教室の窓を日常の額縁に見立てるなら、新条アカネの日々の景色は、怪獣という非日常を背景に溶け込ませた、それ以外は何の変哲もない退屈に彩られていた。
澄んだ青空も、ジオラマのような街並みも、無味無臭で平々凡々で――けれど、飽いた筈のその景色を、今のアカネは玩具を広げた遊び場のように見ている。
遊び相手も、もう決まっている。
〝彼〟を倒すことが、昨今のアカネの生き甲斐だ。想い人のように日々募らせる感情の純度は、少々日常生活に支障をきたす程だ。
そうして今日も、次の一手を思案しながら、昼休みを過ごして。
体育の授業で級友達の移動した空っぽの教室に帰ってきて、アカネは窓際で立ち尽くしている。
肌身離さず持ち歩いている携帯を見れば、近所で昔馴染みの宝多六花から『次、体育だよ』と連絡が届いている。これに気付かなくなる程に、自分は〝彼〟の夢想に耽っていたらしい。
見下ろせるグラウンドでは、既に女子生徒達が集まっている。何の授業になるかまでは把握していないが、今日も日光は優しくない熱量で世界を脅かしている。日に焼けることを好まないアカネとしては、今から気が重かった。
ふと、視線を巡らせると、
「あの人……」
校門に立つ大柄の黒スーツマスク男を見つけて、アカネは呟く。
以前も同じような類の人間が、目の前に現れた記憶がある。あの時窓をブチ破って飛び込んできたのはもっと細身で角ばった、けれど人間離れの動きをする壮年の男だった。そっと、アカネは目を細める。
あの手合いは、〝彼〟に深く関わっている。
スーツの男達の詳細は、〝彼〟の攻略の糸口になるかもしれなかった。
「まぁ~それはそうとして~」
まずは授業に出る他ない。声も大きく独りごち、嘆息する。これから更衣室まで出向いて諸々を終わらせる難儀を考えると、足も進まないというものだ。サボってしまうのは簡単だが、以前〝彼〟に大敗を喫してふてくされ学校をフケた前科がアカネにはある。なるべくクラスに名目された『才色兼備才貌両全の最強女子』という体面は、崩したくない。
――いっそのこと
「……ここで着替えちゃおっか」
よぎった思考はおふざけの類などでは一切なく、手っ取り早い解決を求めてしまうところが、アカネにはある。思い立ったが吉日という奴で、カーテンを引き、制服のボタンを外していく。愛用のジャージは元々半脱ぎのスタイルなので、このまま一緒に脱いでしまえる寸法だ。いざしかし、前を開いて肩まではだけたところで、失策に気付く。
「どっかで着替え直さなきゃじゃん……。やっぱいいや。……フケよ」
仮病でもでっち上げて保健室に籠ろう。それで面目も保たれるだろう。改めて、服を直そうというその矢先、教室のドアが開く音がした。
――嘘
――最悪
よりにもよってのタイミングに顔を出す誰かが、せめて女子であるのなら、アカネにもこの場をやり過ごす算段が立てられる。大抵を受け流す笑顔の作り方は心得ているし、仮にその誰かが六花なら、逆に弄り倒すだろう。
もしも有象無象の男子なら――薄い笑顔で漫談して夜にはコロコロ必至である。ドアは既に開き切って、前を隠す暇もない。果たしてどちらに幸か不幸か、アカネと何者かは出くわした。
真っ赤な髪。赤いリストバンド。同年代でも取り分け幼く感じられる、可愛げのある顔貌。
アカネを取り巻く多くにとっては、『記憶喪失』という物語の主人公のような設定を背負った、それ以外は至って平凡なクラスの男子。そんな少年が今、目を丸くしてアカネを凝視している。
驚いているのは、アカネもまた同じだった。しかしそれは、懸念していた下卑た視線に対してではない。この少年が持っているもう一つの顔を、アカネは知っていたから。
『グリットマン』という名前を持つ〝彼〟。そこに大きく繋がる少年――響裕太。
