足の甲を、獣の舌が這う。
足首を、脛を、膝を。
温かく、ざらざらして柔らかく、その軌道は空気に触れてひんやりと潤って。
時折交えられる口づけもまた、違った柔らかさを持って優しく、私の中のなにかを喚起する。
太ももをその唇が越えたところで、私は無造作に彼を蹴飛ばした。スカートの裾を上げようと、手を触れたからだ。
足は脇腹の辺りに当たって、彼は体勢を崩す。
「手を使ってはだめだと言ったではないですか」
赤い眼差しは、そんな私に敵意を向けはしない。
「……申し訳ない」
項垂れて許しを請う。
この金色の獣は、私に従っているのだ。
ギルガメッシュ。
強く、美しい獣。
それが今や私の飼育下にある。
「いい子にしていれば、また機会をあげます」
足下に寄り添う金の毛並みを撫でると、私はソファーから立ち上がった。
それは、いつから始まったのか。
十日ほど前に決行されたその作戦は、思いも寄らない結果を招いた。
「おはよう、セイバー」
居間へと足を踏み入れると、たくさんの美味しそうな料理を卓上に並べながら、彼が迎えてくれる。
この衛宮邸で暮らす人間が今はふたりであるため、一時期よりはその皿数は減った。とはいえ、やはり朝から豪勢な食卓である。
「おはようございます、シロウ」
二月の終わり。まだ寒い季節ではあるけれど、だんだんと春が近づいているのがわかるほどに、日差しはあたたかい。
それは聖杯戦争という闘争が終わって、平穏を教授しようというこの状況に丁度当てはまるようだった。
のどかで平和な、朝の風景。
彼の手には、まだ痛々しい包帯があるのだが。
「シロウ、無理をしないで。何か手伝えることがあれば言ってください」
「ああ、大丈夫だ」
目に入る彼の手には包帯が巻かれていた。
令呪を隠すために巻いていた右手甲の包帯はない。そこに刻まれていた文様も綺麗に消え去っている。
「私だって教えていただければ、ちょっとした料理くらいは……」
「まあ、そのうち教えるよ」
「……私にはできないと思って台所を手伝わせずにいるのでは」
「そんなことないって! 朝はあんまり時間ないからさ、夕飯のときにでも一緒にやろう」
「わかりました。じゃあ朝は、お皿の片付けだけでも」
「助かるよ」
それは、聖杯戦争の最中に負った傷ではない。
聖杯戦争は終わったが、私たちは脅かされ続けている。
彼の腕の傷も、おもしろ半分に、気まぐれに付けられたものだった。
第五次聖杯戦争。
冬木におけるその儀式は、すでに幕を閉じた。
聖杯に私を除く六つの魂はくべられ、そして、その結果。私はここにいる。
ブリテンの過去をやり直すことは間違いだ。
第二の生をこの時代に受けることもまた、間違いであると、私は考える。しかし、そうしなければならない理由があった。
ギルガメッシュ。
あの男が、まだこの世界に残っている。
第四次聖杯戦争において受肉している彼は、第五次聖杯戦争が終焉したことなど関係なく、この地に存在し続ける。
私というサーヴァントを失ったシロウたちがどうなるか、簡単に想像できる。
私はシロウとリンをギルガメッシュから護るため、この地に残ったのだった。
箸を取ろうとしたそのとき、電話が鳴った。
電話に出たシロウの表情を見て、すぐにわかった。それは私たちが待ち望んでいた、吉報を伝えるものだと。
約束した皿の片付けも程々に、私たちは遠坂邸へと急いだ。
「リン」
遠坂邸に着いたのは、私たちの方が先だった。リンは大きな荷物を引きながら現れ、家の前で待つ私たちの姿に気づいて手を振った。
「待たせたわね」
「遠坂、それで」
「ええ、大丈夫よ。理論は完成してるわ」
イギリスから今朝方この地に舞い戻ったリンは、期待通りの成果を携えて来た。
ギルガメッシュを倒す方法。
それを私たちは幾度となく話し合った。
残念ながら、私が真っ向切って勝負したところで、あの男は倒せない。倒せないならばと講じられたのが、この次善の策だった。
結界内に彼を閉じ込め、封じる。
倒す方法はゆっくり考えるとして、今まさに迫っている脅威を押し込める、火急の対策である。
その結界の術式を完成させるために、リンはイギリスまで行っていたのだ。
言峰綺礼が十年間、魔術協会に伝達することなく隠していた兵器。ギルガメッシュという男は脅威であり、魔術協会としても監視対象である。
