【2025.9.5コミック発売】異世界で淫魔師ハレム【完結】 作:ドン・ドナシアン
「戦わずして落城──?」
エルヴェラは声をあげた。
大公宮内の宰相用の執務室だ。
いまは夜である。陽が落ちて数ノスが経ち、外はすっかりと夜の闇に包まれている。
一年ほど前までは、この隣室の宰相付の政務官室でロクサーヌひとりが執務をしていたのを覚えているが、いまはロクサーヌは新たな大公室に移動し、この宰相室には、エルヴェラの従兄のガット=スペンサーが宰相として勤務し、隣室もガットの指名した政務官たちであふれている。
隣室はまだ人の気配がたくさんあり、まだまだ忙しく政務官たちが働いている感じだ。
それはともかく、いまこの部屋にいるのは、ガットとエルヴェラ、ふたりだけだ。
エルヴェラは、ガットに呼び出されて、この部屋にやって来たのだ。
そこで伝えられたのは、この公都に向かって進軍をしているタリオ軍を迎え撃つために、外郭部に防衛線が作られているのだが、その公都外郭の防衛拠点であるふたつの砦のうちのひとつが戦わずして落城したということだ。
エルヴェラは呆気にとられた。
「まだ隠蔽している情報だ。しかし、いずれ伝わってくるだろう。ただ、まだ防衛線は健在だ。最後の外郭砦が残っている」
ガットの顔にはかなりの疲労困憊の色がある。
それはともかく、そこまで戦況は進んだのだと思った。
ならば、どうするかだ。
「それで、もしも、それも突破されたら? 公都において徹底抗戦? それとも降伏?」
エルヴェラは訊ねた。
ガットがエルヴェラを呼び出した理由は判然としないが、ロクサーヌの侍女長ということになっているエルヴェラは、それを知る必要がある。
しかし、ガットは首を横に振った。
「まだ、決まっていない。今日の枢密院の会議では結論は出なかった。翌朝にもう一度情報を集めて、改めて方針を話し合うことになっている」
「今日の枢密院会議? ロクサーヌ様は呼ばれてないわよ」
侍女長としてエルヴェラは、ロクサーヌの日常を完全に把握している。
ほとんど発言権のないロクサーヌだったが、タリオ軍の侵攻に対する防衛要領について話し合う枢密院の会議については、必ず出席していた。
また、そうでなくても、戦況についての報告も欠かさずにさせていた。
なにもできなくても、できることを探そうと、ロクサーヌももがいているのだ。
だが、今日のロクサーヌの予定に、枢密院会議などなかった。
また、ロクサーヌに入ってきた戦況報告にも、外郭砦のひとつが戦わずして落ちたというものは入っていなかった。
たったいま、ガットが告げられたことは、間違いなく、現段階でもロクサーヌの耳には入っていない。
「そうだな。呼んでないからな。明日早朝の枢密院会議にも呼ぶつもりはない。あの娘には、決定したことを伝えるだけだ」
「どうしてよ。そりゃあ、実権のない傀儡かもしれないけど、彼女も大公なのよ。情報くらい入れなさいよ。そもそも、あれでも彼女は頭がいいわ。情勢を見極める力もある。意見を聴くべきよ。非常時であればあるほどね」
エルヴェラはむっとして言った。
この情勢を見極める力というのは、すなわち、彼女の持つ予知夢の能力のことだ。
ガットにはそれについては仄めかしている。
しかし、ガットは予知夢という能力には懐疑的だった。
そして、どんな予知夢なのだと問われたため、エルヴェラは、ロクサーヌはカロリックがタリオ軍に敗れることや、獣人族の造反を予想している教えた。
そんなことは、誰でも喋れると一蹴されて終わった。
それはともかく、枢密院とやらで、ガットたち主要貴族たちが話し合いを続けているが、エルヴェラの見たところ、いま少し結論のようなものは出ていない気がする。
多分、非常時において、物事を話し合いで決めるということに無理があるのかもしれない。
非常時には強烈な個性で、他人を引っ張る指導者が必要だ。
ガットはそこまでの性格じゃない。それに宰相というのは、文治の長ではあるが、武門は権限の外になる。
それこそ、本来はタリオ軍の侵略に対して、先頭になって公国を率いるのが大公の役割だ。
だが、ロクサーヌには、その権限は与えられてない。
まあ、エルヴェラの見たところ、おっとりしている雰囲気ではあるが、実は芯があるし、逆境にもめげない。庇護欲を掻き立てて、周りが積極的に支えたくなる雰囲気もあるので、おそらく能力のある者ほど、彼女の下で仕事はしやすいだろう。
