【2025.9.5コミック発売】異世界で淫魔師ハレム【完結】 作:ドン・ドナシアン
小離宮の裏口が見える位置の繁みから、ボニーはキシダインのふたりの手の者とともに、シャーラが出ていくのを確認した。
手筈通りだ。
シャーラとは、常に第三王女のそばから離れない侍女長にして、警護役のエルフ女である。
……というよりは、シャーラは、ほとんど唯一のイザベラ王女の侍女らしい侍女といっていい。
シャーラ以外の侍女は、侍女とはいえ、使用人役に乏しい王女の身の回りの世話をする召使いのようなものらしい。
イザベラの周りの侍女たちの身分も低い。
王女に仕えるような者であれば、それなりの貴族の子女があてがわれそうだが、子爵以上の階級の出身の子女はおらず、それどころか身分のわからない庶子出身の者まで三人混ざっているそうだ。
侍女長ということになっているシャーラからして、この国の貴族ではなく、ナタル森林に存在するエルフ族貴族の出身ということだ。しかも、出奔して王都にやって来た冒険者あがりという身の上であり、それで侍女長の立場なのだから、ほかも推して知るべしである。
つまりは、イザベラの周りにいるのは、身分などあってないような者たちばかりなのだ。
その扱いの低さは、とても王位継承権を持つ王女の扱いとも思えない。
しかし、それが長くイザベラを取り巻いていた立場を象徴しているのだ。
ずっと長いあいだ、この国の貴族たちは、王位継承権をもっているはずのこの少女を無視し続けてきた。王女に関われば、王妃アネルザを始めとする王国の高位貴族派閥の不興を買うことが明白だったので、それで避け続けたということもあるだろう。
まあ、もっとも、王女がそれほどに疎外されているのは、実は父親であるルードルフの王としての不人気と、奴隷集めばかりしている我儘で贅沢な王妃で名高いアネルザの輪をかけた不人気の裏返しといっていいかもしれない。
世間的にみれば、見た目の可愛いイザベラは、そこそこの人気があるようだが、貴族界からすれば、政治に興味がなく、大半の時間を後宮に入り浸っているだけの国王に取り入っても旨味もなく、その娘にまで忠誠を示す意味はないというのが本音なのかもしれない。
それに比べれば、キシダインはうまくやっている。
自分に媚びる貴族には、徹底して美味しいものを与えるようにしているようであり、日に日に、キシダインを王にという声は高くなっているとのことだ。
ただ、逆に媚びない者は徹底的に疎外していくので、敵も多いようではあるが……。
いずれにせよ、キシダインから命じられた王女を魅了術で支配する仕事の手筈を待つあいだ、キシダインの部下を通じてあてがわれた宿屋で待機しながら、ボニーがやったのは、とにかく、ターゲットであるイザベラ王女について調べることだ。
それで、ある程度の宮廷状況はわかった。
暗殺のための事前調査は、アサシンであるボニーの仕事の大切な準備事項であり、魅了の術が使えるボニーは、相手がどんな立場の者であっても、簡単に情報をとり、しかも、その記憶を忘れさせることができる。
待機時間のあいだも、あちこちの貴族の屋敷にまで入り込み、たくさんの情報をとった。
とにかく、それでわかったのは、イザベラ王女は、いまの国王であるルードルフの実子であり、すでに姉である第一王女と第二王女が王位継承権を手放して嫁いでいるという状況の中にしては、驚くほどに宮廷の中で軽視されているという事実だ。
小離宮を構えているとはいっているが、つまりは身分の高い取り巻きも与えられずに、宮廷敷地内で疎外されていると言い換えてもよく、十六歳で一年前に成人をしているのに、王宮における役職は一切なく、従って直属の官吏もいない。
社交界にもほとんど参加しないのは、有名な話らしく、貴族の女たちの中では、そもそも王女を見たことがないという者さえ多いくらいだった。
