【2025.9.5コミック発売】異世界で淫魔師ハレム【完結】 作:ドン・ドナシアン
ベーナムがいるのは、崖の中腹であり、周囲は林ではなく草だ。
イザベラ王女一行の馬車が近づいているという報には、すでに接している。
イザベラの馬車の警護は騎馬が十数騎であり、前に十騎と後方に五騎ほどのようだ。
報告によれば、中心を進んでいるのは、八人乗りのいつもの王女の馬車であり、その後ろから距離を詰めるようにして、四人乗りの馬車二台が二列に並行してついてきているらしい。
おそらく、イザベラ王女とシャーラは、八人乗りの馬車の中にいるのだと思うが、もしかしたら襲撃者を欺くために、四人乗りの小さな馬車に移動をしている可能性もある。
まあ、どうでもいい。
ベーナムがキシダインから命じられているのは、馬車に乗っている者のすべてを殺すことである。
全員を殺せば、その中にイザベラとシャーラが含まれることになるだけだ。
やがて、馬車の一群が眼下を通過し始めた。
ベーナムは手をあげた。
不意に土と岩が崩れはじめる。
眼下では、警護をしている騎馬から悲鳴のような声があがり、一斉に前後に逃げ始めている。
全速力で駆けだした護衛の騎馬とは反対に、三台の馬車は急制動でその場に停車した。
その馬車に向かって、岩と土砂が襲いかかっていく。
ベーナムの眼には、逃げていった護衛たちのいた付近に土が崩れて、三台の馬車の前後を塞ぐとともに、その馬車に向かって、さらに巨石が次々に落ちていくのが見えた。
まずは、八人乗りの馬車に大きな岩が二個命中して、馬と馬車を完全に押し潰す。
次いで、手前側の四人乗りの馬車も潰れた。
残った一台については、手前の四人乗りが岩で押されるかたちになったため、奥側の四人乗りも岩と土によって、向こう側に流される態勢になったものの、そのままひっくり返ることもなく残った。
ただ、完全に前後を岩と土が塞いでいて、身動きもできない状態になっている。
そのときベーナムは、なにか不自然な違和感を覚えた。
一瞬、それがなにであるのかわからなかったが、すぐに、唯一残っている馬車の馭者が、異様に素早く馬車の向こう側に身を隠したからだとわかった。
ほかの二台の馬車の馭者は、馬車を襲った土砂に埋もれた感じなのに比べれば、馭者とは思えない身のこなしで、こっちから身を隠したのだ。
もしかして、あれは、シャーラ──?
なんとなく思った。
イザベラについている護衛の中で面倒なのは、ただひとりであり、それが侍女長であり、魔道戦士のエルフ女のシャーラだ。
若いが腕も立つし、そこそこは魔道も遣える。
用心深くもあるので、馬車の中にいると見せかけて、馭者に扮するというのは、シャーラがいかにもやりそうなことだ。
いずれにしても、シャーラただひとりだ。
そのエルフ女の魔道戦士さえ倒してしまえば、イザベラ王女など、所詮は十六歳の小娘──。
始末するのは造作もない。
「よし、魔道師たち──。火球を浴びせろ」
ベーナムは別の位置で三箇所に分かれて待機させている魔道士六人に合図をさせた。
最初に火球を浴びせるのはふたつの目的がある。
ひとつは馬車に残っていて、まだ息をしている者がいれば、そのまま炎と煙で焼き殺してしまうことだが、もうひとつは魔道の源である魔力の嵐を馬車の一帯に起こして、向こうで魔道を遣えなくするためだ。
安定した魔力を術者が制御できなければ、万が一にも、移動術などの「移動系」の魔道が発揮する魔道具を向こうで持っていても、それが発動することはない。
魔道戦士でもあるシャーラは移動術は遣えないはずだが、あのシャーラのことだから、逃亡のための魔道具を準備している可能性は高い。
だが、火球はめがける目標付近に魔力の嵐を発生させる効果もあるので、火球を遣えば、しばらくは魔道具による逃亡は不可能になる。
始まった。
人間の頭ほどの火球が、三方向から立て続けに発射される。
山賊に扮しているが、六人のうち三人はキシダインの私兵に含まれる魔道士であり、さらに三人はれっきとした王軍魔道師だ。キシダインの息のかかっている者であり、今日の襲撃に際して、キシダインが参加させたのだ。
