教会の敷地内。結界の少し外側から、ギルガメッシュが過ごしている二階を見上げる。そこで私は、中に入るのを躊躇っていた。
昨日は彼に手を上げてしまった。
あちらがどう思っているかはともかく、私としては気まずい、申し訳ない気持ちがある。
しかし、いつまでもこうしている訳にはいかない。気にしているとも気付かれたくはないし、あくまで平静を装って、彼がいるであろう部屋の前まで歩いた。
ノックをするが、意味はない。
結界内に入った時点で、私の気配はわかっているだろう。
「ギルガメッシュ、入りますよ」
ドアを開けると、彼は卓上に私の知らないボードゲームを広げていた。
「セイバー」
顔を上げて、微笑みかけてくる。その何ら変わらない態度に安心した。
「何をしているのです?」
ボードゲームについて尋ねる。それに興味があるというより、なにか話をして場の雰囲気を和やかにしたかった。
「一人でもできるボードゲームだ。作物を収穫し、領土を開拓する。生産性の高さが点数化され、高得点を狙う」
農場のようなフィールド。カードや色取り取りのコイン。隣に座って、それらの意味や詳しいルールを聞く。なにやら難しそうだ。
「二人でもできるのですか」
「ああ、もちろんだ」
カードを引き、行動を選び、最終的な点数で勝敗を競う。ルールはあまり複雑ではないのだが、中々勝てない。
気がつくと私は熱中し、何度も勝負を挑んでいた。
「……強いですね、ギルガメッシュ。相当やりこんでいるのでは?」
「ふふ、まあ、そういうことにしておいてやろう」
気がつけば二時間以上経っていた。結局一勝もできていない。
「もう一戦……」
「今日はもう飽きた。また今度にしろ」
負けたままというのは気持ちが悪いが、仕方が無い。説明書を熟読して期を待とう。
「ところで」
「……?」
「これだけ圧勝したのだ。何か褒美はないのか?」
彼はにやにや笑いながら、首をかしげるような仕草をして、こちらの様子を窺う。
昨日の一件から、彼が何を欲しているかは知っている。
……触れたいのだ。私に。
毅然とした態度を取ってはねのけたい一方、その期待を持たせ続けることは、彼に大人しく言うことを聞かせる材料にもなる。
何か言わなければ。
沈黙が長くなり、口ごもってしまうのを避けたかった。主導権を握っているように、動揺などしていないように見せたかった。
「足を舐めたいのならどうぞ」
口をついて出たその言葉は、冗談としてはきつすぎる。この和やかな雰囲気にそぐわないものだった。
ギルガメッシュは無言で席を立った。
「あ、ギル……」
侮辱が過ぎたのだと後悔した。だが、部屋を出て行くつもりかと思われた彼は、思わぬ行動を取った。
私の目の前に膝をついたのだ。
「え……」
靴を履かせるように手の上に踵を乗せると、彼は、足の甲にくちづけた。
「な、なにを……!」
上目遣いに見上げて、男は少し笑った。
「足ならば良いと」
ふざけているのか本気なのか、私には判断がつかない。
判断はつかないが……。
少なくとも、危険な感じはしなかった。私が許す範囲で……跪いて足にキスをしているだけなら。
彼は続けて、足の色々な箇所にキスをした。
これで満足するならば、まあ悪くない落としどころなのかもしれない。
この時代のドライヤーという道具は便利だ。寒い日の風呂は格別だが、髪が濡れたままだとかえって冷えてしまう。念入りに乾かしてから、少し身構えて戸を開く。洗面所から居間に着くまでの廊下は、特に寒い。
風呂からあがった私には、居間で読むものがあった。先ほどのゲームの説明書ではない。それを読んでいるのをシロウに見咎められては、説明に困るような気がした。
机の上には旅行パンフに加えて、習い事のカタログ。
旅行パンフはチラシのように薄いが大量。習い事のカタログは一冊だがずっしりと分厚い。
辞書のようなそれを広げ、何気なくページを送って眺める。
料理、語学、音楽に絵画……。
