【2025.9.5コミック発売】異世界で淫魔師ハレム【完結】 作:ドン・ドナシアン
「黒の武具……」
シャングリアが横で呟くのが聞こえた。
イザベラの声が耳につけている魔道具に入って来て、ベーナムを仕留めれば、ロウを一日好きなようにできると伝えてきた。
コゼは、慌てて動き出しているベーナムの姿を確認しながらほくそ笑んだ。
さすがは、ロウだ。
こんな戦いの中で面白いことを言う。
もちろん、ロウを一日独占できる権利を他人に譲るつもりはない。
コゼは、飛んでくる矢に構わず、前に駆け始めた。
コゼの視線は、しっかりと遠くにいるベーナムを捉えている。
最初にロウに仕留めろと命じられて以来、ひたすらに追い続けてきた敵だ。
なかなかにすばしっこくて、もう少しというところで、何度も逃げられてしまっている。
あれは、コゼがもらう――。
今さら、他の者に獲物を渡しはしない。
敵には少し距離がある。
立ちはだかる無数の敵をシャングリアとともに、ひたすらに排除し続けてきたが、いまや、遠巻きにして矢を射かけるということくらいしかしなくなった。
ひと振りごとに、ひとり、ふたりと息の根を止めていくコゼとシャングリアの前に、大勢の敵がひるんでいるのだ。
しかし、それでも、ベーナムにはまだ剣が届かない。
いま、コゼは敵から奪った剣を持っていた。
最初に持っていた短剣は、すでに刃こぼれで斬れなくなり投げ捨てている。
一方で、シャングリアも五本目の剣になるだろう。
やはり、敵から奪ったものだ。
「わたしがやる」
シャングリアも飛び出してきた。
前を塞ぐかたちになっていた敵の集団が、恐怖に顔を歪めるのがわかった。
敵の数は多いが、決して死にもの狂いで攻撃してくる相手ではない。
それで隙ができている。
「どいてよ、シャングリア」
「どかん。一番手柄をたてて、ロウに褒めてもらうのはわたしだ」
ふたりで斜面を横に駆けた。
前に敵の集団がいたが、左右に割れるかたちになったので、そのまま突破する。
突破する寸前に、剣の届く範囲にいた者を数名斬り倒す。
そのとき、戦場に火炎の直撃が起きた。
スクルズだと思うが、ベーナムは小さく丸まって、魔道の防護膜を自分の前に出すことで、火炎に巻き込まれることを防いだ。
ただ、それで火炎から守れるのはベーナムだけだ。
周囲のほかの者は、炎に包まれて吹き飛んでしまっている。
「火炎を止めて──。もうすぐ、ベーナムに追いつく」
コゼは走りながら叫んだ。
口の中で喋れば、馬車にいるイザベラを通じて、ロウたちに伝わることになっている。
二射目の火炎は飛んでこない。
コゼはシャングリアとともに走った。
ベーナムが大声で周りから兵を集めている。
三十人ほどが集団になったが、ベーナムの指示にも関わらず集まって来ない者も多いようだ。
コゼは、その集団の中に飛び込んだ。
瞬時に四人を倒す。
横では、シャングリアがふたり斬っている。
ベーナム──。
やっと顔が見えた。
懸命になにかを叫んでいた。
それは、味方に指示を出しているというよりは、コゼと同じように口の中にある魔道具で、どこかに魔道通信をしているように感じた。
相手はキシダインだろうか──。
コゼとシャングリアは完全に敵の群れの中にいた。
シャングリアの肩に敵の剣が掠って血が吹き出た。
しかし、シャングリアは何事もなかったかのように、さらに前に出る。
コゼも向かってくる敵をかわして腕を取り、その相手の剣で隣の男の腹を刺させる。その男についても剣で喉を掻き切った。
シャングリアとコゼのあいだに誰もいなくなり、ぴたりと横に着くことができた。
ベーナムとの距離は、ほんの少し──。
もう、五人ほどがあいだにいるだけだ。
シャングリアが雄叫びをあげながら、くるりと反転した。
次の瞬間、後ろから刺そうとしていた敵兵が血飛沫をあげて崩れ落ちた。
「キシダイン卿、キシダイン卿──。こ、このままでは……」
ベーナムはまだなにかをどこかに報告し続けていた。
おそらく、指示を乞いたいのだろう。
そのベーナムが顔をあげた。
ベーナムと視線が合う。
慌てたように、ベーナムが逃げ出そうとする。
「待て、お前の首が所望だ。一騎打ちをしろ──」
シャングリアだ。
「なにが、一騎打ちよ。あたしの獲物よ──」
コゼは剣を振り回しながら叫んだ。
