灰色のひめしずか 作:かわいそうなのでも抜ける猫
「…………」
朝、鳥たちは静かに合唱を始めていた。
山から顔を出す朝日は、ガラス越しにゼルダの瞼を射抜く。それに彼女はぴくりと眉を震わせ、その瞼をゆっくりと持ち上げた。
「……ここは」
重い体を、彼女はゆっくり引き起こそうとして。
それで、自分の体が割れる感覚を思い出す。あの恐ろしい感覚に、思わず身をすくませるが。
「……?」
不思議と、その感覚は訪れなかった。
おかしい。
そう思いながらも彼女は身を起こす。体は、至って健康だった。
「……何処、なのでしょう」
見慣れない天井。
初めて見る景色。
白いベッドに、木造の内装。
木でできた椅子に――――そこにかける一人の青年。
「……リンク」
彼は眠っていた。マスターソードを肩に寝かせながら、静かに瞼を閉じていた。
確かに、彼に頼んだはずなのに。
ゼルダはそう考える。
リンクは自身を、厄災ガノンから救い出してくれた。
壊れそうな自分を前に、涙を流してくれた。
チャンスをください、と最後に言って――――。
「それから……それから……」
青い光に包まれた。
それが不思議な暖かくて。無機質なのに、優しくて。
その感覚に溺れるように、彼女はそっと瞼を閉じたのだった。
「……チャンス、というのは……でも……」
体の調子は、すこぶる良かった。
あの身体中が割れるような感覚はもうない。むしろ、今は活力に満ちているような気さえする。そう、まるで百年前の頃に戻ったかのような――――。
そんなことを思いながら、自らの体をまじまじと見るゼルダ。それに、リンクははっと気づく。即座に覚醒し、顔を上げた。
「……っ、姫!」
「ひゃ、リンク……っ?」
互いの視線が交わり、リンクは大きく目を見開いて。
目の前のゼルダの姿を見ては、どうしようもなく肩を震わした。
「……姫……っ」
歯痒そうに。それでいて、安心したかのように。
そんなリンクの素振りに、ゼルダは困惑する。困ったように口を開いた。
「あの……リンク……私は――――」
「チェッキーーー!!」
そんな彼女の声を遮る、甲高い声。
見やれば、そこには年端もいかない少女の姿。
「……えっと……」
「……プルア」
「えっ、えっ!? プルア!?」
「ふむふむ、照射後も記憶に問題なし……しかしあたしの姿には困惑、と」
「えっ、リンク? この子、プルアなのですか? ど、どういう……」
「はーい姫様、ちょっと手を出して~」
「あ、は、はい……」
突然の事態を呑み込めない様子。そんなゼルダだったが、おずおずと白い腕を突き出した。
プルアは、彼女の手を取る。その白い肌を触診し、丸みを帯びた眼鏡を光らせた。
「……うんうん、活力に満ちてる感じがするネ。ちょっと失礼」
今度は腰にぶら下げていた黒い棒を手にする。シーカーストーンとよく似た衣装のそれは、青い光を先端から照射した。それがゼルダの肌を照らすのと同時に、プルアは頭につけたゴーグルを下ろす。
「流石あたし。天才なだけはあるわ!」
「プルア、姫は」
「バッチシよ! ピチピチの十七歳の体! 生命維持機能も代謝も健康そのもの。なんなら肌の質もしっとりもちもちで、凄く瑞々しい――――」
その先の言葉は、リンクのチョップで塞がれる。
「……こほん、とにかく、姫様の体はもう大丈夫ヨ!」
「……えっと、リンク……あの、状況が掴めないのですが」
「姫。この人は子どもの姿こそしていますが、あのプルアです」
「チェッキー!! 姫様、久しぶり!!」
「えっ、えぇ……っ!? プルア!? な、何故子どもに……!? あ、で、でも面影はまさにプルア……け、けれど!!」
「話すと長くなるのですが……えぇっと」
「いやー回生の祠を参考にしてさ、怪我を治せる機構を考えてたんだよねー。そしたらさ、怪我を直すために細胞分裂を促進するんじゃなくて、その流れを逆行させたらどうか? って思っていろいろ研究進めたの! そしたら――――」
「どうも若返りの機械ができたそうです」
「若返り……?」
「ちょっと勇者クン! 横から省くのはズルい!」
話が長そうだったためにリンクは横槍を入れる。それにプルアは憤慨するが、ゼルダは驚愕のあまりその瞳を大きく見開いていた。
「……そう、若返り。それを使って、あたしは百年前の姿になった。……正確には戻しすぎてこんな子どもになっちゃったケド」
まーこれはこれで便利だし。そう付け加えるプルアの前に、ゼルダははっと自らの両手を見た。
