〇
散々な目に遭った。
出来の悪い寸劇のような戦闘を終えて帰ってきたら、六花に白い眼で迎えられ、
「………………………………響君、臭い」
その残り香に何かを察しながらも深くは問うまいとしていた内海がふと思い出したように、
「そういやさ、新条さん見なかった? なんか授業出てなかったみたいなんだけど。裕太一度教室戻ったっしょ。もしかしたら会ってたりしないかなって。いや、安全が確認出来てたらいいってだけで、他意はないですからね? ……え? ……なんで目逸らすわけ? ちょ、裕太? 裕太さん? 響裕太さーん???」
めっっっっっっっっっっっっっっっっっっちゃ気まずくて家に帰った。
記憶喪失で空っぽの、自分そのものな味気ない自室で、裕太はベッドに転がる。
本当に色々あった。
色々されたし、色々した。
すっごくキザッたらしいことも言った気がして、今更になって裕太は枕に顔を埋め足をパタパタとする。
怪獣周りの記憶は削除されるというのに、新条アカネを食事に誘った。
恐らく彼女は、その約束を明日には忘れているだろう。
それでも自分は、今日の行為に対して取り持つ責任があるのだと思う。
それが具体的に何なのか知るのはとても怖くて、裕太は保健体育の教科書を開くのを後回しにしている。
思考が彼女を思い描くと、釣られてあのイメージが呼び起こされ、思春期が如何に厄介か知る。
この気怠さが眠気になる前に身を清めようと、裕太は緩慢に起き上がる。
そのタイミングで、あまり鳴らないと裕太の中で有名な響家のインターホンが耳をつんざいた。
「……え、誰、この時間に。内海か、六花かな」
自分の家を知っている人間で思い当たるのは、その二人だけだ。
妙な胸騒ぎを感じながらも玄関まで足を運び、ドアの覗き穴を使う。
忘れるわけない顔が立っていた。
ジャージのフードを被った新条アカネが、微笑みを湛えて家主が出てくるのを待っている。
珍しく素足で、正しく上半身を着込んだ彼女のフードは、トゲトゲしいデザインで周囲を拒絶しているかのようだ。けれどすっぽりと収まったその顔には、真面目さや知性よりも、幼さを際立てる眼鏡が掛かっていた。
一方に
迷う。
考える。
今日彼女とは無関係に〝青いの〟が現れたとはいえ、やはり彼女が山で近付いて来た時の疑念は晴れていない。しかし無下に出来ない気持ちもやはりあって、裕太はドアノブに手を掛けている。
待ちかねるようにしかめっ面をして、アカネは声を張り上げた。
「どうしたのー! 響君ー! いるんでしょー! お肌重ねた子無視するのー?」
集合住宅の廊下でやめて欲しい。
望み通り開け放って、裕太は飛び出た。
「やめてってば! 新条さん!」
「お、やっと出てきたー。やっほ、響君。さっきぶりぃー」
ぱっと表情を華やがせて、アカネはポケットにインしていた手を片方掲げる。
不穏な気配しかしなくて、裕太はドアを少し閉めた。
「何の用……? てか、なんで俺ん家知ってんの……?」
個人情報の流出を指摘したのに、アカネはあっけらかんとした様子。
自己の不信度など顧みないように、彼女は言う。
「私と響君の仲なのに、用がないと駄目なの? お家は六花に聞いたよー」
真っ当な流出経路に安心するべきか六花を恨むべきか微妙な線だが、針の筵に刺された心地で、裕太は彼女が真意を告げるまで待つ。もう外は夜の帳を下ろして、寒気を引き連れつつあった。
「……」
裕太は待つ。こちらの心を覗くような瞬き一つしない瞳を前にして。
「……」
アカネも待っている。事この場においては、裕太の判断に委ねるつもりであるらしい。
「……上がる?」
結局根負けしてそう尋ねれば、アカネはコクリと頷いて、なのに一歩も動かない。
それはあたかも、彼女の採点基準を満たしていないかのような沈黙で。
「その前に、何か言うことあるでしょ?」
言って、彼女は眼鏡のピンクのフレームを、両の中指でこれ見よがしに上下した。