唯一の例外が、ほんの少し前に始まったばかりだという流通の勉強会だ。タリオ公国から商会団を率いて王都にやってきたマアという女豪商を家庭教師として招き、若い貴族子女とともに授業を受けるというもので、王女はそのときに、五、六名の若い令嬢が一緒に勉強をしているようなのだ。
もっとも、その勉強会のサロンに参加するのは、上級貴族ではなく、中級貴族の子女ばかりであり、もともとそのような流通のことに興味を抱いている真面目な令嬢たちばかりらしい。
上級貴族たちは様子見だ。
一代の女豪商のマアの開く勉強会には興味はあるものの、イザベラに近づけば、王妃アネルザがいい顔をしないことがわかっているので、あえて静観しているという状況らしい。
いまのところ、表立って王妃も邪魔だてはしていないので、もしかしたら、さらに増える可能性はある。純粋にその勉強会に参加したいと考えている貴族たちは、令嬢ならず、男でも多い感じでもあった。
まあ、自由流通というのは、ボニーの召喚前の知識に当てはめれば、貨幣経済の発展を背景とした自由商業ということだろう。ギルドという閉鎖的で競争を拒否する経済制度は、ボニーがいた世界の歴史では中世封建制度の産物であり、商業が発達して貨幣経済になり、市民階級が力を持つようになって、自由な流通による安価な製品が求められるようになると、市民革命の中で自然に崩壊したというのが歴史の流れだ。
いまは、商業ギルドが支配しているこの国で、新しい経済制度に変わろうとしているのは、ある意味、自然な流れというものかもしれない。
だが、いまタリオ公国という隣国から流れてきた自由流通は、そのような流れとは少し違う。
二年くらい前から急に商業ギルド制度の解体を進めて、自由流通を導入したタリオ公国は、公国という国そのものが率先して商業の発展していた西沿岸諸国との貿易を斡旋する過程の中で、ギルドに加盟していた商人たちを豊かにする一方で、彼らの持っていた特権を放棄させて、血を流すことなく社会制度の移行を図ったのだ。
その成功が著しく、タリオ公国がハロンドールのような大国の足元にも及ばぬ小さな領土ながら、流通改革に大成功して豊かになったことから、この国でも一躍脚光を帯びつつある新たな流通方法ということだ。
いずれにしても、タリオで自由流通が大成功しているのは、自由流通への移行が時代の流れというようなことではなく、余程にやり手の流通指導者があの国にいるということではないかと思う。
「行ったな……」
繁みの中で、横にいるキシダインの手の者が小さく呟いた。
ボニーは思念をやめて、目の前のことに意識を集中することにした。
キシダインがつけたボニーを手伝う男はふたり──。
どういう手筈になっていたのかは教えてもらっていないが、王宮に出入りする酒樽の中に入って隠れることで、簡単に宮廷敷地内に潜入することができた。
魔道の結界もある厳重な宮廷への侵入なので、かなりの危ない橋を覚悟もしたものの、呆気ないものだ。
ボニーはほかの酒樽の中に紛れて、一度倉庫のような場所に格納され、そこにこのふたりが迎えに来て樽から出してくれ、そのまま宮廷の庭に紛れたというだけのことだ。
そして、ここにいる。
怖ろしいほどに、あっさりと入り込めた。
「王女の周りで怖いのは、あの女だけだ。あとは、大したことはない。まあ、しっかりやれや」
わかったような自信ありげな口調で隣の男が小さくささやいた。
なんだか、嫌な感じだ。
キシダインもそうだが、キシダインの周りにいる連中には、どうにも女を馬鹿にした感じがある。
特に敬意を払って欲しいとも思わないが、あからさまに小馬鹿にするような態度を取られるのは鼻につく。
「わかっているわ」
しかし、ボニーはそれだけを言った。
ここで、こいつらともめても仕方がない。
まあいい……。
とにかく、シャーラというエルフ女の侍女長はいなくなった。
ここからは、小離宮の建物は少し距離があるが、シャーラと思われる女が、侍女姿のまま、剣を持って練兵場に向かって歩き去るのが確認できる。