いずれも高位魔道士であり、稲妻のような火球が立て続けに馬車に向かって降り注ぐ。
「んっ?」
そのとき、ベーナムは不可思議なものを見た。
最初は目の錯覚かと思った。
だが、やはり錯覚ではない……。
降り注いでいる火球が、ことごとく馬車に命中する直前で見えない壁に突き刺さるように止まってしまっている。
「なんだ?」
思わず声をあげた。
ベーナムの声に、やっと周囲の部下たちも異変に気がついた。
距離は離れているが、六人の魔道士からも、大きな動揺のようなものを感じているのが伝わってくる。
なにしろ、雨あられと発射している火球のすべてが、なにかの大きな力により止められているのだ。
そのときだった。
馬車の直前で阻まれていた火球が、急にまとまって三個の大きな塊になったと思った。
「な、なんだ、あれは──」
叫んだのは身を隠していたベーナムの部下たちだ。
ベーナム自身も悲鳴をあげかけたが、それは轟音にかき消された。
三個の巨大な火球が、一斉に三方向に逆に突き進んだのだ。
そのときの大きな音がベーナムの口から出たものを聞こえなくした。
「うわっ」
「ひいいっ」
「ぎゃああ」
大きな絶叫が三箇所で起こった。
三組に分かれていた魔道士たちがいた一帯だ。
だが、すぐにそこは静寂に包まれ、黒焦げになった林の残骸と肉の焼ける匂いがたち込めるだけになった。
ざわめきが、ほかの場所に隠れている兵たちから一斉に起きた。
魔道士たちがいた場所にいた魔道士と伏兵が消滅している。
彼らが、大きな火球に包まれて、あっという間に灰になってしまったというのは明らかだ。
ベーナムはぞっとした。
すると、眼下の馬車の扉がいきなり開いた。
唯一残っていた四人乗りの馬車だが、落下させた岩と土砂の影響はないようだ。
ベーナムは、そのとき、やっと残っていた馬車を埋もれさせようとしていた土砂が、さっきの火球と同じように直前で止まっていることがわかった。
なぜ……?
思ったのは、強力な結界のようなものが馬車を守っていて、それが土砂や火球を阻んだということだ。
しかし、シャーラがそこまでの魔道遣いであるというのは知らない。
そして、馬車から出てきた人物にベーナムは驚いた。
最初に出て来たのはシャーラであり、次に出てきたのは冒険者風の黒髪の男だったが、三番目に出て来たのは第三神殿のスクルズだったのだ。
唖然とした。
いまや、王都一の魔道遣いだという評判のスクルズがなぜここに……?
しかし、考えている暇はなかった。
周囲を探るように、こっちを見回すように視線をあげていた男が、突然にベーナムのいる方向を指さして、なにかを叫んだように思えたのだ。
そして、目の前の空間が不意に揺れたように思った。
「……あんたが大将ね?」
その空間から小柄な女と、もうひとりの剣を持った女が飛び出してきた。
移動術──?
考えるよりも先に身体が動いていた。
ベーナムは崖下に向かって跳躍し、辛うじて小柄の女が斬りつけてきた短剣を皮一枚で避けることができた。
だが、皮一枚だけは斬られた。
崖の下に向かって落ちながら、切られた首の皮の部分から血が噴き出すのがわかった。
「全員、出よ──。ひとりひとり囲んで殺せ──。皆殺しにするのだ」
なんとか斜面に生えている樹木の枝を掴むことに成功して、崖下の馬車のある場所まで落ちていくことは防げた。
ベーナムは、伏兵たちに一斉に攻撃を命じた。
周辺一帯からわらわらと兵が飛び出す。
枝から地面に降りて、ベーナムも体勢を取り直して見上げた。
改めて見てわかったが、ベーナムを殺しかけた小柄な娘とともに飛び出してきたのは、女騎士のシャングリアだった。
シャングリアといえば、確か、なんとかという冒険者の男に惚れて、押し掛け冒険者になっていたはずだ。あの男嫌いのシャングリアが一介の冒険者の恋に落ちたというのは、王都で知らぬ者のない艶話であり、しかも、その男は結構有名な冒険者パーティーのリーダーだったと思う。
だとしたら、そのパーティーが王女の護衛をしているのか?
しかし、そうだとしても、なぜ、第三神殿のスクルズが?