裕太はいつだったかお昼の教室で耳に拾った雑談を思い出す――女子がコーデ変えてんのに話に触れない彼氏ってマジ有り得ないよねー彼氏いたことねぇけど――あれは六花さん軍団切り込み隊長なみこの言であったか、ともかくその情報を真に受ければ、アカネの気分を害しかねないこのイベントを乗り越えられると、そう直感する。
「えっと、雰囲気変わるね、それ……」
「それから?」
「それから? んっと……頭良さそう!」
ここまで褒められたらアカネも大層気を良くするだろう。
裕太自身は一度もそんなお褒めを受けた試しはないけれど、きっと嬉しいものだと思う。
親指を立てて裕太が太鼓判を押すと、アカネは鼠の死体を見るかのような色のない目をした。
「頭の悪い解答どうもー。響君、女の子褒める才能ないね」
恐れていた彼女の苛立ちスイッチを押したのか、癖の悪いその足でドアが蹴飛ばされる。有無を言わせぬその雰囲気に裕太はたじろいで、身体の横を通り過ぎようとした彼女に、忘れていた言葉をもごもごと加える。
「……まぁ、こっちも可愛いとは、思うけど」
教室で同じことを口にした時は別として、やはり面と向かって言うのは気恥ずかしいものがある。けれど、いざ自分の心中に迫られると、率直に吐露してしまうのが癖になっているらしい。新世紀中学生の兄貴分、マックスに宝多六花への想いを問われた時も、つい答えてしまった。
たぶん、隠し事とか搦め手とか、そういうのに自分は向いていないのだと、裕太は思う。
虫の羽音にも等しいその気弱な呟きを聞き留めたのか、アカネが傍で立ち止まった。
「響君」
彼女がフードを下ろす。
玄関で並ぶ足の一方が、背伸びをするように踵を上げる。
眼鏡がぶつかりそうなほど彼女の鼻筋が近付いて、ソフトな唇の感触がそっと離れた。
ここで挙動不審にならない現状を、果たして成長と捉えるべきだろうか――裕太はその痕跡を確かめるため頬を手で隠し、ドギマギとしながらアカネを見遣る。
「……今の、何?」
「べっつにー。おかえりとかお疲れ様とか、少しは勝たせてよこの単細胞とか、好きに受け取っていいよ」
「ごめん、ぜんっぜん分かんない」
何故自分はナノミクロン単位で詰られているのだろうか。
色めきだった様子は欠片もなく、少女は平然とフードを被り直し、靴を脱ぎ散らかし裸足で家に踏み込んでいく。
「ふーん。響君、こんなとこ住んでるんだー。一人暮らしって広く感じるでしょ。寂しくない?」
彼女の中で先の話題は終わったらしい。
どうにも風向きの変わり様が激しくて、裕太には追っつかない。
リビングで両の手を広げてこちらを向く彼女の方に、げんなりとついていく。
「……いや、まぁ、家で一人じゃない時って知らないから、寂しいとか、特に感じることはないけど」
『グリッドマン同盟』に居る時と比べたら、伽藍洞な空間かもしれないけれど。
誰かと繋がりを求める以上に、繋がらない時間を作ることも、人らしく立つために大切なのだと、裕太はこの頃思う。同じ生活がこの街には幾つもあって、その中には知っている人も知らない人もたくさんいる。
本当に怖いのは、その〝寂しさ〟さえ、怪獣は奪ってしまうということ。
それを阻止するために家で自分が出来ることと言えば英気を養うために寝るくらいで、頭から抜け落ちた学業の諸々を取り戻すのにも追われ、個人的な寂寥を感じている暇はない。
まさかその全容までアカネに説明する気は起きず、彼女の前で立ち止まる。
何か得心がいったという風に、彼女は呟く。
「ふうん。おんなじだね」
「同じ?」
「そ、同じ。私も一人暮らしだから」
それ以上、多くは語られなかった。
いつから? と、裕太は訊けなかった。
幼子の精神性を手折れず、そのまま伸ばしたような彼女の庇護がいつから失われていたかなんて、それを彼女に語らせたら、きっと我が事ではないように話し出すのだろう。そんな確信を抱く程度には新条アカネと接した自覚があったし、彼女の秘密を知るべきなのに、自分と彼女が纏った孤独は、決して同質ではないような気もして。
裕太の隣の席にいる、クラスの誰もに好かれる女の子。