あの女は、侍女の恰好をしているが、実は魔道戦士であり、魔道にしても、武芸にしても相当の腕前らしい。
そのシャーラは数日置きに数ノスの時間だけ、武術の鍛錬のために、王宮の衛兵の練兵に参加するために、小離宮を離れる時間があるそうだ。
いついなくなるかは秘密にされているが、キシダインの息がかかっているイザベラ付き侍女のひとりが、それが今日であることを報せてきたらしい。
これも詳しくはわからないが、イザベラ王女についている十名ほどの侍女たちについては、先日、王女の暮らす小離宮内において毒薬騒動があり、十人の侍女が一度に全員解雇され、入れ替わるということがあったらしい。
結局のところ、王妃の気ままにより再び指示が覆されて、解雇が取り消されて、元の侍女たちは元に戻されたものの、それでも数名は戻らない者たちがいたそうだ。
キシダインは、最初は十人の全員を息のかかった女だけで固めようと目論んだようだが、王妃が急に処分の前言撤回をしたために、それはできず、なんとか補充要員に一名ほどを紛れ込ませることだけができたようだ。
これについては、キシダインは最初の日に、手筈について話し合ったときに、舌打ちとともに不満をもらしていた。
それでも補充の中に、キシダインはうまく自分の息のかかった女を間者として紛れ込ませたことができたため、ある程度のイザベラ王女たちの動向については、キシダイン側に筒抜けということらしい。
「侍女も来た。ここまでは手筈通りだな。じゃあ、あとは、お前の仕事だ」
ボニーの隣にいるキシダインの手の者のひとりがささやいた。
侍女の裏口から、若い侍女がひとりで、小離宮から出てきたのだ。
あれが、キシダイン側に情報を流したイザベラ王女の新しい侍女だろう。ボニーは彼女と入れ替わって小離宮に侵入することになっている。
そして、王女に「魅了の術」をかけて、操心で支配してしまう。
あとは、何食わぬ顔をして、少なくとも数日間は、その侍女のふりをして小離宮ですごすという手筈だ。そのあいだに、魔道戦士のシャーラに魅了をかけることが可能であれば、隙を見てかけることになるだろう。
細かいところは成り行きであり、キシダインからの新たな指示を待つことになっている。
最大の問題は、この王宮の敷地内において、ボニーの魅了の魔道が発揮できるかということだが、まあ、ボニーはそれについては心配していない。
それは、この宮廷の敷地内にかかっている魔道防止の結界のことだ。
公然の事実ということになっているようだが、宮廷の敷地内では魔道は遣えない。魔道を防ぐあらゆる妨害魔道具が張り巡らされているからだそうだ。
例外は宮廷の魔道師を始めとする許可を受けている魔道遣いなどであり、当然ながら王族はその例外に含まれる。
それだけでなく、なんらかの方法で魔道防止の結界を出し抜いて魔道を遣ったとしても、すぐに警告が関係部署に流れることになっていて、あっという間にその場所に衛兵と宮廷魔道師が殺到する仕掛けになっているとのことだ。
しかし、ボニーはこれまでにも、何度も同じような結界の中で自分の魅了術を遣っているが、それにより術が阻害されたこともないし、警告具のたぐいにボニーの魅了術が反応したこともない。
それがどういう理由なのか知らないが、この世界に召喚されてから最初からそうだったし、そういうものだと思っていた。
ボニーの能力が、次元を飛び越えたために、引き起こったものであることに関係があるとは思うが、ボニーにはわかりようもない。
いずれにせよ、その現象そのものが、かなりすごいことのようだ。
あのキシダインが、面識のないボニーをすぐに、王女暗殺の道具に使おうと考えたのは、実はキシダインの屋敷にも、この宮廷敷地内と同じように、いや、むしろ、さらに強力な魔道防止の結界が張り巡らされてあったかららしい。