多分、いい大公になると思う。
しかし、その立場は与えられてないのだ。彼女は枢密院の集まる上級貴族たちの傀儡にすぎず、貴族たちはロクサーヌには従わない。
でも、それでも、ロクサーヌは彼女なりに、できることをやろうともがいている。
だから、蚊帳の外に置くことだけはやめて欲しい。
「あんな娘の意見などどうでもいい。予知夢など世迷い言だ。それよりも現実の話だ。卑怯なタリオ軍に降伏などするつもりはないが、万が一のことは考えておかねばならない。降伏ということになれば、あの娘は切り捨てる。捕縛して処刑する。皇帝を匿ったのは、ロクサーヌひとりの責任として、カロリック自ら断じる姿勢を示す。それによって、降伏後の交渉から少しでも妥協を勝ち取る」
すると、ガットが言った。
「なに言ってんのよ、あんた──」
エルヴェラは思わず抗議の声をあげてしまった。
もちろん、タリオ軍がカロリック侵攻の大義名分とした、皇帝一派を匿っているというのは、まったくの濡れ衣であることは、タリオ側もカロリック側もわかっている。
しかし、どうやら、この男はその濡れ衣をあえて認め、ロクサーヌに全責任を押しつけて処刑することで、タリオ側の心象をよくしようと考えているみたいだ。
まったく、なにを考えているのだ──。
「お前がこのところ、ロクサーヌを大切に扱っていることは知っている。しかし、もともと、あいつは我々同士の道具にするつもりに過ぎなかったはずだ。あれは、俺たち一族を粛正した悪党の娘だ──」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。ロクサーヌこそ、犠牲者よ。そして、あたしたちに協力した。それを見捨てようと言うの?」
「仕方がない。公国のためだ。民衆を守るためだ。大公として犠牲になってもらう。俺も苦しいのだ」
「ふざけんじゃないわよ。犠牲にさせることが苦しいなんて、よくも口にできるわねえ。そりゃあ、いくらでも嘆くことができるでしょうよ。自分が犠牲になるんじゃなくて、他人を犠牲にするんならね」
「ロクサーヌは大公だ。戦に負ければ、大公は責任をとる。それ以外に大公の役割などあるか──」
「雇われ大公よ──。あたしたちが無理矢理に担いだね。犠牲になるなら、あんたたちが死になさいよ。あんたに加えて、枢密院の重鎮がふたりほど。三人くらい首を差し出せば、タリオ軍のランスロットも満足するでしょうよ。自分たちがやりました。ロクサーヌはなにも知りませんって、あの子を守りなさい──」
「お、俺は無理だ。敗北をしてもカロリックがなくなるわけじゃない。敗戦した公国を立て直すという責任が……」
「戦争に負ければ、それを導いた者は敗戦の責任をとるのよ──。ガット兄さんが言ったことよ──」
「まだ負けてない。ただ、万が一の話をしている。とにかく、そのときに、お前はロクサーヌが逃亡しないように見張っていろ。その動きがあれば阻止しろ。それがお前の役割だ」
「はああ?」
「特に、あの獣人女を無力化せよ。いずれにしても、ロクサーヌに自殺などをさせてはならん。あれの使い道は、民衆の前で処刑されることだ。こっそり死なれては、死が無駄になる。タリオ軍との交渉のために、あれは全責任を背負って民衆の前で処刑されねばならんのだ。希代の悪女としてな」
「なにが悪女よ。ただの無力な少女よ。ちょっとばかり淫乱のね」
「わかったな──」
ガットがこれで話は終わりとばかりに大きな声を出した。
「あの約束は?」
エルヴェラは言った。
「約束?」
「あんたは、ロクサーヌに約束したわよ。傀儡大公になってもらう代わりに、ロクサーヌとルカリナに、安寧の日々を与えるって約束したじゃないのよ。それを反故にするつもり──?」
「状況が変わったのだ」
「変わってないわよ。ロクサーヌはなにもしてないのよ。むしろ、タリオ軍が侵攻する危険を言っていて、それを回避するようにあんたに頼んだわ。国防の体勢を整えろってずっと言っていたわ。無能にも、なにもできなかったのはあんたらよ」
「話は終わりと言ったはずだ、エルヴェラ──」
ガットが苛ついた態度で、椅子の手摺りを強く叩いた。
エルヴェラは、ガットを睨みつけた。
すると、ガットがふと険しい表情を緩めた。
「ロクサーヌと気を通じさせるようになって、切り捨てるのが辛いのは理解できる。だが、聞き分けてくれ。そもそも、あれにお前をつけたのは、あの娘が余計なことをしないように監視をすることだったはずだ。あれを逃がすな。聞き入れよ」