魔術協会の協力あって、この作戦はようやく実行に移されようとしていた。
作戦の決行は、早ければ早い程良い。
今この瞬間にも、私たちは危険に晒されているのだから。
リンは結界の仕組みを一通り説明しながら、屋敷から必要なだけの……ほぼあるだけの宝石をかき集め、持ち出した。
言葉もなく、私たちはただ早足に目的地を目指した。
そう遠くはない距離。
これから起こるであろう決死の作戦。
約束した夕飯の準備を、私は手伝えるだろうか。
でも、私が手伝えなかったとしてもリンがいるから……。そう考えて何気なくシロウに目をやると、視線が合った。
「セイバーは不本意かもしれないけど、でもな、こうなって良かったって、俺は思ってる」
何のことを言われているのか思い当たらず、私は無言でシロウを見返した。
「セイバーがここに残ってくれて、よかったよ」
彼には、私の考えていることがわかったのかもしれない。
強力な結界は、その範囲が広いほど持続させることが困難になる。
本当は、人ひとり分の面積だけを覆うことができれば、それが一番なのだ。だが、強大な魔術は発動までにそれなりの時間がかかる。その間に閉じ込めておける範囲を考えれば、自ずと答えが出た。
言峰教会、その周辺をぐるりと覆う程度。
それが結界の範囲であり、ギルガメッシュに今後許される、行動の範囲である。
主を失った言峰教会には未だ後任はなく、その門は閉ざされていた。
後任の派遣は、今後もないだろう。そのように魔術協会と教会の間には、合意がなされている手はずである。
印を刻んで歩くリンの後ろをついて回る。教会の周りを一通り見ることになったが、荒れ果てた墓地や手入れのされない芝生がもの悲しく、肌寒い曇り空と相まって不気味だ。そして、最強の英霊を囲う檻としては、あまりにみすぼらしい。
私は正面から教会を見上げた。
あの男も、すでに襲撃には気づいている。易々と、ただ黙って閉じ込められはしないだろう。
前準備が済み、いよいよ本格的に発動させようという段になって、私は身構えた。
鎧を纏う。
魔力を感知すれば、あの男も何らかの行動をする。結界の完成までこの教会内にギルガメッシュを足止めするのは、もちろん私の役割だ。
「セイバー、俺も行く」
「いいえ、あなたはリンを護ってください。私たちの目的に気がつけば、術者である彼女が一番に狙われるでしょう」
「発動には、そうね……十分。いえ、八分……」
「問題ありません。十分、稼いでみせます」
気配をたどって、正面から礼拝堂を抜け、大広間から地下へと弧を描く階段を下る。
敵陣の直中。あの男の手中には数え切れないほどの宝具が存在する。どこにどのような罠が仕掛けられているか、わかったものではない。
それを承知の上で、あえて一直線に走った。
教会の外を探るような猶予を与えてはならない。そんなことは全部後回しにして、まず防がねばならない脅威に、私はならなければならなかった。
扉を開け放つ。
当然その正面に立つような愚直は犯さない。
壁際に身を寄せながら部屋を覗き、そして。
……気配の通りに、英雄王はそこに居た。
「な……」
その光景、空気に、思わず構えを解いてしまいそうになる。
ソファーに身を沈めて足を投げ出し、標的はグラスを傾けていた。
「来たか。セイバー」
襲撃はわかっていたはずだ。ここから待避する時間はなくとも、戦闘準備をするほどの時間は十分にあった。
「……私を馬鹿にしているのですか」
この部屋の空気それ自体が、彼を支持しているようだった。非常にゆったりとした雰囲気が、そこにはあった。
どう考えてもおかしいのはこの男だ。
それでいながらこちらが場違いであるかのような居心地の悪さ。
「我と差し違えて、折角の二度目の命をここで終わらせる気か?」
「そのために長らえた命です。惜しくなどない」
「そうか……。キリスト教徒は自殺は出来ぬらしいからな」
だから殺されに来た、とでも言いたいのか。
睨み付ける私の視線を受け流して、ギルガメッシュはワインをつぎ足した。本当に緊張感のない男だ。
「しかし、お前も折角この時代に残ったのだ。そう死に急ぐこともあるまい」
「戦う以外に、私がここに存在を許される理由などありません」
「誰の許可が必要だと言うのだ、くだらん。……だがまあ、それでも誰かの許可が欲しいと言うのなら、我がそうしてやろうか」
