俺とサヨリは、いつもの帰り道とは反対方向の道を歩いていた。
もちろん、ナツキの家に向かうためだ。
俺はナツキの家の場所を知らないので、一度だけ行ったことがあるというサヨリだけが頼りだ。
「んーっと、確かこっちだった気がする!」
「おいおい、本当に大丈夫なんだろうな……」
そういえば、サヨリが方向音痴なのをすっかり忘れていた……。
もうかれこれ30分ほど歩いているが、一向に着く気配がない。
頼みの綱が、いとも容易く千切れていく音が聞こえる。
更に酷いことに、パラパラと雨まで降り出してくる。
次第に雨は強くなり、傘をささなければびしょ濡れになってしまうかもしれない程の大雨になった。
俺は、運良く持ち合わせていた折りたたみ傘を取り出す。
「サヨリ、俺傘あるから入れよ。お前持ってないだろ?」
「えっ?」
サヨリは鞄を傘代わりにしながら、素っ頓狂な顔で振り向く。
「それって……相合い傘ってこと?」
「俺は相合い傘をすることよりも、お前がびしょ濡れになるほうがよっぽど困るからな」
「――ありがと」
そう言ってサヨリは、俺がさす傘の中に入ってくる。
さて、これからどうしたものか。
これ以上サヨリに任せていたら、本当に地球の裏側まで連れていかれかねないので、休める場所を探して、雨が晴れるのを待った方がいいだろうか。
そこで俺は、歩いてる途中に少し大きめなバス停留所があった事を思い出す。
「バス停に避難しよう。ナツキの家へ行くにしろ帰るにしろ、今動くのは危険だ」
「ん、うん」
俺たちは来た道を少しだけ引き返し、道中で見つけていた屋根付きのバス停留所に避難する。
サヨリはサッと俺の側を離れると、備え付けのベンチに座る。
俺は少し離れた道路側に近い場所に腰掛ける。
バス停に人はいない。ここに居るのは俺たちだけだ。
――その筈なのに、誰かの視線を感じるのは気のせいだろうか?
俺は気を紛らわせるために、ナツキに渡された詩を読む。
詩のタイトルは『ワシは飛べる』。
鷲から始まり色々な動物たちが何が出来るかを挙げていき、最後に
『ヒトは努力できる。
でもそれだけ。』
といった文章で締めくくられる。
俺は勝手に彼女の書く詩に、もうちょっと可愛らしい文章を期待していた部分もあって、呆気にとられてしまう。
一見考えさせられるただの詩のようにも見えるが、俺は無性にナツキのことが心配でたまらなかった。
少し捻くれてる部分があるのは、短い付き合いの中でも気付いてはいたが、彼女は何か悩みでも抱えているのだろうか?
そんな事を考えさせるほど、この詩には何か意思のようなものが込められているように感じた。
夢中になって詩を眺めていると、突然水飛沫に襲われる。
近くを物凄いスピードで通り過ぎていった車が、道路に溜まっていた水を踏んだのだろう。
そのせいで、俺の服とナツキの詩はびしょ濡れになってしまう。
インクが徐々に滲み出し、何が書いてあるか分からなくなってしまう。
「クソ……」
俺はさっきの時間だけで、ナツキの事を知った気になっていた。
しかしそれは間違いだ。俺にはまだ彼女について知らない事がいっぱいある。
確かめなければ……ナツキの事を。
「なあサヨリ。ナツキってさ、どういう子なんだろう」
制服の上着を脱いで、雨水を落とそうと絞っていたナツキが、声に反応してこちらを向く。
「――どういう子かあ。この前、私が言ったような事以外の話をしてるんだよね、多分」
「ああ。性格の話じゃなくて……環境というか。いつも文芸部以外の場所でどんな感じで過ごしてるのか、とか……」
「私、文芸部以外でナツキちゃんと会うのは稀だから、詳しくは分かんないんだけど」
サヨリは後ろ手に腕を組み、雨雲に包まれた空を仰ぐ。
降り注ぐ雨は、先程よりは幾分か弱まってきていた。
「噂で聞いた話に過ぎないから、あまり本気にして欲しくないんだけど……ナツキちゃんのご両親は、離婚しちゃってるんだって」
「離婚を? まあ、よくある話かもしれないが……どうして?」