「皆の者、殺せ――。どの敵でも殺すことに成功した者は報酬を十倍にする――。王女を殺せば五十倍だ――」
ベーナムは叫んだ。兵たちの歓声が起きる。
考えるのはやめだ。
とにかく、全殺しにするだけだ。
しかし、さっきの場所には、十数名が潜んでいたのだが、すでに、シャングリアたちふたりに斬り伏せられていなくなっている。
流石に強い――。
そのふたりの女がベーナムを追いかけるように、斜面を滑り降りてくる。
だが、そのふたりを隠れていた兵が取り囲むようにし、すぐに見えなくなった。
そのとき、別の場所から喧噪が起きるのがわかった。
人が五人、六人と弾け飛んでいる。
なにが起きているのかわからなかったが、目を凝らすと、人が飛んでいる場所に、両手に斧を持った童女がいて振り回しているのだと悟った。
凄まじいの一言だ──。
ひとり、ひとりと人間が飛ぶのではない。
振り回している斧に触れた者が、次々に集団で宙に弾き飛ばされているのだ。
現実とは思えない光景に息を飲むとともに、ベーナムはさらに驚いた。
二本の斧を振り回しているのは、あの冒険者ギルドのミランダだ。
王都随一の女魔道遣いのスクルズ――。
有名なお転婆女騎士のシャングリア――。
冒険者ギルドの副長にして、伝説の
次々に出現する女傑に、ベーナムはさすがに尋常ではないものを感じた。
罠にかけたつもりだったが、まさかとは思うが、罠にかかったのは自分たち──?
そうも思ったが、最早、後には退けない。
ベーナムとしては、襲撃を続行するしかないと思った。
ただ、王女の一行に、スクルズやミランダなどが混じっていたとあっては、後々の影響が大きすぎる。
ベーナムは、とりあえずの一報をキシダインに魔道通信で送ることにした。
届いた感触はあったが、キシダインからの指示はない。
キシダインからは、事前に、特に指示がなければベーナムの裁量で動けと言われている。
基本的に、ほかの貴族たちが周りにいる状況では、自由に魔道通信に応じることは難しいからだ。
ならば、ベーナムとしては、襲撃を続行するだけだ。
腹は決まった。
「なんとしても殺せ──。全員で馬車に向かうのだ──。そこにイザベラがいる。どんな方法でもいい。殺せ──。報酬は五十倍、いや、欲しいままにもらってやる――」
ベーナムは怒鳴った。
すでに隠れていた兵の全員が姿を現している。
狭い隘路一帯にベーナムの部下が溢れていた。
思ったよりも抵抗があるといっても、戦闘らしきものが起きているのは三箇所だけだ。
ひとつは、最初にベーナムに襲い掛かったシャングリアたちのいるところ──。
その戦闘の喧噪は、距離を近づけながら、こっちに少しずつ降りてくる。
そして、ミランダのいる一画。
そこでは、まるでその場所で竜巻でも起きているのかのように、人が次々に宙に飛んでいる。
もうひとつは、真下の馬車のある場所だ。
なにかの結界で守られているという感じは続いていて、大勢のベーナムの部下たちが襲い掛かっているものの、一定の距離で阻まれて近づけないでいる。
そこを屋根に昇っているふたりのエルフ女が矢の速射で倒しまくっている。
ふたりのエルフ女のうち、ひとりはシャーラだが、もうひとりは知らない。
また、スクルズは馬車の前だ。
おそらく、イザベラ王女は、まだ馬車の中なのだろう。
そして、さらに馬車の屋根に登っているエルフ女のあいだに胡坐に座っている黒髪の男がいる。
その男が、再びこっちを見た気がした。
馬車の扉の前に立っていたスクルズが腕を振う。
すると、巨大な火の玉がこっちに向かってくるのがはっきりと見えた。
*
「あそこだ──」
馬車の上に乗っている一郎は、斜面の中腹を指さした。
この丘陵一帯には、キシダインが集めた兵で溢れかえっている。ただ、全員が山賊に扮しており服装や武具もまちまちだ。
これだけ大勢の中から、ベーナムという指揮官を探し出すのは容易ではないが、この集団の中で「獣人」はただひとりだ。
だから、それを目安に見つけようとしているのだが、さすがにそれは難しいと思っていた。
だが、思いのほか、うまくいっている。
一郎が、あの辺にいるのではないかと思って視線と意識を向けると、本当にその中にベーナムという獣人のステータスを持っている存在を見分けることができるのだ。
これも、魔眼保持者としての勘の良さのもたらす恩恵だろうか。