ふざけたことを言う。
この男の許可の元生きる、などと。
「支配の元で生きて、何の意味があると言うのです」
「支配を受けるのがそんなに苦痛か? それによって安寧を得ることもある」
「くだらない。私はそこまで落ちぶれてはいない」
半ば売り言葉に買い言葉で言い返した後に、少しだけ自分の発言を後ろめたく思った。今後結界内に捕らわれて生きであろうる彼に、言葉が過ぎるような気がしたからだ。
私の少しの動揺をどう取ったのか、彼が返答しようとしたそのとき、空気が変わった。
魔術師ではない私たちが強烈に違和感を感じるほどの、強い波動。
「これは……」
この事態には、流石にこの男も席を立つ。
「……結界が閉じる前に、お前は脱出するのだろうと思ったが」
気づいていたのか。
しかし、私が逃げるそぶりを見せないことから、まだ結界の成立に時間がかかると判断していたのだろう。その読みは外れ、もう残り二,三分というところだ。
最初から私たちの狙いに気づいていたのに対処しようとしない、その慢心が徒となった。不愉快な内容ではあったが、長話は私に有利を与えたようだ。
だが、ここからは武力でもって食い止めることになる。
私は無言で剣を構えた。
一方のギルガメッシュはこの期に及んでも、不敵な笑みを浮かべていた。
「共に封じられる覚悟、ということか」
「甘く見ないでいただきたい」
ここが地下で良かった。
窓という退路を考えなくて良い。
ちらりと壁に沿って視線を動かし辺りを確認し、そう認識した瞬間。
その一瞬の安堵。
爆音。
攻撃に備えるが、標的は私ではなかった。
彼の放った剣は、部屋と部屋を隔てる壁を破壊した。
瓦礫の中に人影は消え、大きな爆音がすぐ隣でもう一度鳴る。
「くっ……!」
部屋を飛び出したときにはもう、彼の姿は階段の中程にあった。隣の部屋へと続く壁を破り、そこから廊下に出たのだ。
私が愚かだった。退路はこの部屋の扉だけではなかったのに。
階段の傍らの石像を踏み台にして、地上へと続く廊下を跳躍する。英霊として持ち得る身体能力ならば、ものの数秒。窓からの光が差す地上へと到達する。
だが、敵もまた同じ能力を持っている。
追いつかない。
聖堂の出口へと続く直線で彼の後ろ姿を捕らえ、そこにストライク・エアを放つ。
それを避けるためにギルガメッシュは最短ルートを外れ、僅かに距離が縮む。
何秒、あと何秒だ。
コンマ一秒でも多く稼がなければ。
未来のために……!
「結界は球体。空中も地中も全て覆う」
リンは道具を準備しながら、私とシロウにその仕組みを説明した。
「密閉する結界ではないわ。空気も水も、虫や他の生き物も出入りが可能よ。それじゃないと空間に与える影響が大きすぎるから」
「人間だけが出入りできなくなるということですか?」
「いいえ。あいつだけよ」
リンが取り出したのは、何かの破片だった。
「これが金ピカを呼び出した聖遺物。これに含まれる情報から、あいつだけを特定してシャットアウトする」
どろどろに溶けた宝石に、薄い虫の羽根のようなそれは、くしゃくしゃと千切って混ぜられた。
ギルガメッシュのみに作用する結界。
この方法ならば、私が足止めのために結界内部に留まっても差し支えない。……元より、いざとなればそうするつもりだった。共に閉じ込められても構わないと考えていた。
リンもきっと、私がそうするとわかっていたのだろう。
私を死なせはしないと。
そう願って、彼女はこの結界を作った。
私は二人に、答えなければならない。
風の魔術を足に纏って、前進。
もう届きそうなところまで背中に迫って、そこで外へ出た。
教会を出て数メートルの敷地内、リン、そしてシロウが居る。
金色の渦が湧く。
目視するや否や、それは投擲された。
剣だか槍だか、確認するよりも前に、ギルガメッシュを追い越して私は跳躍した。
シロウとリンの眼前。
その宝具を横に弾こうと、力の限り跳ぶ。
「……っ!」
とどかない……!
凶器がそのとき、不自然な挙動をした。
二人の顔の直前でスリップするように矛先を滑らせる。
見えない壁に阻まれたそれは勢いを殺しきれずに球面を滑り、火花を散らし、そして、舗装された白い地面に、カツンと落ちた。
手の先の目標物を失った私は、伸ばした手をそのままに、リンとシロウの真ん中に倒れ込むようにして着地したのだった。