そのとき、反対側から喧噪がやって来た。
ミランダ――。
怪力無双のミランダが二本の斧を振り回しながら、猛然とやって来る。
全身が血で真っ赤だ。
どうやら、全部返り血のようだ。
ベーナムが意を決したように剣を構えた。
そのとき矢が飛んで来て、ベーナムの首に正確に二本突き刺さった。
コゼは動きの止まったベーナムに体当たりするように腹に剣を突き立てた。
ベーナムが後ろに倒れていく。
さらにミランダが跳躍してきて、ベーナムの首を両断した。
「ベーナムは死んだ。お前たち、いつまで戦うつもりだ──。お前たちの雇い主は死んだぞ。これから先は、ただ働きだ。もうお前たちに給金を払ってくれる者はいないぞ──」
シャングリアが転がったベーナムの首に剣を突き立てて宙にかざすと、大声で叫んだ。
丘陵にざわめきが拡がっていく。
すぐに周囲から敵兵がいなくなった。
さらに、大勢の敵の潰走が始まる。
コゼたちの周りからは完全に敵がいなくなった。
百……、あるいは二百はあるかもしれないくらいの数の屍体が残された。
「終わったわね」
ミランダがほっとした表情になって、その場に座り込んだ。
コゼとシャングリアもその横に腰をおろす。
「ご主人様、終わりました。あたしがベーナムに致命傷を負わせて倒しました。敵は逃げていきます」
コゼは魔道通信で送った。
「ちょ、ちょっと待ってよ。ベーナムの首を落としたのはあたしよ。あんた、自分の手柄と伝えたのね」
するとミランダが声をあげた。
「だって、本当じゃないですか、ミランダ。あたしの剣が腹を刺したんです。それで倒れていったんですから、あたしの手柄ですよ。ご主人様のご褒美はあたしのものです」
コゼははっきりと言った。
「……だけど、致命傷というなら、最初に飛んできた矢じゃないのか? あれはエリカとシャーラが射たものだと思うぞ」
シャングリアが口を挟んできた。
コゼは舌打ちした。
「そんなの言わなきゃわかんないわよ……。というよりも、あんなのは掠っただけじゃないのよ」
コゼは言った。
すると、ミランダが笑いだした。
「だったら、ロウを従わせる権利をあたしとシャングリアにも分けなさい。そうすれば、コゼが一番手柄だということを認めてあげるわ。さもないと、エリカに言うわよ。あの娘も地味に面倒だから、自分の矢がベーナムの動きを止めたことを知れば、強硬に自分の手柄を主張すると思うわよ」
ミランダだ。
コゼは嘆息した。
「わ、わかりましたよ。その代わり、半日はあたしがご主人様を独占しますよ。残りの半分をおふたりで分けてください」
コゼは仕方なく言った。
「それで、手を打ちましょう」
ミランダがにやりと微笑んだ。
コゼは、シャングリアの肩を治療するために、そばの死体の服を引き裂いて布を作った。
「だけど、やっぱりミランダもロウを独占する権利が欲しいのだな。確かにじっとくっついていられるだけで、幸せな気持ちになるしな」
シャングリアがコゼに肩の治療をしてもらいながら笑った。
大した傷じゃない。とりあえず、応急処置をして、あとはロウにでも、ゆっくりと治してもらえばいいだろう。
「なに言ってんのよ。あたしの望みはあんたらとは違うわよ。あの変態男に何でも従わせることができるんでしょう――。その権利で剃毛なんて、あほうげたことを諦めさせるのよ――」
ミランダが真っ赤な顔になって怒鳴った。
どうでもいいけど、ミランダは上から下まで血で真っ赤なのだ。その顔で照れると、不気味というほかない。
コゼは笑ってしまった。
「ミランダはそんなに、剃毛が嫌なのか?」
シャングリアが不思議そうに訊ねた。
「あ、当たり前よ。ドワフ族のあそこの毛を剃るなんて、全ドワフ族に対する冒涜よ――。あんたらは嫌じゃないの? 一緒に抗議しましょうよ」
ミランダが叫んだ。
ああ、あのことかと思った。
まだ、引きずっていたのか……。
「えっ、わたしらか? 他の者は知らんが、確かにあそこの毛をロウに剃られるなど恥ずかしいけど、あんなにロウがそれをしたがるなんて、ちょっとロウが可愛く思ったな。わたしは剃られるつもりだ。性奴隷の証だというし、そもそも、エリカは毎日やってるしな」
シャングリアのあっけらかんとした言葉に、ミランダが唖然とした顔になる。
「あたしも、ご主人様にやってもらうわ。むしろ愉しみよ」
コゼも言った。