それにも関わらず、ボニーは呆気なくキシダインを魅了の魔道にかけ、それだけでなく、キシダイン邸にもある警告具には、一切の反応もなかったとのことだ。
その警告具はキシダイン自身が懐に入れていて、それに反応することなく、ボニーが屋敷への潜入を果たせたことに、まずはびっくりしたようだ。
それで、あんなにも、呆気なくボニーを使うことにした理由のようだ。
侍女が繁みの近くまでやって来た。
立ちあがろうとする手の者を制して、ボニーは「魅了」の魔道を放ちながら、いきなり侍女の前に飛び出た。
侍女の口が開く前に操心状態にすることができた。
そのまま失神させる。
侍女の身体がくたくたと沈んだ。
男ふたりが、すぐに繁みの中に侍女を引き込む。
「こいつは、ここであんたと入れ替わることを承知しているんだぜ。別に襲わなくてもよかったのに」
繁みから出てきたふたりの手の者の男が、侍女の身体を繁みに運びながら言った。
「あたしが潜入したという記憶なんて、誰からもできるだけ消した方がいいのよ。それに、これであたしの魔道が宮廷の魔道防止に引っ掛からないことは証明できたわね。じゃあ、彼女のことは頼むわよ」
ボニーは身に着けているものを脱ぎながら言った。
一方で、男ふたりが倒れている侍女からメイド服を脱がせ始める。
そして、下着姿になったボニーは今度は、男たちが侍女から脱がせたメイド服を着込む。
次いで、指にしている『変身リング』に魔力を刻みながら、侍女の顔を凝視した。
身体に魔道がかかるのを感じた。これも、今回の仕事のためにアスカ城で事前に与えられた魔道具だ。
通常の魔道とは異なり、魔道具に注ぐ魔力には、警告具も反応はしない。この世界には多くの魔道具があちこちにある。魔道具に注がれる魔力で警告具が反応してしまったら、逆に警告具が役に立たない。
いずれにせよ、魔道具が反応する感覚が起きる。
これでボニーの姿は、倒れている侍女そっくりになったはずだ。
「彼女の名はイエンだったわね。じゃあ、彼女をうまく運び出してよ」
ボニーはふたりの男に言った。
そばに大きな樽がある。
そこに本物のイエンを入れて、ほかの樽と紛らせて宮殿の外に出すことになっている。ボニーが入り込んだのと逆の手順だ。
それがこのふたりの役割だが、宮殿から出る前に、本物のイエンを見つけられれば、ボニーがイエンと入れ替わったことがばれてしまう。
「お前が心配するようなことじゃねえよ」
ずっと黙っていたもうひとりの男が小馬鹿にしたように口を開いた。
ボニーはちょっと嫌な気持ちになった。
まだぐったりとしている下着姿のイエンの身体とボニーが脱いだ服を男ふたりが樽に入れた。
「じゃあ、行くわ」
ボニーは茂みから出ようとした。
そのとき、手の者から呼び止められた。
「なによ?」
ボニーは振り返った。
すると、男のひとりがにやにやしながら茶色の小瓶を差し出した。
「なによ、それ?」
「キシダイン様のご命令でな。潜入前にこれをあんたに飲ませろということになっている。毒薬だ」
「毒薬?」
ボニーは眉をひそめた。
「ああ、そうだ。ただ安心していい。これが効果を発揮するのは一日後だ。それまでに解毒剤を飲めば、まったく身体には影響がない。さあ、飲め」
「じょ、冗談じゃないわよ。なんで、そんなものを飲まないとならないのよ? いい加減にしてよね」
ボニーは鼻白んだ。
「万が一、あんたが任務に失敗したときの用心だ。あんたが無事に王女を操心にかけたとわかれば、ほかの侍女を通して、解毒剤が届けられる。だから、それを飲めばいい。ただし、失敗すれば、放っておかれ、一日後にはあんたは死ぬ。キシダイン様の手引きであることが発覚しないようにという用心だ。悪く思うな。さあ、飲め」
「悪く思うわよ。嫌よ。そんなことをしなくても、キシダイン卿には、首輪で口止めされているわ。キシダイン様のことを発言するのは不可能よ」
「とにかく、これを飲め。キシダイン様の指示なんだ」