「ナツキちゃんのお父さんが……その、暴力的な人で……」
サヨリはそこまで言って言い淀む。
俺はサヨリに近づき、肩を掴む。
「サヨリ、ナツキの家に行った事があるんだろ? ナツキの父親を見たことがあるんじゃないのか?」
「わ、私も漫画を貸しにいっただけで中に入った訳じゃないから……」
「何でもいい、気づいた事はないか? さっきから気掛かりでしょうがないんだ!」
「お、落ち着いて……肩、痛いよ……」
俺は、いつの間にかサヨリの肩を掴む力を強めてしまっていた。
慌てて手を離すと、サヨリは手で掴まれていた肩を摩る。
「す、すまん……」
「ううん。ナツキちゃんのこと、すっごく心配してるのは分かったよ。でもごめんね、これ以上は力になれないかも……」
「そうか……」
沈黙が辺りを包み込む。聞こえるのは雨音だけだ。
俺は頭を抱えて、冷静になるよう努める。
サヨリはまた空を見上げて、黙り込んでしまう。
そんな中、入り口から俺たちは声をかけられる。
「お二人共、こんな所で一体どうしたのですか?」
俺とサヨリは声の主の方へと振り向く。
そこに居たのは傘をさして、バス停の中を覗き込んでいるユリの姿だった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「なるほど、道に迷ってしまわれたのですね。ナツキさんの家なら私が知っていますので、ご案内しますね」
「本当か!? 助かる!!」
俺はサヨリと顔を見合わせる。
サヨリは苦笑いをしながら、俺に応える。
さっきの肩の事といい、俺はどうしてこうも無頓着なのだろうか。
「あー……サヨリも助かるよ。この後も着いてきてくれるか? 俺一人じゃ会ってくれないかもしれないし」
「……ん、わかったよ。君がそう言うなら」
ユリは俺たちの雰囲気を心配そうに見つめる。
そして、鞄の中から水筒を取り出して、温かい紅茶を淹れて俺とサヨリに差し出す。
「飲んで下さい。暖かな季節とはいえ、風邪を引いてしまいますから」
「……えへへ。ありがと、ユリちゃん」
「ありがとう、ユリ」
俺とサヨリは、受け取った紅茶を飲み干した後、まだ完全には乾いていない上着を羽織る。
いつの間にか雨は止み、空は漆黒の闇に覆われていた。
そして、変わらず俺たちを見下ろす星の姿もあった。
なんで。
なんで消えないの。
邪魔をしないで。
よく見えない。
「さあ、行きましょう。幸い、ここからは遠くありませんから。10分もあれば着きます」
そう言って、ユリは先導を始める。
俺とサヨリは、ユリの後を着いていく。
そうして、夜の道をしばらく歩いていくと、密集した住宅地に辿り着く。
そして、ユリはその中の一軒を指差す。
向かいにバス停がある、大きめの道路に面した2階建ての大きめな一軒家だ。
「あそこがナツキさんのお家です」
「ありがとう。ユリも一緒に――」
「いえ、ご遠慮させて下さい。今の私に、彼女に合わせる顔はありませんから」
先程のナツキとの口論の事を、まだ気にしているのだろうか。
仕方がない、無理強いをするわけにもいかないな。
「分かった。じゃあまた明日な、ユリ」
「ええ、さようなら」
ユリは俺とサヨリに背を向けて、おそらくユリの家の方向と思われる方向へと歩き去る。
俺とサヨリは、もう一度ナツキの家を見上げる。
電気はついている。中に人は居るようだ。
だが物音はしない、とても静かだ。
閑静な住宅街であることを差し引いても、静かすぎる。
先程のナツキの父親の話から、俺にはこの家が巨大な檻の家にしか見えなかった。
「行かないの?」
「え――あ、ああ。行こう」
俺たちは、ナツキの家の玄関まで足を踏み入れる。
その途中、ふとガレージと思しき場所へ目をやる。
そこには、先程俺に水飛沫を浴びせてくれた車が駐車されていた。
雨粒が屋根やボンネットにびっしりこびり付いてる辺り、間違いはないだろう。
ということは、あの車に乗っていたのはナツキの父親ということか……?
