、魔力の供給源。それは皮肉にも、ガノンそのものだったのだ。
故に、それを失った今、ゼルダはもうどこからも力を補えない。このまま餓死するしかないのだ。
百年という途方もない時を経て、ガノンはゼルダを作り変えていた。自らがいなくては生きられない体にしてしまっていた。
リンクがガノンにとどめを刺したから。
ゼルダはもう、生きられないのである。
「……こんな」
リンクの口から、消え入りそうな声が漏れた。
「こんな……こんなっ、こんなことのために……っ!!」
――――俺はガノンを討ったんじゃない。
リンクの、声にならない叫びが響く。
感情を押し殺していた彼が、今百年以上の間押し留めていた感情を爆発させた。彼もまた、大量の涙を溢す。ゼルダに負けないくらい、大粒の涙を。
「……酷なことを言っているのは、承知しています。けれど、もう、もう……」
凄く、苦しいの。
ゼルダはそう溢した。
果ての無い渇き。
体中を駆け巡る疼き。
胎内を撫で回す悍ましい感覚。
開き切った産道に、収まることの知らない愛液の滴り。
こんな姿で、枯れるまで生き続けることは、彼女には到底耐えれるものではなかった。ならば、せめて。せめて、自分の愛する人の手で。
「……お願い、リンク」
「嫌だ……嫌だっ! 俺は貴女を殺すためにここまで来たんじゃない! 貴女を救いたくて、救いたくて……っ」
「……貴方が最期を担ってくれるだけでも、私は救われます」
「違う! こんな、こんなの……俺は……っ!」
そんな、優しく微笑まないでくれ。
死ぬことを受け入れないでくれ。
俺にそれを、委ねないでくれ。
貴女を救い出すためにここまで来たのに、どうして俺は貴女を殺さなきゃいけないんだ。
リンクはそう泣き叫んだ。清々しい青い空に、その声が響き渡る。誰もいない廃城に響き、弱々しく木霊した。
「……リンク……リンク……っ……」
それに、ゼルダは引きずられる。押し留めようとした涙が、溢れ返る。堰が切れたように、感情の奔流は洪水を起こした。
「私、私は……まだ、まだ死にたくない……っ。リンクと、リンクと生きたい……っっ」
「姫……っ」
「でも、でも、どうすればいいの……っ、私は、私はもう、もう……っ」
――――汚れてしまった。
そう言って、彼女は泣き出した。
リンクじゃない者に体を許し、人でも何でもないものを何度も産まされた。いくらリンクのことを想っても、私はそれに抗えなかった。ガノンを封じることで精一杯で、ずっと体中を嬲られて、何度も子を孕まされて。
いっぱい、いっぱい汚れてしまった。
もう、リンクに顔向けができない。
ゼルダは、泣きながらそう口にする。彼女の中の処理しきれない想いが溢れ返っていた。
「私はもう、色が分からないのです」
「……え?」
「全部、全部灰色に見えます。貴方の優しい色をした髪も、綺麗な瞳も、もう私には……灰色にしか映らない……もう、もう私は、壊れてしまった……」
「……姫」
リンクは、ぎゅっと彼女の体を抱き締めた。
温かく柔らかいはずのその体は――――冷たく、乾いたような感触だった。
「うっ……うぅ……」
もう、彼女には時間がない。
このままでは、もうすぐ彼女は死んでしまうだろう。
きっと、彼女はそれが分かっていた。分かっていたからこそ、ならばせめてと自分に殺して欲しいと言ったのだろう。リンクは彼女を力強く抱き締めながら、そう頭を整理した。
整理して――――マスターソードを手に取る。
「……リンク」
ゼルダは、両手を広げた。剣を握る彼を受け入れるように、その両手を広げ、健気に笑う。
「…………」
リンクは柄を両手で握り、その切っ先を彼女の胸に向けた。
閉じていた両目を、そっと開ける。彼女をじっと捉えるために。彼女を焼き付けるかのように。
震えていた。彼女の肩が、小さく震えていた。
それを見て、リンクは思う。
――――こんな現実、認めてたまるものか、と。
振り上げるマスターソード。それを彼は、勢いよく地面に突き刺した。
「……リン、ク……?」
「俺は絶対認めない」
「……え?」
「姫が死ななきゃいけないなんて、絶対に間違ってる。まだ何か、何かできるはず――――」
思い出せ。
まだ何かできるはず。
見つけ出せ。
この状況を打開する方法を。
御付きの騎士としてハイラル王に任命されたこと。
ずっと彼女の傍で、遺跡の調査も儀式や修行も見守ってきたこと。
厄災が復活し、彼女の手を引いて城から逃げ延びたことを。
ハテノ砦で力尽き、彼女に抱き止められたことを。
あの時の、唇の熱さを。
目が覚めてからは、ずっと焦がれるような想いが胸の中にあった。
鈴の音のような声が響いて、ずっとその声の主に会いたかった。
謎の老人に諭され、はじまりの台地を出てからも、ずっとその想いは変わらない。
カカリコ村でインパに出会い、全てのいきさつを知ったこと。
ハテノ村へ、シーカーストーンの秘密を知りに向かったこと。
そこでプルアに会ったこと。