二人きりになったまたとない機会に、アカネは内心胸を高鳴らせた。
〇
手痛い失敗をした。
先日ラフティングを終えてからの初めての体育、何を血迷ったか水着を入れた方の袋を持参していたことに傍と気付き、裕太は授業を受けるすんでで引き返している。
というのも、親しい友人である内海将の助け舟で、教室に置いている彼の体操着を貸してくれるという話がついたので、小走りで駆けている最中だ。当の内海はどうするのかといえば、曰く、
『ほら、運動するとさ、横腹減っちゃうからさ』
と、一見とち狂った供述を頂いた。山で意中の新条アカネに駄肉をつままれてトリップしていた思い出が、余程彼の人生観を変えたらしい。矯正に幾ら時間を要するかは、裕太の知るところではなかった。
廊下の法定速度ギリギリで教室に辿り着いて、裕太は一も二もなくドアを引く。
新条アカネが、素肌を晒して教室の隅に立っていた。
薄く紫がかった白髪の少女は、幼くも映る顔立ちを静止させて、驚愕も羞恥もない赤い瞳を裕太に向けている。大胆に肩まではだけた上半身をなぞるように視線で追えば、
一瞬よりも長い程度には、時は流れて。
「ご、ご、ごめん!!」
己が日常の侵略者であることを知って、裕太は勢い良くドアを戻した。
●
これはチャンスだと、アカネは思う。
今し方持ち前の赤い髪より顔を赤面させた裕太がド派手にドアを閉めたのを見て取って、アカネは即興の計略を行動に移す。携帯を取り出しラインを開き、極最近登録した一緒にご飯を食べてくれる怪獣に一報入れる。
『アンチ』という記号的な名を与えた彼に、特に思い入れはない。交えたトークも一度きりで、画面には『めし』という文字しか残っていない。無論、アカネは既読無視している。
『私が連絡したら、変身して』という文面だけ送り、返事も待たずに携帯を収める。
そうしてアカネは、身繕いすることなく、裕太が隠れているであろうドアの方まで近付いた。覗き口のような縦長の窓越しに、くっきりと後ろ頭が映っている。アカネが事を終えるまで、待っているつもりなのだろう。
あえてアカネはその背にぴったりと沿うようにして、ドア一枚の仕切り越し背中合わせになる。
お互いの気配を感じられる距離で、アカネは言う。
「――えっへっへ、見られちゃったねー。こういうの、漫画やアニメだと、ラッキースケベっていうんでしょ。やっぱ響君、主人公みたいだねー」
「ち、ちがっ!? ラッキーとか、じゃ、なくて、そもそも、主人公でもないし……。その、ごめん、新条さん」
面白いくらいにどもった反応が返ってくる。滲み出る朴訥とした純真さに裏は感じられず、裕太の謝意にアカネが気を悪くするところは微塵もない。飄々と聞き流して、口にするのは弱みにつけこむ揶揄ばかり。
「えー、ラッキーじゃないんだー。……魅力ないかな、私?」
「や、そういうことじゃっ。……可愛いと、思います」
「お~? 世辞じょうず~」
この男子、思ったよりからかい甲斐があるかもしれない。
本筋からズレかねないので、アカネは軌道を修正する。
「で、何の用? 教室、入りたいんでしょ? 私なら着替え終わったよ?」
「本当……? いや、体操着取りに来ただけなんだけど。じゃあ……失礼します」
再度ドアが引かれる。
困り顔の裕太が教室に踏み込んで来たところを、アカネは思いっきり抱き着く。
素肌を晒したままで、だ。
「し、新条さん!? 着替えたんじゃっ」
「うっそー」
二房の圧で裕太の右腕を挟み込んで、アカネは彼を束縛する。
本来、こうした行為に軽率に及ぶほど、アカネは節操なしではない。無遠慮で不躾で無神経な肌の接触は身の毛もよだつほどに疎ましいし、事と次第では肩の触れ合いだけで殺意を実行に移せる。だけども、