なのに誰よりも早く帰って、その家には彼女しかいないと言う。
そんな境遇をおくびも表出さない彼女は、人受けのいい笑顔を常に被っていて。
本当はそれも上手じゃない癖に。
孤独を着ていると思うのは、穿ち過ぎだろうか。
黙す裕太を放置して、アカネは勝手にリビングのテーブルに着いている。
彼女の正面で椅子を引いて、裕太は腰を落ち着ける。
思えば、ここで誰かと向かい合うのは初めてで。
けれど、
「……蒸し返すけどさ、新条さん、本当、どうしてここに来たの?」
こんな形で向き合っても、一人と一人は、二人になれない気がして、裕太は同じ問いを繰り返す。
本当を重ねるまで、幾つ嘘を暴けばいいのだろう。
少女は両手に頬杖を突いて、ほっぺをむにゅりとさせながら答える。
「響君に会いに来たの。それだけだよ」
正真正銘、それ以外の理由なんて要らないとでも言うような、真っ直ぐな回答だった。
全部が嘘で、全部が本物みたいな子だった。
だから読み取れなくて、惑わされて、今も裕太は、搔き乱されている。
少なくとも、少なくとも。自分という個人にここまで関わろうとする誰かを、裕太は知らない。
「……明日も会えるのに?」
頬を掻いて目線を逸らし、漸くそれだけ口にして、裕太は平静を装う。
彼女は両の人差し指を交差して、種を明かすように頬を緩めた。
「響君の話だと、今日あったあんなことやこんなことって、明日には覚えてないんでしょ?
――あ
あんなことの方は覚えてるか。怪獣出てなかったし」
やましいことしか言えないのだろうか。
やましいことしかしてないので当然だった。
少しずつ彼女という人間が見えてきたのに、冷や水を浴びせられたようで、それでも彼女の翻訳が難しい日本語を好意的に受け取れば、決して悪いとは感じなくて。要するに。
アカネはあの教室で裕太が語ったことを真実と信じている。
疑いを持とうともしないというのは、やはり怪しいけど。
「……つまり新条さんは、俺との話を忘れる前に、俺に会いに来てくれたってこと?」
自意識過剰に終わらなければいい。
その真意がなんであれ、行動してくれた時点で、それは裕太を待つ内海や六花と同種の、日常を温かくさせてくれる厚意に思えた。目線を戻すと、彼女は言葉よりも笑顔で応えた。
「そ。納得した?」
眼鏡が割れてなければ、もう少し和やかなのに。
新条アカネと物騒事は切っても離せない関係なのだと、裕太は気後れした笑みで一応を繕って、警戒域を引き下げる。爛れた間柄だけど、今はクラスメイトのように、――友達のように、過ごしていいのかもしれない。
「まぁ、そういうことなら……。ごめん。変に勘ぐって。……人が来るのって初めてだから、碌にもてなす物もないんだけど」
「いいよー、くつろいでくつろいで」
「ここ俺の家……」
テーブルの下で彼女が足を揺らすのが分かる。リラックスし過ぎているが、また襲いに来ないなら裕太としては願ってもない。どこかに来客用の品が隠れていないか台所を探ろうと裕太は立ち上がって、おろおろと考えを散らす。
「えっと、お腹減ってる? ちょっと自分でも何処に何があるか分かってなくてさ、ご飯にするなら、外の方が早いとは思うんだけど……。あ、でもその前に身体流さないと――」
一番重要なことを忘れているのに傍と思い当たって、裕太はリビングの壁際で振り返る。
いつ椅子を引いたのか。
音一つ聞こえなかった。
何時の間にアカネが爪先立ちで、裕太の首に腕を回している。
風呂上がりの香りが立ち昇って、裕太の首元を、彼女が嗅ぐ気配がする。
「響君臭うね……。私の匂いも、混じってる……」
心まで吸い取られそうだった。
染み入るように言う彼女の吐息が、また耳裏を揺らす。
早鐘を打つ心臓の音を隠すためにも、裕太は苦し紛れに発するしかなかった。
「……新条さん、頼むから、俺の話聞いてって……」
いつぞやのように肩に顎を乗せ、アカネは今が一番楽しいという風な流し目で、
「聞いてたよー。私はどっちでも構わないし、響君に任せるよ。……ご飯にする? お風呂にする? そ・れ・と・もー? な奴ー?」