老婆のインパと違い、幼い子どものようになっていた彼女に。
「……そうだ」
彼女は自らの発明で、自分を過去の姿に戻していた。不可逆なはずの体を逆行させる技術。彼女はそれを、アンチエイジングマシンと呼んでいた。
「……そうだ、あれなら……っ」
「リンク……?」
「姫、もう一度だけチャンスをください」
「えっ……」
彼女の返事もまたず、リンクはシーカーストーンを起動する。
ゼルダは彼が何を考えているかも分からないまま、青い光に包まれた。目の前が、リンクが、全ての景色が青い粒子に溶けるのに驚き、ただその瞳をぎゅっと瞑らせた。
「……姫は」
「眠ってるわ。施術は成功ね」
ハテノ古代研究所。そこの所長であるプルアは、何とか、とでも言うように肩を竦めた。
突然門戸が叩かれる。
先程まで恐ろしいほど赤黒い雲が空を覆っていた。夜でもない。昼間のはずなのに、ブラッディムーンでもないはずなのに。
まるで百年前を思わせる嫌な空がようやく晴れた頃、それは来た。
何事かと開けた扉。
そこに立っていたのは、青ざめた顔をしたリンクと――――百年前にガノンに呑まれたゼルダだったのだ。
「……酷いわね、厄災ガノンは。姫様を、あんな風にするなんて」
歯痒そうに彼女は唸る。
施術にあたって彼女の体を診て、全てを察したのだろう。これまで彼女がされてきたことを。そして、ただの治療ではその傷を癒すことはできないことを。
「もてあましてたアンチエイジングマシンがこんなとこで役に立つなんてね。それにしても、姫様はあの見た目で百十七歳か……。女神の力ってやつは凄いなぁ」
「…………」
「でも、もうガタが来てる。アンタの言った通り、あのままじゃ姫は数刻で死んでたと思うわ」
「姫の体は」
「今は寝室でぐっすり寝てるヨ。照射してから数時間かけて効果が出てくるから。明日の朝もう一度検査するけど、多分大丈夫。ちゃんと調整に調整を重ねてたからサ」
そう言いながら、プルアは少しだけ頬を綻ばせる。
「その時には、姫様の体は十七歳の時に戻ってるわ。ガノンに作り替えられる前の、姫様にね」
「…………」
リンクは、歯軋りした。認識していたが、他人からそう指摘されて、改めて彼女が何をされてきたかを実感するのだった。
どうしようもなく、ガノンが憎い。先程仕留めたばかりだというのに、彼の怒りは収まらなかった。
「はいはい、そう凄まないの。アンタはよくやったわ。おかげでハイラルに平和が戻ったし、姫様も助け出してくれた。ありがとね」
「…………」
ハイラルは救った。
ハイラルは。
けれど、リンクが救いたかったものは――――。
「そんな言葉はいらないって顔してるね」
「……姫……」
リンクが腰かける椅子が、小さな悲鳴を上げる。彼はどうしようもなさげに指を組み、小さく息を吐いた。
「姫様の体は大丈夫。ちゃんと治る。……体は、ね」
「…………」
「アタシがそうであるように、体は若返らせることができても、心は変えられない」
「……じゃあ」
「当然、記憶もそのままよ。百年間の記憶は、ずっと姫様に残り続けるの」
リンクは思い出す。
私を殺してください。
そう言ったゼルダの、哀しそうな瞳を。
「あんな風になるまで姫様はガノンに苦しめられてきたなら……きっと、心には大きなヒビが走ってる。思い当たるところ、あるでしょ?」
プルアの射抜くような視線。それにリンクは、はっと顔を上げた。
「……姫は」
「……うん」
「姫は……俺に、自分を殺してほしいって……」
「…………うん」
「それで、俺は、俺は……っ」
「辛かったわね、リンク」
プルアは、彼の頭を撫でた。
その表情は、大人の女性のそれだ。幼い少女のような姿をしていても、その表情はとても優しいものだった。
「ふふん、それでアタシを頼ったって訳ね。流石は勇者クン。人を見る目があるわ」
「…………」
悪戯っぽく笑えば、年相応の子どものようだ、とリンクは思う。
プルアは得意気にふふんと鼻を鳴らしたあとで、ふうっと息を吐く。少し茶化すような口ぶりだったが、それもなりを潜めるように一変させた。
リンク、と彼の名を呼ぶ。
彼の意識を、静かに集中させる。
「――――体の穢れは、なくせても」
一旦区切って。
ためらうように、小さな顎を震わせながら。
「心の穢れは……なくせないんだよ。もし姫様が、体が治ったとしても、それでも死を望むんだったら」
じっと、二人は互いの瞳の奥を見た。
「その時は……アンタはどうするの?」
沈黙。
リンクは、その海のように青い瞳をそっと閉じる。
瞳を閉じて、口を開けた。
「……愚問」
「……へぇ?」
「俺は、姫の傍にいる」
もし姫が、それでも死を望むなら。その時は、俺も一緒に死んでやる。もう二度と、姫を一人にしない。
リンクは、そうはっきり口にして、彼女の手を払いのけた。
お久しぶりです。
新作発表で久しぶりにBotWを手にとって、再びを熱を上げたので筆が進みました。
次で完結です。