この響裕太という少年に関してだけは、このシチュエーションが益を運ぶかもしれなかった。
アカネの仇敵たる『グリッドマン』は、響裕太の真の姿だ。それなりの証言も、本人から掴んである。
アカネの目的と募る想いは、手製の『作品』と『グリッドマン』をぶつけることで果たされる。表の顔でしかない裕太をじかに始末したとて、『グリッドマン』〝には〟勝てなかったという悔しさが残るだけだろう。
これまでだって幾多も手管を弄してきた。
今回は題して、『響君のコンディションを変身前に追い込もう』作戦だ。
男子は女子の裸身を前にすると、やむを得ない反応を見せるらしい。
遺伝子に義務付けられた生理的欲求は、兼ねてからアカネの発散している破壊衝動のように、ブレーキを忘れれば獣に還ってしまう、卑しくも原始的な本能だ。気のない異性が相手であれば、それは生理的嫌悪にも繋がること請け合いだが――果たして裕太の〝ソレ〟は目論見通り、下半身を鎧った布地を一部主張させていた。
アカネは含んだ笑みを漏らし、自分の身体的特徴を活用して、より煽情的に押し付ける。
見るだに慌てる裕太の視線が不可抗力にアカネの胸部を注視する。上手く行き過て脳裏の痺れる感覚を味わいながら、アカネは駄目押しを重ねた。
「あ~、響君~。今やらしいこと考えてるでしょ~」
「ち、ちがっ! その、離れて、欲しいんだけど……」
「えぇ~、いいの? 身体は喜んでるみたいだけど」
目を逸らす裕太のシャツから下は、鎮まることを知らない。紅潮する彼の頬は背の低いアカネからもありありと見え、嗜虐心を実にくすぐる。引き剥がす動作を取るよりも困惑が勝るのか、裕太は顔も向けられずに、
「……新条さんが、そんなにみだらな人だなんて、知らなかった」
言葉だけで、精一杯の強がりを吐き出した。
「響君、記憶喪失だもんね。驚いた?」
コンプレックスをつつくように、アカネも毒を忍ばせる。
裕太が記憶という支柱の不在に自身のアイデンティティを欠いていることは、既にアカネにも知れている。案の定柔らかい箇所に触れたのか、穏やかを常としている少年は眉根を寄せ小さく憤った。
「そういう言い方は、ちょっと傷つく。……今のは、忘れるから」
言って、アカネの腕を振り払うと、少し前屈みになりながら裕太は不格好に歩く。
優位は未だ自分にあると、アカネは彼が背を向けてるのをいいことにほくそ笑み、形ばかりの謝罪を繕う。
「ごめんね。怒らせちゃった? でも響君大丈夫? ……歩き難そうだけど」
「……新条さんのせいだよ。正直、記憶がなくなって初めてだから、滅茶苦茶戸惑ってる」
恥辱の色が尋常でない面持ちで振り返る裕太に、アカネはとびっきりのスマイルで応対する。
押し切るなら、今だ。
「そっかそっかー。――じゃあさ、響君、私が楽にしてあげよっか?」
きっと知識に穴が空いた裕太には、不明瞭な持ち掛けだっただろう。
期待通り彼は疑問符を顔に浮かべて、尤もな言い分を返す。
「え? いや、もう授業始まってるし、体育館、行かないと行けないんだけど」
要領を得ない少年と距離を詰めながら、アカネは喜悦の態度で振り回す。
「だ・か・ら・さ。もう、記憶がないって鈍いなー」
一歩を踏むと同時に、ジャージのチャックを下ろしていく。
無防備に開いた心もとない制服が歩調に合わせてズレ落ちて、柔肌がより外気に触れていく。
最早衣服の機能を果たしているのは袖だけで、アカネは半裸と差し変わりない恰好で、身を引く裕太の前に立つ。
彼の首に手を回して、気持ち爪先立ちに、真っ赤な耳元につややかな唇を近づける。
秘めるように、惑わすように、二人きりの教室を狭めるように、アカネは禁忌を囁いた。
「――私が保健体育、教えてあげよっか?」
生唾を飲む音を耳にして、少女は妖艶に嗤った。