「い、や、よ──。じゃあ、行くわ」
ボニーは無視して、小離宮に入ろうと思った。
小離宮には、服装もまちまちの武装をした男たちが十人ほど警備に立っている。あれは冒険者だそうだ。
これも例の毒薬事件がきっかけのようだが、王軍の衛兵が警備をしている宮廷であるが、王女の小離宮に限り、冒険者が雇われて警護をしているらしい。
冒険者といえば、既存の権力に従わないならず者の強者集団という印象があるので、その彼らに王宮内で警護任務をさせるというのは軋轢がありそうだが、イザベラ王女が冒険者ギルドのギルド長を兼ねていることもあり、意外にも少し前に認められたらしい。
それだけでなく、しばらくすれば、あの冒険者たちを王女が任命する王女騎士にする制度が作られるということであり、それが正式になれば制服も支給されるとか言っていた。
一騎当千の冒険者による見張りは面倒だが、このイエンに変身している侍女姿なら、離宮内の侵入を咎められることもないだろう。
ボニーは進もうとした。
すると、腕をぐいと掴まれた。
ボニーは眉間に皺を寄せて、振り返った。
「待て、命令だ。“ハロンドール王国の夜明けは、赤葡萄酒とタルタルチーズの組み合わせが一番だ。なにしろ、白い鳥が大声で笑うからな”」
男がそう口にした。
その言葉で、ボニーの身体は凍りついたように動かなくなった。
「なっ……」
ボニーは絶句した。
いまの呪文は、この言葉を耳にすると、誰であろうと命令に背けなくなると、キシダインに事前に「奴隷の首輪」に刻まれた言葉だったのだ。
どうやら、キシダインは、ボニーを支配する暗号をこの手の者たちに教えていたらしい。
「さあ、飲め。命令だ」
改めて毒液の入った小瓶を渡された。
ボニーの手はそれを勝手に受け取る。
奴隷の首輪の力だ。
「あたしの目を見て……」
男ふたりが、ボニーの顔を何気なく見た。
あっという間に、目の前のふたりの顔が虚ろになる。
ボニーの魅了にかかったのだ。
「……命令を取り消すのよ」
急いで言った。
「奴隷の首輪」の影響で、すでにボニーの手は、小瓶をボニーの口元に持っていっている。
「……命令を取り消す」
命令を与えた男が言った。
ボニーの手は止まった。
ほっとした。
「さあ、あんたら、これを半分ずつ飲みなさい。いいわね」
ボニーは小瓶を男に返す。
ぼうっとした顔の男が小瓶の中の液体を半分飲み、もうひとりに渡す。その男も残りを全部飲み干した。
ボニーはくすくすと笑った。
「いい子たちね。じゃあ、キシダイン卿には、薬はボニーには渡さずに、自分たちふたりで飲みましたと、忘れずに報告しなさい。それと、この樽を誰にも見咎められないように宮殿の外に出すのよ。出したら、あたしのことはきれいさっぱりと忘れなさい。あたしが次に会うまで思い出すこともないわ。さあ、キシダイン卿の屋敷に樽を運び出して」
ボニーは言った。
ふたりが人形のように動き始める。
これでいい……。
ボニーは小離宮に向かった。
警備役の冒険者たちがいたが、咎められずに裏口から建物内に入ることができた。
すぐにほかの侍女ともすれ違ったが、特にとがめられることなく奥に進んだ。
初めて入る建物だが、事前の情報で小離宮の間取りは完全に頭に入っている。
ボニーは真っ直ぐにイザベラ王女がいるはずの居室に向かわずに、途中で厨房に寄り、冷えた果実酒と果物を皿に入れて盆に乗せる。
その盆を持って、王女の私室に向かう。
「待ちなさい、イエン。それをどこに?」
しかし、王女の私室に向かう部屋に近づいたところで、前からひとりでやって来た四十過ぎの年増の女に突然に声をかけられた。
会うのは初めてだが、ボニーはしばらくイエンに化けて潜入するつもりだったから、小離宮の関係者の顔と名と人物については頭に叩き込んでいる。
この女は、ヴァージニアといい、イエン同様に、今回の騒動で新しく小離宮に配置された女だ。