最初に会ったとき、コゼの股間には一本の毛もなかった。かつて、厠女と蔑まれていた時代に、連中に悪戯で剃られ、毛の生えないように毛穴を殺されて、ずっと無毛だったのだ。
そのコゼの下腹部をロウは不思議な力で戻し、コゼの処女を奪うのだと言って犯して復活した処女膜を破り、死んでいたはずの陰毛も戻してしまった。
それはロウの優しさだ。
コゼは大きく息を吸った。
以前はあの時代のことを考えるだけで、発作のように呼吸が苦しくなった。
大丈夫だ。
いまは、幸せが遥かに上回るので、つらいことを思い出しても、笑顔でいられる。
ロウのおかげだ。
コゼに人生をくれたロウ……。
そのロウに、あそこの毛を剃ってもらう……。
それは、コゼにとっては、厠女の記憶とともに、過去を完全に捨て去る儀式にしようと思っている。
もう思い出すこともない。
思い出しても大丈夫……。
「た、愉しみ? 嘘でしょう、コゼ?」
ミランダが目を丸くした。
「本当よ。愉しみ。さて、終わったわよ、シャングリア。じゃあ、話を合わせようね。三人でとどめを刺した。でも、一番手柄はあたしよ」
コゼは立ちあがった。
シャングリアとミランダが頷き、それぞれに少しだるそうに身体を立ちあがらせた。
*
「終わったな」
一郎は馬車の上で立ちあがると、両手をふたりのエルフ女のお尻にやって、揉むように動かした。
「あん」
「あっ」
ふたりが可愛らしい声を出して、もじもじと身体を動かす。
だが、一郎の悪戯から逃げようという素振りはない。
「ロウ、みんなもありがとう──。なんと礼を言っていいか」
そのとき、イザベラが馬車から飛び出すように出て来た。
なにがあっても、馬車から顔を出すなと命じていたイザベラは、みんなが戦っているあいだ、さぞや馬車の中でやきもきしたことだろう。
イザベラの心には、仲間に対する申し訳ないという心と感謝の気持ちで満ち溢れていた。
「だったら、お礼はかたちのあるもので返してください。また、仲間内のパーティをしましよう。みんなに、美味しいものを振る舞ってくださいね」
一郎は笑って言った。
そして、やっとエルフ女たちのお尻から手を離して、馬車の屋根から下りていく。
エリカたちもそれに続く。
「ロウ様、では、わたしは、これで立ち去らせていただきます。もうすぐ、王軍の一隊がやって来るのでしょう? これでも聖職者ですから、不殺の誓いを破ったことを知られるわけにはいかないのです」
一郎が地面に降りてくると、スクルズが小さく頭をさげた。
「不殺の誓い?」
一郎はそれはなんだと訊ねた。
すると、スクルズは、聖職者にある者は無暗に人を殺めないという誓いがあり、自分から好んで戦場に出てくるなど、聖職者資格を剥奪されるほどの禁忌だと説明した。
一郎は知らなかったから、びっくりしてしまった。
やっぱりそんな戒律があったのだ。
だから、スクルズを戦いの場から外そうとまで思った。
それにも関わらず、襲われることがわかっている馬車に乗り込んできたのはスクルズだ。
とにかく、一郎は詫びの言葉をスクルズに告げた。
「……それは、ロウ様が謝ることではありません。そんなつもりで言ったのではないのですから……。もちろん、これからも同じようなことがあれば、わたしはロウ様やそのお仲間の“矛”にもなり、“盾”にもなってみせます。ご心配なさらずに」
スクルズはにっこりと微笑んだ。
その屈託のない表情には、一郎も苦笑するしかない。
「でも、神様に叱られるんじゃないですか?」
一郎はうそぶいた。
「もちろん、全身全霊で神にもお仕えしますが、同じようにロウ様にもお仕えするつもりです。なにしろ、わたしの命はロウ様に救われたのですから」
スクルズは笑って言った。
そして、魔道で移動術の出口を作り、その中に消えていった。
一郎は、その背中に感謝の言葉をもう一度告げた。
「さて、じゃあ、エリカ、俺たちも去るぞ。コゼも連れていく。なにしろ、そういえば、ギルドの記録では、俺とエリカは死んだということになっているしな。これ以上は目立ちたくない。シャングリアは置いていく。有名人だしな。ミランダとともに、ここでキシダインの私兵から襲われたと、姫様とともに王軍に証言してくれ」
一郎は戦場を眺めて言った。
丘陵には襲撃兵たちが遺棄した屍骸がたくさん転がっている。
調べれば、彼らの多くがキシダインの私兵であることは、さすがにわかるはずだ。