「はい、ロウ様」
次の瞬間、馬車の前に立っているスクルズが再び火炎を轟射した。
丘陵に巨大な炎の砲撃のようなものが突き刺さる。
ロウが指さした場所一帯が黒焦げになって、十数名ほどの人の死骸ができあがる。
もっとも、その中にベーナムがいるかどうかは、すぐにはわからない。
ただ、まだ死んではいないと思った。
勘にすぎないが、そんな気がするのだ。
いずれにしても、またもや、大勢のステータスの海に紛れてわからなくなった。
「スクルズ、もう火炎は打たなくてもいい。この結界を維持することに専念してくれ」
一郎は馬車の上から、下に立っているスクルズに怒鳴った。
なんでもなさそうな表情をしているが、スクルズのステータスを垣間見ると、「魔道力」のみならず、「生命力」の数値までどんどんと枯渇しそうな勢いで減っている。
その証拠に、ただ立っているだけのスクルズの足元には、彼女の身体から滴り落ちる大量の汗で水たまりができるほどだ。
無理もない。
スクルズは、この馬車一帯に結界を張り、厚い空気の層のようなものを作って、近づこうとするものが、それに阻まれて、まるで水の中を進まなければならないような状況に陥らせるような防護壁を作っているのだ。
完全に遮断しないのは、それをすればさらに大きな魔道力が必要とするためだが、馬車の上に乗っているエリカとシャーラの矢まで遮断してしまうことになるからでもある。
とにかく、一郎の左右に立っているふたりのエルフ女が、その状態を利用して、馬車に近づこうとして、急速に動きが鈍る襲撃兵を面白いように射殺している。
いまは、土砂の上に、さらに弓で射抜かれた死骸の山ができあがって、新手が近寄ってこれないほどだ。
いずれにせよ、スクルズは、結界だけでも、かなりの労力を使っているのに、さらに火炎の火球を時折放射するということもやっている。
しかしながら、その威力はすさまじく、放射される火炎の柱に触れる者は、一瞬にして黒焦げの死骸に変わるほどだ。
また、敵兵を一度の放射で減殺する効果もあるが、なによりも心理的な効果が大きい。
一郎の眼にも、スクルズが火炎を出すたびに、眼に見えて敵が動揺するのがよくわかる。
だが、もうやめさせないと、スクルズの体力がもたないと思う。
「はい」
スクルズが元気な声をあげた。
一郎はうなづくと、視線をふたつの喧噪に向ける。
左右の二箇所で、コゼとシャングリア、そして、ミランダがシャーラの移動術で突入するかたちで敵兵の海に飛び込んで暴れている。だが、あの三人はまだまだ体力はありそうだ。
少しでも危なくなれば、すぐにシャーラに回収させるつもりなのだが、いまのところ、その必要はないように思う。
特に、ミランダがすごい。
伝説のシーラランクの冒険者とは聞いていたが、たったひとりで周りに群がる数十名の敵を圧倒している。
ここから見ていると、いまでは、敵も近づきたがらず、なんとか遠巻きに囲んで投げ槍や弓矢で殺そうとしているようだが、ミランダは、巧みに敵の中に入り込んで、遠巻きに自分を攻撃させないようにしている。
だが、それだと、延々と動き続けなければならないと思うが、まだまだ体力に問題はないようだ。
ミランダのいる場所は、捜さなくても、襲撃兵が四人五人と宙に飛んでいるのですぐにわかる。
本当に人のできる技とは思えない。
一方で、コゼとシャングリアは樹木の陰に隠れていて、ここからでは姿を確かめることはできない。
とにかく、あのふたりには、指揮官のベーナムをひたすらに追えと命じている。
この集団もベーナムさえいなくなれば、統制はとれなくなり、四散するような気がする。
「ロウ様、矢──」
興奮したエリカの大声が降ってきた。
見上げると、エリカとシャーラの矢筒が空になりかけている。
一郎は胸の紋章に触れ、あらかじめ準備してあった次の矢筒を亜空間から取り出した。
エリカが空になった矢筒を投げ捨て、それを肩にさげ直す。
「こっちも、お願いします」
シャーラが手を伸ばした。
一郎はシャーラにも新しい矢筒を渡す。
「そっちからまた来たわ、シャーラ」
エリカが声をあげながら、矢を放った。
その矢は二つの方向に分かれて、土砂の山を乗り越えて馬車に飛びつこうとしたふたりの兵の首にそれぞれに突き刺さる。
エリカは二本の矢を同時に射るということをやっているのだ。