「……姫様に施術したのもそれなの。姫様は百年経っても肉体的に老いてはなかったから、実感はあまりないかもしれないけれど――――」
そう続けようとするプルアだったが、その言葉を自ら遮った。
ゼルダの両目から、大粒の涙が溢れ落ちる様。それを目に映したからだ。
「……姫」
「あ……ごめんなさい……。涙が、勝手に……」
リンクは彼女の手を取った。
それに、ゼルダはどうしようもなく泣いた。
「……泣いていいのよ、姫様。本当に、辛かったね……」
やけに優しい表情を浮かべるプルアは、ベッドによじ登り両手を広げる。
その小さな体でゼルダを包み込み、きゅっと頬を寄せた。温もりがまっすぐゼルダを覆い隠し、その安心感に彼女は押し寄せる感情を受け入れる。
「百年間、お疲れさま」
ゼルダは、泣いた。
ただひたすら、泣いた。
彼女の表情が物語っていた。
自らの体が、百年前に戻っていること。
あの恐ろしい感覚が、もうどこにもないこと。
ガノンにしっかりと染み込まれたはずの穢れが、どこにも残ってないことを。
その涙は安堵故か。
それとも、喪失感に似たものだろうか。
どちらともとれず、ただリンクは不甲斐なく唇を噛み締める。
「――――じゃあ私は、もう解放されたということなのですね」
ゼルダは、落ち着いたようにそう言った。
その表情はやや複雑な色を灯していたが、憑き物が落ちたようにも見える。
「……ま、とりあえずしばらくは安静にしてネ。ご飯とか世話とかはここの剣士クンがしてくれるからさ」
「えっ」
「え」
「それじゃ、あとは若い者に任せて、おばさんは退散するとしますかぁ~」
「ちょ、ちょっと待てプルア!」
慌てたようにリンクは言うが、彼女は意を介さずに歩き出す。扉を開けて、横で聞き耳を立てていたシモンを蹴り飛ばした。
「――――昨日の言葉、覚えてる?」
「……え?」
「あとはキミ次第、だよ!」
プルアは悪戯っぽく笑い、部屋をあとにした。
残されたリンクとゼルダは。
「…………」
「…………」
気まずそうにな様子で、会話は始まらない。
ゼルダは状況に頭が追い付かず、リンクは何と声をかけようかと思案してしまう。
そんな状況を打開したのは、ゼルダのおずおずとした一言だった。
「……あの、リンク」
「は、はい」
「……もう少し、眠ってもよいでしょうか」
「え、えぇ。それはもちろん」
「…………」
「…………」
「……で、できれば」
「え?」
「できれば、手を握っていただけると、嬉しいのですが」
恥ずかしそうに。
それでいて、寂しそうに。
そんな様子でリンクを窺い見る彼女の姿に、リンクはふっと綻んだ。
そのまま、先程まで座っていた椅子に、再び腰かける。
「……分かりました。俺はここにいます。どうぞごゆっくり」
「ありがとう……。リンクの手、あったかい」
「…………」
ゼルダは、瞳を閉じる。長い睫毛に包まれたそれが隠れ、彼女は穏やかな様子で微睡みに落ちていった。
はっと彼女が目を覚ました時には、すでに日が沈んでいた。
窓から差す光は深い藍色に染まっており、見やればいくつもの星が瞬いている。隙間からはハテノビーチから吹く風が入り込み、彼女の頬をそっと撫でた。
「……リンク」
そんな彼女の、手の先には。
静かに窓の外を見る一人の青年――リンクの姿があった。
彼の手には、彼女の手がある。彼は律儀にも、ゼルダが寝ている間その柔らかな手を握り続けていたのだった。
「……姫」
彼は姫の目覚めに気づき、はっと振り返った。
その顔には、彼らしくもない困惑と悲壮感が滲み出ている。百年前には見られなかった表情に、ゼルダはどくんと胸が鳴る音を聞いた。
「リンク……ごめんなさい。随分寝てしまったみたいで」
「いえ……」
「手……離してくださっても、いいのですよ」
ゼルダはそう言うが、リンクは離そうとはしなかった。ただ真摯に、彼女の手を握り締める。
「……離しません。決して」
「リンク……」
その言葉に、ゼルダは悲痛そうに眉を歪めた。
「リンク……貴方はガノンを討伐してくださいました。役目を、果たしてくださったのです」
「…………」
「それにもう、ハイラルもありませんし、貴方に命じたお父様ももういないのです。貴方はもう、私に縛られる必要はないのですよ」
そう言いながらも、悲しそうに瞳を潤ませて。
「手を握って、なんて言った私が言うのも変な話ですが……貴方はもう自由なのです。だから――――」
「だから俺は、もう必要ありませんか?」
リンクは静かに、そう返した。
その言葉に、ゼルダは肩を小さく震わせる。