「皇帝を匿ったと認めれば、ロクサーヌどころか、一蓮托生であんたらも道連れよ。無駄よ」
「それは交渉による。民衆の前で処刑することで満足してもらえないなら、大公の別の使い道を考える。いずれにしても、公国のために死んでもらう。ロクサーヌも本望だろう」
ガットは言った。
エルヴェラは、歯噛みした。
もはや、なにを言っても無駄なのだ。
徹底抗戦を口にしつつも、枢密院の者たちの頭には、すでに敗戦交渉がある。
そして、おそらく、枢密院では、それについても話し合ったのだろう。だから、ロクサーヌ抜きで会議を進めていたに違いない。
その結果、ロクサーヌは切り捨てられたのだ。
ならば、最善をとるしかない。
もはや、それしかないのだ。
エルヴェラは覚悟した。
「……わかった。聞き入れるわ。ロクサーヌが逃げないように、自殺しないように見張っている。捕縛のときには、ルカリナが邪魔しないように立ち回るわ。あんたに従う」
「おお、聞き分けてくれたか──」
ガットが相好を崩す。
「でも、ひとつだけ条件があるわ」
「条件だと?」
ガットが怪訝な表情になる。
「捕らえるのは、ロクサーヌひとり。でも、ルカリナは逃がしなさい。なにもせずに、城を出るのを邪魔しない。それだけは約束して」
「獣人を? だが、あの獣人女は、ロクサーヌと仲がいい。ロクサーヌを置いて逃げたりはしないだろう。むしろ抵抗する。ロクサーヌを捕縛させて、獣人女だけが逃げるとは思えない」
「それは説得するわ。あんたの問題じゃない。あたしが頼んでいるのは、ルカリナがひとりで逃亡することを選んだとき、邪魔をしないという約束よ」
「それはいいが……。だが、たかが獣人女だぞ。そんなにお前が肩入れをする価値があるのか? どうして、獣人女にこだわるのだ」
「価値があるかって? あるわよ。あいつは、あたしの友達よ──」
「友達だと──? 獣人と──?」
ガットが噴き出して大笑いした。
エルヴェラは腹が煮えかえった。
「なにがおかしいのよ──。約束するの? しないの?」
エルイヴェラは声をあげた。
すると、やっとガットが笑うのをやめる。
「わかった。約束しよう。その代わりに、ロクサーヌの捕縛には協力しろ」
「いいわ。了解よ」
エルヴェラは立ちあがろうとした。
だが、それをガットが押しとどめる。
「えっ、なに? まだ、なにかあるの?」
エルヴェラは座り直した。
「盟約だ」
「盟約?」
「いまのことを盟約してもらう。お前が裏切らないようにな。破ることができない魂の盟約を俺と交わしてもらう」
ガットが右腕を差し出した。
エルヴェラは舌打ちした。
魔道盟約を交わせば、もうその約束を違えることはできなくなる。魂が約定を縛り付け、もしも盟約を破れば、自らの魔道力が心臓を止めてしまうのである。
つまりは、死だ。
「そんなことしなくても従うわよ。心配いらないわ」
「ならば、盟約を結んでも問題あるまい。万が一のことを考えると、ロクサーヌの監視役を別の者に変えた方がいいのだろうが、いまさら、ロクサーヌの周りからお前を外すわけにはいかない。そんなことをすれば、怪しまれて、先に行動をとられる」
エルヴェラは嘆息した。
「……約束しなさい。ロクサーヌを捕縛するのは、あくまでも最終手段よ。タリオ軍に勝つために全力を尽くす。簡単には勝利を諦めない。そして、あの娘とルカリナに約束した安寧の生活を与える約束を守るって。それまでは、彼女を捕縛すると断言しないで──」
「当然だ。負けるつもりなどな。絶対にタリオ軍の侵攻を阻止してみせる。その努力を惜しまないと誓う」
ガットは断言した。
「いいわ……」
エルヴェラは、差し出されているガットの右手を握った。
「盟約を結び、お前、エルヴェラ=スペンサーは、俺が必要だと断言したときには、ロクサーヌの捕縛に協力する……」
ガットがそう口にする。
「……その代償として、ガット=スペンサーは、ルカリナが逃亡するのを阻止しない。彼女が安全な場所に向かうための一切の邪魔をしない……」
エルヴェラが言葉を足す。
「盟約を──」
「盟約を」
ふたりのあいだに魔道が結ばれ、魂の盟約が自分の心臓に刻まれたのをはっきりとわかった。
ごめんね、ロクサーヌ……。
これしかなさそうだよ……。
エルヴェラは心の中で彼女に謝った。