何かのお約束のような口振りでノリノリだった。
周囲が絶対知ってるのが前提のような。
今時の芸能人にさえ疎い裕太には、理解の外だ。
「それとも、って……?」
空気を読むことを強要したネタを記憶喪失の人間に振られても困る。
地方ローカル番組の内輪ネタくらい分からない。
胸の動悸も忘れ怪訝な思いを全力で表情にすれば、フードの角度で若干目線の見えないアカネは、膨れた頬だけ覗かせて一歩身を引き、勢いづけてサッカーボールのように裕太の足を蹴った。
「あだっ! え、何? なんで俺蹴られたの!?」
アカネの足癖の悪さは衰える所を知らない。ゲシゲシと動作を繰り返し、痛みに逃げてどんどん壁に追い詰められる裕太が身体を正面にすれば、仄かな怒りを帯びたように頬を赤くしたアカネを真向いにする。
壁ドンって男子と女子入れ替えた方がインスタ映えすんじゃねウチら彼氏いないけど――掃除の時間で一向に手を働かせずそう言ったのは六花さん軍団広報担当はっすであったか。
思い返しながら裕太はアカネの足ドンで逃げ場を封鎖されている。
冷めやらない怒りを抱えたまま、フードを目深にしてアカネは呟く。
「……なんか、自分殴りたくなった」
「いや! 蹴ってるから、俺ばっか蹴ってるから! ……あの、どうしたら、機嫌直してくれますか?」
眼鏡の奥の睨む目が、よりムスっと不機嫌を増す。
裕太の上半身から下半身を指でなぞるようにして、アカネは言う。
「……何分からないフリしてんスか、響君は」
掠れるような、甘えるような、密やかな声だった。
顔の熱を感じる。
この色香に一度大敗したのだと、裕太は自分を引き締め直す。
こういう時は、知らないの一点張りだ。授業で問題を解くのに指差される時も、元気に『分かりません!』と言えば皆の理解を得られた。多少教師の目が生易しくなったが、この盤石な学校生活は自分が勝ち取った誇らしいものだと裕太は信じている。アカネとの戦いも、そういう類のものだった。
「いや、だから、ぜんっぜん分かんない……。新条さんが言ってること、何一つ。いつもそうやってみんなと喋ってるわけ――ない、ですよね。すみません」
目力で人が殺せるんじゃないかと思う。
血以外にも赤い成分が全部巡っているじゃないかという真っ赤な瞳が、裕太を責め立てている。
「分からないなら、分かるまで自分の胸に聞いて。あんま待たせないでね」
足を下ろし、裕太に隣立つようにして壁に背を預け、アカネがズルズルと座り込む。
ノーヒント。
女心は秋の空。
現国でそれだけ覚えている。
裕太も同じく座り込んで、哲学にも等しい深淵に、ない頭を振り絞る。
黙考の間攻撃されないために、口を動かしながら考えて、
「……正直、新条さんには、今日一日振り回されっぱなしなんだけど……」
本当に色々あった。
色々されたし、色々した。
すっごくキザッたらしいことも言ってしまって、身も心も殆ど曝け出したのに、二人の間に、信頼という貯金だけが入っていない。
ずっとこのままなのだろうかと思う。
何かボタンを掛け違わなければ、二人ここにはいない筈で。
纏まらない思考の先を催促するように、小さな肩がもたれかかる。
その華奢な小柄を愛おしいと思った感情が、一時のものでなかったことを、裕太は知る。
何かくすぐったかった。
何か誇らしかった。
伝えるべき言葉は、とてもお手軽なところにあった。
彼女の明日を、守れたのだと。
胸を張って、いいのだと。自分の正義に、言い聞かせた。
「……顔、見れて良かった。俺の事情知って、忘れる前にって、会いに来てくれた人、初めてだから……。……嬉しいって、思うよ」
ちらりと真横を見遣る。
儚げにはにかむアカネの、真紅の瞳に、深く吸い寄せられる。
「……ヒーローって狡いね。正解ばっかり踏むんだから」
立ち方を知らない赤子の歩き方をして、彼女が裕太の前に回る。
裕太の胸板に寝そべるようにして、身を丸める彼女の温度を感じ取る。