「そ、そんなつもりでは……」
「分かっています。姫は、俺のことを案じてそう言ってくれていることを。……でも」
すうっと、彼は息を小さく吸って。
「――――そんな気遣い、俺はいらない」
「……っ」
「姫はいつものように俺に言いたいことを言ってくださればいいんです。言いたくないことを、わざわざ言わなくてもいいんですよ」
「でも、でも! ……もう王国もありません。貴方に褒美を授けることもできないし……」
「俺は、褒美なんかのために貴方を救った訳じゃありません」
リンクは、ゼルダの前でしゃがみこむ。まるでいつかの儀式を準えた時のように、忠誠を誓う騎士のように。
そんなリンクの瞳を前に、ゼルダの鼓動は激しく音色を奏で始めた。
「貴方を救いたいから、ここまで来たんです。貴方に幸せになってほしいから」
「……っ」
その言葉に、ゼルダは耳まで赤くした。その柔らかな唇が、小刻みに震えている。
「……姫」
「わ、私はもう姫ではありません……そんな風に呼ばなくても」
「例え貴女が、ただの村娘になったとしても。もう一度ハイラルを復興させて、女王となったとしても。それでも俺にとっては、貴女はかけがえのない姫のままです」
その白い手の甲に、彼はそっと唇を落とす。ふわりと、柔らかな感触が、彼女の脳まで駆け回る。
思わず小さな声を上げる彼女の、その瞳をじっと見て。リンクはまっすぐ、胸の内の想いを露わにした。
「いつまでも、俺を騎士でいさせてください。貴女だけの騎士に」
そう言いながら、覆うように乗せた手をそっと離す。
ゼルダの左手の、薬指には。ダイヤモンドをあしらった美しい指輪がはめられていた。
「……うそ……」
「貴女の声を聞いた時から、ずっと恋い焦がれていました。一体どんな人なんだろうって」
「……っ」
「記憶を取り戻す度に、貴女のことを思い出していって。より一層、想いは強くなったんです」
「……リンク……」
「俺は、貴女と生きたい。ずっと」
無口で口下手なはずなのに。
それでも、彼は頑張って自分の想いを伝えてくれた。見れば、彼の耳もまた真紅に染まっている。それを見て、ゼルダは感情を止められなかった。潤んだ瞳から、一筋の涙が溢れ落ちる。
「わ、わたっ、私は……」
「……うん」
「もう、もう昔みたいに綺麗じゃありません……っ、ずっと、ずっと……」
「…………うん」
「貴方を、裏切ったようなものです……私は、ほんとに、ほんとに駄目で……」
「それは姫の意思じゃない。みんなを守るために――――」
「でも、でも私はっ!! ……こんな私に、優しくしないで……っ、もう、もう私は……っ」
「――――嫌です。俺は、貴女を突き放したりなんてしません」
そう言いながら、リンクはゼルダをぎゅっと抱き締めた。
ずっと望まぬ交わりをさせられてきたこと。
愛する人への裏切りにも値するようなその行為を、ゼルダは受け入れられなかった。
彼女の心の穢れは、今も強くこびりついている。
それを丸ごと包むように、リンクは彼女を抱き締めていた。温もりと、固い胸の感触。それでいて忙しない鼓動が伝わってきて、ゼルダの胸は高鳴った。
「貴女が一人でずっと頑張ってきたことを、俺は知っています。どれだけ酷いことをされても、ずっと俺を信じて頑張ってくれていたのを知っています」
「……うっ、うぅぅっ……」
「すぐにとは言いません。でも、自分のことを許してあげてください。俺は貴女を嫌ったりなどしません。ずっと、ずっと愛しています。百年前から。それに……百年後も」
そんなリンクの震えた声に、ゼルダは抑えきれなくなったように泣き出した。
懸命に、伸ばさないでいようとしていた手を、ふるふると持ち上げる。リンクを抱き返そうと、おずおずと持ち上げる。
「リンクは……私を、許してくれるのですか……?」
「許すも何も、はじめから怒ってなんていませんよ。ただ、愛しています」
「……っ」
「もう二度と、貴女を一人にしません。ずっと、ずっと」
「……リンク……っ」
ゼルダは、彼の背中に手を伸ばした。
掌に触れる、固く武骨な彼の背中。骨と筋肉でできた逞しい感触。けれど、確かな温かさが、彼女の心をゆっくりと融かしていく。
リンクもまた、自らの腕の中のぬくもりを感じていた。
姫しずかを思わせる、鼻孔を抜ける甘い香り。美しい髪の、滑らかな感触。指先に吸い付くような、柔らかな肌触り。まるで雛のような、愛おしい胸の音。それを伝える、柔らかいぬくもり。
月明かりが二人を照らす。