資格取得から趣味や実用に至るまで、多くの講座が紹介されている。その範囲といったら。驚くべきことに、王侯貴族が身につけるような教養から技術職に就くための専門学習までが、同じように扱われている。
「なにか気になるやつ、あったか?」
それを覗き込んで、シロウが後ろから声をかけた。
「そうですね……まあ、割とおもしろそうなものもいくつか」
リンは夕食に訪れ、そしてこのカタログを置いていったのだ。
私の今後の選択肢になればということだった。
「詳しい資料も取り寄せられるみたいだから、気に入ったやつに付箋でも貼っておいたらいいんじゃないかな」
「そうですね」
言いながら、ページをめくる。
この膨大な講座の数。
現世を生きる人々の選択肢が無数にあるという、そういうことだ。生まれによって人生の大部分が決まっていた、私たちの時代とは違う。
もしここに、この時代に存在したなら……彼らはどんな人生を歩んだだろう。
「あ、でもあんまりプレッシャーに感じなくていいからな。遠坂に悪いからどうこうとか、早く選ばないと、とか考えなくていいから」
私の神妙な面持ちをどう捉えたのか、シロウはそう付け加えた。
「セイバーに幸せになってもらいたいんだ。俺たちが望んでいるのはそれだけなんだよ」
「シロウ……」
旅行のパンフ。
習い事のカタログ。
私専用のお茶碗。
やさしくあたたかい、私に向けられた好意。
「何かあったのか?」
彼がそう言ったのは、ボードゲームが一戦終わった後だった。
部屋を訪ねると、ギルガメッシュはまたあのボードゲームを広げて待っていた。私が再選を望むと思って用意してくれていたのだろう。当然、私はその勝負に乗った。
いつも通りに振る舞っていたはずだが、不自然なところがあっただろうか。
「……そのように見えますか」
「ああ。集中していないように見える」
「……そうですか」
少し、考えてはいた。
私以外になら、この男しかいないからだ。
私と同じような葛藤を、この男が持つとは思えない。しかし、元は一国を治め、今は現世に肉体を持つ身。そんな境遇の者は他に知らない。
「この十年間、あなたはどのように過ごしたのです……?」
「どのように、とは抽象的だな」
確かに的を射ない質問だったかもしれない。
経緯を知らなければ困惑するだろう。「なんでもありません。今の質問は忘れてください」と、そう口にしようとしたそのときだった。
「そうだな、概ね満足に、何不自由なく過ごしたのではないか」
それは少しばかり、私の心を波打たせる答えだった。
「しあわせに?」
「まあ、そうだ」
軽々しい答えに聞こえてしまう。彼の事情をよく知らない私は、そんな結論を下す立場にない。それはわかっている。
「…………自国の民を前にしても、そう言えますか?」
「また唐突だな。我が現世でどう過ごそうと、民には関係のない話ではないか」
関係のない話……。
私にはそうは思えない。第二の生を受け、新しい人生を歩むチャンスをひとりだけが手に入れるなど。
「受肉して良かったと、そう言えるのですか?」
「ああ、そう思う」
「私の飼い犬になって、閉じ込められて足を舐めているような身分になっても?」
何をこんなに、私は苛ついているのだ。こんな風に噛みつく必要はないというのに。
「……そうだな」
私が挑発するような攻撃的な言葉を選んだことに驚いたのか、彼は先ほどまでのように軽い口調で返事を返しては来なかった。
十分に言葉を選び、吟味する素振りを見せ、口を開く。
「……それが十年の結果に対する罰だと言うのなら、それも悪くない」
その言葉はすとんと私の胸に落ちた。
ああ、そうか。
彼は罪科に対する罰を受けている。
私は彼を閉じ込め、虐げることに罪悪感を感じる必要はないし、彼が十年間を楽しんだこともそれで帳消しになる。
全ての整合性がとれている。
「そう、ですか」
彼の理不尽を糾弾しようという気持ちは、私の中からすっかり消えていた。