また、一郎の手筈通りに進めたのであれば、アネルザとベルズは、キシダインを拘束して動かぬ証拠を掴むために、ベーナムからキシダインに送られた魔道通信を横取りするように処置していると思う。
しかも、一郎はベルズに、キシダインあての魔道通信を模擬演習を予定している会場全部に、そのまま流してしまえと指示していた。
ベーナムについては、コゼがとどめを刺したと連絡を受けているが、それまでのあいだ、かなりの魔道通信をどこかに送ったというのは確かのはずだ。
今度こそ、言い逃れはできないと一郎は確信している。
「ご主人様ああ──」
声がした。
斜面をおりてきながら、コゼが元気そうに手を振っている。
横には、シャングリアとミランダもいるが、三人とも返り血がすごい。
それだけ、激しく戦ったという証拠だろう。
「じゃあ、コゼが到着したら、俺とエリカとコゼをキシダイン邸に送ってくれ。キシダインについては、アネルザが拘束していると思うが、すぐに救い出さないと、キシダインがアン殿を殺すように、屋敷に指示を与える可能性もある。その前に屋敷から連れ出す」
一郎はシャーラに声をかけた。
シャーラが「わかりました」と頷いた。
アンとその侍女のノヴァ救出については、このまま、一郎とコゼとエリカの三人でやる手筈になっていた。
自分の妻のアンが屋敷から逃亡できないように、キシダインが二重、三重の操心術をアンにかけており、それを解くためには、どうしても一郎の淫魔術が必要そうなのだ。
最初は、スクルズに解いてもらおうかと考えもしたが、あのキシダインは魔道に関しては十分に備えており、スクルズの魔道でも救出は不可能ではないかもしれないものの、時間がかかりそうな感じなのだ。
それほどの時間をかけるわけにはいかない。
一郎が淫魔術をアンに施すことには、アネルザも了解している。
「ロウ、アン姉様を頼む。アン姉様は本当に優しい人なのだ。その姉様がキシダインにそんな目に遭わせられていたなど、わたしには許せん。なんとしても、姉のアンをお救いしてくれ」
「任せてください、姫様。もちろん、優しくしますよ。アン王女も、姫様に負けず劣らずの美人だそうですしね」
一郎はにっこりと微笑んだ。
*
アネルザの嘲笑うような声が天幕に響き渡った。
キシダインは項垂れたままでいた。
「お前の部下による襲撃は失敗したようだな。ベーナムだったか……。悲鳴のように、お前の名を呼び続けておったな。何百人で襲撃したか知らんが、あの感じだと数名の護りしかいないイザベラを殺し損なったようだな。存外にお前の手兵も情けない」
「わ、私の兵というわけでは……」
キシダインは俯いたまま言った。
頭の中では必死に、この場を取り繕う方策を考える続けていた。
だが、よりにもよって、キシダインの手兵を率いるベーナムが、キシダインに逐一襲撃の状況を報告する魔道通信を会場中に流されてしまったのだ。
集まっている貴族どころか、見物の民衆でさえも耳にしている。
言い訳のしようがないというのが現実だ。
「ああそうか。まあいい。いますでに王軍が現場に向かっておる。おそらく、屍体もあるだろう。手兵を調べれば、なんでもわかる。ベーナムという男はお前と話すための魔道具を保持しているはずだ。そもそも、今回は王女一行という証人にもおる。今度こそ、逃げおおせると思わんことだな」
笑うのをやめたアネルザが冷たい表情で言った。
その顔には明らかな憎悪と侮蔑が浮かんでいる。
キシダインはぞっとした。
ただの王妃だが、ルードルフがかなりの政務をアネルザに押し付けて丸投げするので、いまや、アネルザの権威は国王そのもののように大きい。
そのアネルザにここまで憎まれては、もはや、かなりの貴族がキシダインから離れるに違いない。
そのとき、幕舎の中に誰かが入ってきた。
この王軍大演習の差配をしている小役人のひとりだ。キシダインに侮蔑の表情をちらりと向けるとともに、アネルザに近づいて小声でなにかを報告する。
アネルザが頷き、その役人を戻らせる。
「キシダイン、今日の観閲への王の謁見は中止になった。王女襲撃の報が届いてな。それで、急遽取りやめることになった。しかし、演習そのものは実施だ。集まっている観客もおるしな」
キシダインがは顔をあげた。
もう王の耳に入ったのか?