抱き合う二人を、優しく照らしている。
「リンク……」
ゼルダが、物欲しそうな声を絞り出した。
リンクは、それに気づいて抱擁を緩める。少し体を離し、見つめ合うような距離で彼女の頭へと手を回し。
――――そっと、唇を重ね合わせた。
「……ん」
「……っ……」
ぷるりとしたものが触れ合う。
柔らかくて、滑らかで、いつまでも舐めていたくなるその食感。
リンクはそれを堪能するように、上下の唇を擦り合わせた。彼女の桃色と吸着し、甘い唾液が混ざり合う。滴る甘露が、融け合っていく――――。
「……っは……」
「……っあっ、はぁ……はぁ……」
離した唇から、糸が引かれた。
互いの舌が絡み合って、互いの唾液を分け合うように抱き合って。そうして融け合ったそれが、ゆっくりと細い橋を描き出したのだった。
小さな気泡を二、三個乗せたそれが、重力に負けて落ちていく。それを、二人は荒い呼吸で見つめていた。
「……リンク……」
「……姫……」
紅潮した顔で、ゼルダはリンクを見つめている。まるでリンゴのように赤いその頬に、リンクは両手を添えた。
「ふふ、姫……真っ赤ですよ」
「も、もう!」
リンクが優しく微笑んでそう言うと、彼女は頬を膨らませた。ますますリンゴのようだ、と彼は思う。
そう思った矢先、ゼルダもまた両手を伸ばした。細く柔らかい感触を、彼もまた頬で感じる。
「……貴方の顔も、真っ赤ですよ」
「……う……」
自らの色も指摘され、彼は恥ずかしそうに口をへの字にするが。
そんな様子に、ゼルダは嬉しそうに笑った。
貴方は、そんな顔もするのですね――――。
幸せそうに彼女はそう言って、再び彼の胸に飛び込むのだった。
「リンク! これを見てください!」
青い空。大地を覆う、緑色の絨毯。
その絨毯を作る一つ一つの――――否、一本一本の草花を掻き分けて、ゼルダは一輪の花を見つけ出した。
嬉しそうに、彼の名を呼ぶ。恋する少女のような、軽やかな声で。
「……これは」
「はい、姫しずかです」
「こんなところにも、咲いていたのですね」
「絶滅するかも、なんて言われていたけれど。この花もまた、強く生き延びていたようです」
安心したかのような表情だった。目の前の花を、まるで自分のことのように見つめている。
そんな彼女の様子を横目に、リンクは静かに彼女を抱き寄せた。驚く彼女を直視できず、目を逸らすものの――――しかし耳まで赤くなっていることを、彼女に気づかれていることにも気づかないで。
「ふふ、リンク……この花は何色ですか?」
「……穏やかな、薄花色です」
「はい、まるでこの空みたいに綺麗な色ですね」
「……姫、色は……」
「じゃあリンク、あの鳥の色は」
「え? え、えっと」
「桃色と白色! 合ってますか?」
「……合ってます」
「あちらの岩山にある鉱床の色は――――藍色?」
「……はい」
矢継ぎ早にあれこれと指差すゼルダの様子に、リンクは困惑気味だった。嬉しそうな彼女とは対照的に。
「姫……」
「色が、次第に分かるようになってきました」
「……え?」
「きっと、貴方が傍にいてくれるからなんだと思います」
驚いて目を見開くリンク。
幸せそうに、目を細めるゼルダ。
「灰色だった世界が、どんどん鮮やかになっていきます。貴方と、一緒だから」
「姫……」
「これからも、ずっと一緒にいてくださいますか?」
「それは、もちろんです!」
はっきりと、彼女の目を見てリンクはそう言った。胸に手を当てるその仕草。誠実な騎士の、誓いの印。
そんな彼の様子に、ゼルダは顔を綻ばせる。そのまま、彼の胸に倒れ込んだ。
「……大好き」
小さく、彼女はそう呟いて。
青空の下、ようやく彼の元に帰ってこられたことを実感するのだった。
リンクの傷痕だらけの指に。ゼルダの、細く白い指に。静かにはまった銀色の指輪。姫しずかの色を浴びて、薄く青い色を灯す。
姫しずかは、野生の息吹たる優しい風を受け、静かに揺れていた。
これにて本編は完結です。
読んでくださった方々、有り難うございました。一応これにて完結扱いなので、是非とも感想や評価などをくださると嬉しいです。この作品は、皆様のマスターソードに聖なる光を灯す助けになれたでしょうか。
それと、いくつか描きたい人(プルアやパーヤ、ルージュなどなど)や描きたいシチュエーションがありますので、完結後も番外編として少しずつお話を書いていきたいなと思います。続編まで時間もありますし、ゆっくりお付き合いいただけると幸いです。
それでは改めて、閲覧ありがとうございました。