ただ、イエンのように小間使い役ではなく、官吏業務のようなことをするために送られた本来は宮廷で働く女官のようだ。
服装も侍女姿ではない。
これまでの小離宮にはいなかった役割の女官であり、ボニーが耳にしているところによれば、送り込んだのは王妃アネルザとのことだ。
表向きは、これからのイザベラには、書類仕事のような事務仕事もできる女官が必要ということで、王妃の肝入りで派遣されたそうだ。
まあ、王女を毛嫌いしているはずの王妃が、突然に送り込んだ人材だ。
王女側も気にしているに違いないが、王女の身の回りも含めて、後宮に属する人事権を最終的に握っているのは王妃だ。
王妃にごり押しされては、拒否できなかったと思う。
「王女殿下のご指示で、ちょっと口に入れるものをということで……」
ボニーは頭をさげながら、ヴァージニアに通路を開けた。
ヴァージニアは侍女には属さず、王女付きの官吏になる。単なる侍女のイエンよりも、遥かに格が上になる。
「王女様のご指示? そんなことがあるわけないわ。ちょっとどういうことか説明しなさい──」
ヴァージニアが詰問調で怒鳴った。
ボニーは内心で舌打ちした。
面倒になりそうだ。
どうでもいいが、気の強さが服を着ているような女だと思った。おしゃれの欠片もない外見で目付きも鋭い。
まさに、年増の小姑官吏という感じだ。
ボニーは、ヴァージニアに魅了術をかけた。
「あ、あれ?」
一瞬にして、ヴァージニアが呆けたような顔になる。
「去りなさい。あたしのことは忘れなさい……」
「はい……」
ヴァージニアが何事もなかったかのように、立ち去っていく。
ほっとした。
見ていた者もなかったようだ。
王女の身の回りをわずか十人で世話をしている王女付きの侍女たちは結構忙しい。さっき厨房を覗いたときも、みんな一心不乱に働いていた。
そして、なにごともなく、王女の部屋の前に着く。
ここで間違いないはずだ。
「イエンです。姫様、失礼いたします。果物のお届け物がありましたので、お持ちしました」
イザベラの部屋の前でボニーは言った。
部屋の中からは、「ちょっと待って……」というような声がしたが構わなかった。
いつも身の危険を感じているイザベラ王女は、シャーラ以外の侍女をそばには置かない。
だから、シャーラがいなければ、ひとりしかいないはずである。
部屋に入り込んで魅了の術をかけてしまえば、ボニーの仕事は終わる。
扉を開いて中に入った。
王女はいた……。
なぜか顔が赤いが、机を背にして立ってこっちを睨んでいる。
「な、なんだ、お前は──。わたしの許可なく入るな。それに、わたしはシャーラの持って来たものしか口にせん。忘れたのか」
イザベラが怒鳴った。
だが、なんとなく態度にぎこちないものを感じた。
なんだろう……?
まあいい……。
「忘れてはいませんよ……。あたしの目を見てください……」
ボニーは魅了の術をかけた。
しかし、なぜか手ごたえがない。
いや、跳ね返される……。
あれ──?
焦った。
魅了がかからないのだ……。
なんで?
ボニーは呆気にとられた。
そのとき、突然にイザベラの机の下のスカートから、ひとりの男が飛び出してきた。
「姫様、こいつは刺客だ──。アスカ城から送られたボニーという殺し屋だ──」
男が叫んだ。
なんで、こんなところに男が?
びっくりした。
しかも、すでに、ボニーであることを見抜かれている。
だが、そのときには、その男の体当たりでボニーは壁に弾き飛ばされていた。
「イエンが?」
男が足元から飛び出したために、突き飛ばされて尻もちをつく体勢になっていたイザベラが驚いた顔で立ちあがりながら叫んだ。
「イエンじゃない。ボニーという女の変身だよ。シャーラを呼び戻してください、姫様──。すぐにだ──」
男がボニーとイザベラのあいだに立ちはだかるようにして叫んだ。
それで気がついたが、男は下着一枚の裸だ。
なんだ?