裕太の組む足を座布団代わりにする彼女は、水しか入ってないんじゃないかというくらい、軽くて。
日向に当たるように夢心地に瞼を閉じて、彼女はひとりごちた。
「……今日は、たくさん初めてだったね」
「……うん」
「楽しかった?」
「……疲れた」
「ふふっ。……私も」
裕太の胸元にあった頭を動かし、見上げる彼女の柔和な目と、その下で笑みを象る唇を見る。
微笑む線が薄く開く。
小さな手が、自分を引き上げるように、裕太の服に皺を作る。
彼女のフードが、大口を開いた獣のように、ゆっくりと上がった。
「――」
お互いの温度を思い出すように、彼女の方から、唇を合わせた。
眼鏡が当たらないよう斜めの角度を保った顔が離れる。薄く瞼を開いたままのキスは、行為の幕切れに交わしたあの時のように、少し気恥ずかしくて、相手の穴を埋めた。
フードの下で悪戯の成功にやや紅潮して、アカネは言う。
「これ、好き?」
「…………うん」
また、悪い癖だった。
ギリギリまで迷うのに、反射の如く漏れてしまう。
アカネはもう少し会話を引き延ばしたかったのか、クスリと笑って裕太の胸を撫でる。
「……弄り甲斐ないなぁ、そういうとこ……」
円を描くように緩やかな手付きを終えて、彼女がまた顎を持ち上げる。
その動作があまりに急だったから、知らず知らず顔を近づけていた裕太の額に、彼女の眼鏡がぶつかった。
「っつ」
痛みは弱くともつい呻いて、そんな裕太の失態に、彼女が噴き出す。
「ぷっ」
口元を隠し小さく肩を震わせる少女が、思ってもないほど気を許しているようで、裕太にはそれが不思議で。
笑いの波が去ると、彼女は世紀の大発見のように言う。
「眼鏡、邪魔だったね」
「……新条さんって、なんか、色んな顔あるんだね」
怒り方が十通りくらいはあるし、笑顔も無垢なものと邪悪なものを数えたら、百面相に手が届くだろう。
わけても今は、流れ星みたいに稀有な彼女の感情を観測出来ている。腕で彼女の背を支えると、身を委ねるように、彼女は全部を預けてくる。
気まぐれな猫のようだった。
「んー。……今はお家モードなだけだよー」
そう言って寝息を立てそうなほど健やかに、彼女は表情を楽にする。
彼女が誰にも見せていない自身の姿を、裕太に見せているのは確かで。
眼鏡を掛けた容貌が、彼女が自宅で過ごすスタイルだと言うのなら、この家も彼女がリラックス出来る場所だということか。いやに甘えて映るのも、そういった振る舞いを自然にさせる自己暗示として、眼鏡は一役買っているのかもしれない。憶測はさておき、いくら軽いと言ってもこのまま置物になる訳にもいかず、裕太は声を潜める。
「……寝そうなら、ベッド、使っていいから」
薄く目を開き、アカネは口端を吊り上げる。
「響君だいたんー」
「……誘導されてる気がするんだけど」
ねっとりと選択肢を狭められている。
彼女の望む展開に乗るまいと、取り敢えず溜息だけでやり過ごす。一つ大人になって裕太は、彼女の気が済むまで待つことにした。
色んな意味で裕太のマウントを取ってアカネは、何が楽しいのかさも可笑しそうに言う。
「ねぇ、響君が運んでよ」
「もう、その手には乗らないから」
鋼の意思でにべもなく断れば、彼女が耳を裕太の胸に押し付ける。
二人しかいない室内の静寂にあって、裕太が刻む生きた音を隠す手立てなど何もなく。
「心臓、こんなにうるさいのにね」
慈しむようにそう言ったアカネには、そのビートがより速さを増したことも筒抜けだろう。
ずっとやられっぱなしなのも恰好が付かなくて、苦し紛れに裕太は問う。
「……新条さんも、ドキドキしたりするの?」
自分が世界の中心だとでも言うように、他人を歯牙にも掛けない彼女にも、そんな苦しみはあるのかと。
素直な答えは期待しなかった。
新条アカネは、真っ直ぐ歪んでいるから。
寝物語を読み聞かせられているように彼女はまた瞼を閉じて、その心根を囁いた。
「するよ? ……してる」
往来で車に突かれたように不意を打たれ、裕太は押し黙る。
騙されるな、と自分に念じる。