俺は眉間に皺を寄せながら、サヨリと共に玄関前まで辿り着く。
「チャイムを押すぞ……」
「う、うん……」
俺は、チャイムのボタンを押す。
「ピンポーン」という音が響き、数秒が経つが、一向に誰かが出てくる気配はない。
「出ないね……」
「そんな筈は……電気はついてるんだ。少なくとも、中にナツキはいる筈――」
脳裏に、ナツキの顔が浮かんでくる。苦痛に歪んだナツキの顔が。
俺は焦りから、もう一度チャイムを鳴らす。
やはり出ない。もう一度。
――出ない。もう一度。
何故出ないんだ、ナツキ……!
「中から足音がするよ」
サヨリの耳打ちにハッとした俺は耳を澄ませる。
確かに、中から足音がこちらに向かって来ているのが聞こえる。
そして、足音の主はドアを開ける。
「誰だよこんな時間に――おたくら、どちらさん?」
中から出てきたのは、金髪の無精髭を生やした中年男性だった。
手には新聞紙が握られており、男からは酒の匂いが漂ってくる。
俺は匂いに顔をしかめながら、男の顔を見上げる。
「あの……ナツキさん、帰ってきてますか?」
「ナツキぃ? ……もう寝てるよ」
「忘れ物を届けに来たんすけど、本当に寝てます?」
「チッ……しつこいガキだな。ちょっと待ってろ」
そう言って、ナツキの父親は家の中に引っ込んで行き、上階へと声を荒げながら叫ぶ。
「おい!! とっとと降りてこいナツキぃ!!」
その声にすぐさま反応し、バタバタと駆け足で降りてくる足音が聞こえてくる。
「は、はい……っ!?」
「ナツキ……」
ナツキは目を見開き、その場で硬直している。
ナツキの父親は、手で『3』とナツキに指すと、そのまま家の奥に消えていく。
俺はナツキに声をかける。
「ナツキ、無事なのか」
「意味、分かんないんだけど……なんでここに……」
ナツキは身体を震わせ、後ずさる。
顔色は青ざめ、腕を組んで一向に動く気配がない。
「ナツキちゃん、ごめんね。私たち、どうしてもナツキちゃんが心配で――」
「帰って!!!!」
大声をあげながら、ナツキは俺たちに近寄ってきて、俺たちを押し出そうとする。
だが、その力は弱々しく、押し出すには至らない。
「ナツキ……一体どういう事なんだ、説明してくれよ!」
「あんたなんかに説明する事なんかないわ!! 早く帰って! 帰れ!!」
押し出しから、殴りつけに変わるがやはりその手には力が篭っていない。
俺は殴りつけてくるナツキの腕を掴む。
「落ち着け、俺はナツキを助けたいだけだ。あの男に虐待されてるんだろう!?」
「何も知らない癖に……! あたしがいつあんたに『助けて』なんて言ったのよ!! いいから帰れっ!!」
「ナツキちゃん……」
ナツキはまもなく、泣き崩れてしまう。
俺は何もすることが出来なかった。
サヨリが俺の制服の裾を引っ張る。
それに気付いて、サヨリの方を向くと、彼女は首を横に振る。
「――帰ろう。今出来ることは、多分ないと思う」
「サヨリ……でも」
「そうよ、あんた達に出来ることなんか……何もないわ。今日のことは忘れて、何も見なかった事にして。それが唯一、あんた達に出来ること」
ナツキは震えながら立ち上がり、俺たちに背を向ける。
俺たちが帰るのを待っているようだった。
俺はサヨリに引かれ、ナツキの家を出る。
すぐ後ろで、勢い良く扉が閉まる音と、鍵をかける音。
そして、早足で家の奥へと消えてゆくナツキの足音が聞こえた。
――俺はあの子に対して、無力だった。