そして、気がついた。
この黒髪……。
風貌……。
もしかして……。
「お、お前、イチ、いや、ロウか? なんで、ここに?」
ボニーは驚いて叫んだ。
「それはこっちのセリフだよ。なんで、ここに殺し屋が来るんだよ? 俺がここにいるのを知っていたのか──?」
ロウが叫び返した。
ボニーはとにかく我に返った。
手筈とは全然違うが、ここでロウを葬ってしまえばすべては終わる。
慌てて、後ろの扉を閉めて、内側から鍵をした。
髪飾りにしている鉄芯の武器を抜く。
だが、ぎょっとした。
ロウが手に短銃を握っていたのだ。
咄嗟に横っ飛びに動いた。
轟音がして、次の瞬間、たったいまボニーがいた場所に銃弾が飛んだ。
「な、なんてやつ──。躊躇いなく撃つなんて──」
ボニーは転がりながら叫んだ。
しかし、この世界の銃はまだ連発はできない。
一発撃てば、二発目はない。
ボニーは飛びかかろうとした。
しかし、ボニーの見ている前で、撃ち終わった銃がロウの手から消滅して、すぐに発射準備の終った新しい銃が手に握られている。
なんの手品だ?
ボニーはびっくりした。
「殺し屋のくせに、撃ち返されたことに驚くのか?」
ロウが引き金を引くのが見えた。
ボニーは咄嗟に王女に向かって跳ぶ。
王女に当たる危険があれば、いくらなんでも撃てないはずだ。
それにしても、淫魔術が遣えるだけの能無しじゃなかったのか……。
なんの躊躇いもなく、人に向かって銃が撃てるなど、尋常な度胸じゃない。
「おっと、どこにいく」
王女に向かって駆けるボニーの顔になにかが投げられた。
「うわっ」
なにかで濡れている小さな布が上手く顔にあたり、視界が塞がれてしまった。
「うぐっ」
その一瞬で体勢が崩れてしまい、もう一度体当たりされた。
身体が吹き飛んで壁に激突する。
ロウだ。
顔を覆っていたものを取る。
女の下着?
なんで?
べっとりと濡れているのは、もしかして、この王女の?
下着を投げ捨てた。
「うわっ、そなた、わたしの下着を……」
「役に立ったよ、姫様」
壁に当たって尻もちをついているボニーの目の前にロウが立つ。
その手には、射撃準備の終った短銃があり、銃口が真っ直ぐに向けられている。ボニーの眉間の目の前だ。
さすがに避けられない。
ボニーの背にさっと冷たいものが走る。
「くっ、なんで……」
ボニーはロウではなく、こっちに険しい表情を向けている王女に向かって魅了を放つ。
しかし、やはり駄目だ……。
効かない。
もう一度、ロウに……。
こっちもだめだ……。
ボニーは泣きそうな気分になった
そのとき、部屋の中心の空間が急に歪んだように思った。
焦った表情のエルフ女が空間の歪みから飛び出してきた。
シャーラだ。
「シャーラ、こいつはボニーだ。もうひとりの刺客のようだ……。俺を追ってきたかもしれないけど、姫様に直接に術をしかけたようにも思えた」
ロウが叫んだ。
それにしても、移動術──?
シャーラは転送術を遣えるのか──?
そんなの聞いてない──。
侍女姿のシャーラは剣を抜いている。
念のために、ボニーはシャーラにも魔道をかけようとした。
だが、跳ね返される。
誰も彼も、まったくボニーの魅了術が効かない……。
万事休すだ。
ボニーは脱力した。
「ロウ様、感謝します……。さて、いろいろと喋ってもらうぞ、お前……。」
シャーラが剣先をボニーに向ける。
すると、ロウが手から銃を消す。
魔道だ……。
唖然としたが、あれはおそらく収納術だろう。
ロウが魔道を遣うというのは、当然に聞いていない。
「姫様、すみません……。とんだ邪魔が入りました。この埋め合わせは、また今度来ますね。次こそ、Gスポットの開発をしましょう。俺の男根に擦られるだけでいい気持ちになれるエッチな身体にしてあげますね」
ロウが笑った。
すると、イザベラが真っ赤になった。
「な、なんの意味かわからんが、多分、とても淫乱な言葉を使っておるだろう。つ、慎みを持て。そ、そんな風に言われるのは好かん」
イザベラが怒鳴った。
だが、赤い顔がさらに赤くなっている。
しかし、改めて見ると、王女はこの世界の上流階級の娘には珍しく、膝上の短いスカートをはいている。
そして、王女はしっかりと両手で裾を押さえてもいた。
そういえば、さっき下着を投げられたが、そのスカートの下は、もしかして……。
まさか、ロウと王女は男女の関係……?