支離滅裂の擬人化みたいな少女に、これ以上惑わされてはいけない。
彼女のことを『才色兼備才貌両全の最強女子』などと唱えていた内海の嘘っぱちを呪う。
高嶺の花なんて生易しいものじゃない。
薔薇の棘に刺さる覚悟でないと、彼女とは話すこともままならない。
度が過ぎるほど自分に素直な――けれどそれでも、普通に血の通った人間だった。
「――もっと胸の音、聴いていい?」
甘く囁いて彼女は、返事なんて待たなかった。
これ以上心音を聴くなんて、それこそ心の蔵を取り出さないと無茶だろう――なんて考えは即吹き飛ぶ。
マウントを取ったままアカネは、ジャージのポケットからカッターナイフを取り出していた。
カチリ、カチリ、と刃を出す音が響く。
あまりの事態に裕太は現実感を失って、その矛先が自分の胸に近付いてくるのをスローモショーンで見る。
――解体される
遅れに失した危機感に、裕太は暴れようともがいて、
「え? 何でそんなの持ってんの? 待って! 新条さんストップ! それ凶器! 危ない奴だか――ッ」
カッターの刃先が制服に切り込みを入れた。
心臓よりやや低い位置で衣を突き刺すそれは、僅かに肌に爪を立て、生命の危機に裕太は息を止める。
皮を剥ぐようにアカネはカッターを徐々に持ち上げて、暗い光を帯びた瞳で言う。
「暴れないで。動いたら、殺さない自信ないよ、私」
カッターは勢いづけて裕太の横顔付近を間違いなく通過して、衣を裂く音がする。
露になった胸板からは、針で刺されたような血の玉がポツリと浮かび上がり、アカネはそれを真剣に見つめて、裕太の命を吸うように舌でその血を舐め取った。生温かさが肌を過ぎ、その跡を愛しそうにさする手があった。
ぴったりと耳をくっつけて、アカネは爆音のように高鳴った裕太の心音を聴いている。
「――ひびきくんのこどうだぁ……」
常軌を逸した、恍惚とした声。
ちょっとヤバくない? それヤバイって、ヤバ、受っけるぅ――とボキャ貧で会話を成り立たせていたのは宝多六花その人であったか。よくあれで通じるなと感心していたが、今の裕太にはその利便性が良く分かった。
絶対ヤバイ。
新条アカネに、自分は殺されるのだと、裕太は思った。
きっと、身も心も。
「……あの、さ。俺のすべきことって、その、疲れとか残すと不味いんだけど、新条さんにもそこら辺、気遣って貰えたら……」
必死の命乞いは届かず、彼女はカッターを投げ捨てて身を寄せる。
夜闇を開いたようなフードの大口が、のっそりと近付いてくる。
「だぁめ」
両の手で裕太の顔を固定して、お預けを食らっていた犬のような過激さで、アカネが唇を食み舌を入れた。
彼女の被ったフードに包まれるような影が落ちて、口の内面を一回り舐められる。生足を晒して跨る彼女の下で、あらぬサインを受け取って、生理的な反応が呻きを上げる。
一啜りするように引き抜いて、彼女は味わうような舌なめずりをした。
熱に浮かされた怪しい目で、ジャージのチャックを下ろしていく。
その下は一糸纏わぬ裸身で、胸の谷間が段々と見えてくる。
デジャブだった。
もし明日にでも怪獣が現れたら、裕太は意地悪な神様を嫌いになるかもしれない。
明日なんて来る前に、自分は搾り取られて死ぬかもしれない。
遅いか早いか――生唾を飲む裕太の前で、新条アカネは秘めた想いを蕩けた声で口にする。
「響君がいけないんだよー。……君が私をこんなにしたんだから――」
覆い被さる、それは不条理。
ずっと既視感があった。
この世の道理から外れたように、爛々と輝くその赤い瞳が、平穏を乱すその様が、何かに似ている、と。
それは裕太が敵対しているモノと同種の、世界を危機に脅かす侵略者。
その名を『怪獣』と言う。
その日裕太は、小さな怪獣に食われた。
新条アカネで遊び過ぎました。完結です。
たくさんのお気に入りや、誤字指摘などして頂いてとても励みになりました。
初R-18を彼女で書けて良かったです。本編も毎週が楽しみですね。
お読み頂き、ありがとうございました。