矢がふたりに刺さって倒れたときには、エリカはすでに次の二本をつがえている。
四人、六人……八人……。
全部、胸の真ん中か、首の中心を射抜いている。
また、シャーラもまた、反対側からやってくる敵兵を射抜いている。
何度目のかの突撃のような集団での猛撃だったが、またもや追い返した。
新しい死骸が十体ほど増えると、集団が背を見せ始める。
エリカとシャーラは、容赦なく、その背中にどんどんと矢を射抜いている。
とりあえず、馬車に押し寄せていた敵は、土砂の後ろの樹木のところまでさがった。
馬車の周辺は膠着した感じになった。
「エリカ、シャーラ、まだいけるな」
一郎は怒鳴った。
「当り前です」
エリカは返事とともに、さらに矢を放った。
かなり距離のある敵兵が樹木の横で倒れるのが見えた。
シャーラも負けていない。
別の場所の敵兵が倒れる。
それが五人ずつくらい繰り返した。
敵兵がさらに後退していく。
完全にここについては、攻めあぐねている様子だ。
エリカとシャーラもひと息ついている。
一郎は腰にさげていた水筒を口に含むと、立ちあがってエリカの顔に口を寄せて、口移しで水を飲ませた。
エリカが目を白黒させるのがわかった。
「あ、ありがとう……ご、ございます。で、でも、こんなときに……」
顔を離すと、エリカが顔を真っ赤にして言った。
「こんなときだからさ。心配するな。敵が戦意を持って近づけば、俺がわかる。ひと息できるときはしろ」
一郎は再び水を口に含むと、今度はシャーラに口移しで水を飲ませた。
シャーラも喉が渇いていたのだろう。
一郎の与えた水をおいしそうに飲んだ。
「わたしも喉が渇きましたわ、ロウ様」
すると、スクルズが馬車の下から笑いながら言った。
一郎は、ぽんと水筒をスクルズに放った。
「あら、わたしには口づけはしていただけないのですか?」
スクルズが軽口を言った。
「その代わり、今回のお礼に、俺がスクルズの身体を隅々まで洗ってやるよ。それこそ、お尻の穴まで念入りにこの手でな」
一郎は人差し指を出して、くねくねと動かす仕草をした。
スクルズの顔も真っ赤になった。
「ロウ様、下品です」
エリカが横でたしなめる。
一郎は笑った。
そのとき、一郎は膠着していた正面に新しい動きが起こりかけていることに気がついた。
敵全体のうちで、比較的後ろ側にいた集団が、どんどんと前に集まってくるのを感じた。
一郎は感覚を研ぎ澄ます。
やはり、うしろから出てくる集団の先頭付近に、ベーナムという男のステータスが見えた。
さらに、目を凝らすと、黒い武具を身に着けた比較的背の低い男がいる。
その男のステータスが獣人のベーナムと出ている。
「あそこだ。ミランダとコゼに連絡──。動いている集団の先頭付近にベーナムがいる。黒い武具だ。そいつを殺せば、あとは烏合の衆だ。勝手に逃げ出す。あいつを殺せ」
一郎の言葉をスクルズが馬車の中にいるイザベラに告げるのがわかった。
馬車の中で隠れているイザベラには、魔道通信による連絡係をしてもらっていた。
コゼにも、シャングリアにも、ミランダにも、ギルドから提供された魔道通信具を耳に装着させている。
「……ついでだ、姫様──。ベーナムを仕留めた者には、どんなことでも、俺が一日、命令に従ってやると伝えてくれ。早い者勝ちだぞ」
一郎はさらに言った。
スクルズがイザベラに伝え、その直後に、そのスクルズが火炎の柱を斜面に飛ばした。
一郎はびっくりした。
「ス、スクルズ──。火炎はもうなしだと言っただろう」
斜面の一部に火柱があがり、集団の動きが静止した。
だが、ベーナム自体は炎に巻き込まれるのを免れた気配だ。
「でも、ベーナムという者をやっつければ、ロウ様を一日独占できるのでしょう? それは狡いですわ」
スクルズはあっけらかんと言った。
「だけど、もう駄目だ――。ミランダとコゼたちがそこに辿り着きそうだ。今度、火炎を打つと巻き込む」
一郎が諭すように告げると、スクルズは残念そうな仕草をした。
「ロウ様、あれですね。黒い鎧──。遠いけど、ここから狙えないわけじゃないわ」
エリカが声をあげた。
「いえ、わたしが──」
シャーラもほぼ同時に声をあげた。
そして、ふたりの放った矢が、山なりの軌道を描いて、戦場になっている丘陵の上を飛翔し始めた。