そういえば、ロウは淫魔師だと……。
しかし、王女はまだ十六歳の少女だろう……。
それに比べて、ロウは三十歳を下回っていることもなさそうなおじさんだ。
なんという男だ……。
「シャーラ、訊問は俺の屋敷でやる。なにか仕掛けがある可能性もある。俺の屋敷への入り口を作ってくれ──。ボニーの足元にだ。構わない。そのままやってくれ」
「わかりました、ロウ様……。お願いします。わたしは、この小離宮内を徹底的に調べます。後で向かいます」
そのとき、急に床の感覚がなくなった。
穴──?
考えるいとまもなく、ボニーは足元にできた穴に身体を落としていた。
転送術の出口を足の下に作られたのだとわかったのは、完全に体勢を崩して、身体をどこかの床に叩き付けられてからだ。
そして、風景が変わった。
最初に、目に飛び込んできたのは、男の前に女が跪いている大きな絵画だ。
どこか、ほかの屋敷に転送されてしまったようだ。
「んぐうっ」
大きなものに身体を潰された。
ロウの身体だ。
「うわっ」
「な、なに、なに?」
「ご主人様、どうしたんです?」
周りから声がした。
さっきまでの小離宮とは違うどこかの屋敷の広間だ。
「アスカの刺客のボニーだ。捕まえてきた」
半裸のロウがボニーの身体からどきながら叫んだ。
「ちっ」
とにかく、この機会に逃げよう。
だが、立とうとしてひっくり返ってしまった。
気がつかなかったが、薄い粘性体のようなもので、足首がまとまるように拘束されている。
脚だけじゃなくて、両腕まで胴体に貼りついていた。
なに、これ──?
ボニーは再び床に横倒しにひっくり返ってしまった。
「あんたが、ボニー?」
喉元に細剣の先を突きつけられた。
エリカだ──。
ほかにも女たちが集まって来る。
小柄な女……。
ちょっと背の高い凛とした美女──。
ボニーは魅了を放ちまくった。
この中のひとりでもいいから、魅了が通じてくれれば……。
ボニーは全身を見回す。
だが、駄目だ……。
誰ひとりとして、魅了術が通じない……。
なんで……?
ボニーは本当に泣きそうになった。
どうしたら……?
「おっ、ミランダはどうした?」
ロウが女たちに声をかけている。
「少し前に、逃げるように出ていきました、ご主人様」
小柄な女が笑いながら言った。
ご主人様……?
「とにかく、終わりだ、ボニー。チェックメイトだ──。それとも、まだ奥の手があるのか?」
ロウが言った。
ボニーは完全に諦めた。
任務に失敗した……。
ロウもそうだが、王女の暗殺ももう不可能だ。やる機会があっても、その気はない。
絶望が身体を覆う……。
「こ、降参よ……。奴隷の首輪があるから、自白は無理かもしれないけど、喋ることができれば、なんでも話すわ……」
ボニーは床に転がったまま言った。
「あんたをここに送ったのはアスカ様ね……」
エリカだ。
ボニーは首を横に振った。
「……いや、アスカ様じゃなくて……」
パリスだと口にしようとした。
そのときだった……。
急に目の前が暗くなり、心臓が苦しくなった。
「あっ、あがっ……があっ──」
息ができない。
怖気が全身を包む。
なに、これ……?
なんだ、これは……?
苦しい……。
死ぬ……。
「いかん、死の呪文だ──。もしかしたら、こいつもパリスとかいうやつに、任務に失敗したら死の呪文が発動するように仕掛けられたのかもしれん──」
ロウの声がした。
死の呪文……?
なんだ、それ……?
任務に失敗したから死ぬ……?
そんな馬鹿な……。
「とにかく気絶させろ。大丈夫だ。死の呪文の対処方法はもう知っている」
ロウが言った。
誰かの魔道が飛んできて、激しい苦痛とともに、ボニーの意識をそれが奪ってしまった。