打つ手が速い……。
内心で舌打ちした。
これは、すっかりと準備がしてあったに違いない。
そもそも、さもなければ、ベーナムからキシダインへの報告を横取りして、会場中に流すなどということができるわけがない。
誰の知恵だ……?
アネルザがこんな策を思いつくとも思えない。
イザベラでもないだろう。
シャーラか……?
しかし、シャーラにはそんな影響力など……。
誰だ……。
誰か大物がキシダインを裏切ったのか?
キシダインは必死に、この策を考えることができて、自分に敵対するだろう相手を思い浮かべようとした。
「……聞こえんのか、キシダイン──」
そのとき、アネルザの苛立った怒鳴り声がした。
キシダインは顔をあげた。
どうやら、なにかを話しかけられていたようだ。
思念に夢中で聞いていなかった。
だが、いつの間にか幕舎の隅にいた屈強な兵たち数名に周りを囲まれていた。
そして、両側を挟み込まれる。
「な、なんだ?」
キシダインは声をあげた。
「アンのことだ──。わたしがどれだけ腹が煮え返っていると思うかと訊ねておるだろう──。もういい──。始めよ──」
首に縄がかけられた。
びっくりして手で縄を掴もうとしたが、すでにしっかりと縄がかかって指も入らない。
呆気にとられているあいだに、強引に椅子から立たされて、身体を前後左右から持ちあげられた。
足が地面から離れる。
「んぐうっ、んがあっ」
左右から縄が引っ張られて、じわじわと絞められ出した。
キシダインは恐怖した。
殺される──。
目の前にいるアネルザが殺意の塊のような表情で首を絞められていくキシダインを見ている。
「がっ、だ、だずげ……」
助けて……。
そう言おうとしたが、言葉にならない。
わざとゆっくりと縄を引っ張っているのだろう。
しかし、確実に首が絞まっていく。
「助けてと言おうとしたのか、キシダイン? お前に殺された者たちも、同じように思っただろうよ。死んで詫びて来い」
アネルザが冷酷に言い放った。
そのとき、幕舎にどやどやよ王軍の兵の一団が入って来るのが見えた。
身体が離されて、首に掛かっていた縄が外される。
キシダインはその場にへたり込んでしまった。
気がつくと、股間が冷たかった。
キシダインは自分が失禁をしてしまったことがわかった。
入ってきた兵がキシダインを取り囲んだ。
驚いたことに、手首に手枷をかけられた。
その手枷を繋げている鎖の部分に引き縄がかけられる。
愕然とした。
ハロルド公である自分をこのように普通の罪人同様に扱うとは──。
「みっともなく小便を洩らしたズボンのまま、歩かされるのは気の毒だ。脱がしてやれ。替えのズボンはないがな」
アネルザが高笑いした。
キシダインは耳を疑った。
「や、やめんか――。お、俺を誰だと――。や、やめてくれっ、うわっ」
だが、兵が集まり、あっという間に、キシダインからズボンを奪い取ってしまう。
キシダインは下半身を下着姿にされてしまう。
「わたしも仮にも女だからな。陰部をさらけ出させよとまでは命じられんわ。慈悲だ。下着は許してやろう。恥を晒しながら檻車まで進むがいい」
檻車?
そんなものまで準備してあるのか?
やはり、これは完全に仕掛けられてしまったのだ。キシダインは悟った。
「キシダイン、あのままくびり殺してもよかったが、まだ首は残しておいてやろう。どうせ、すぐに離れるがな。一応は裁きもあるだろうし。まあ、形式的なものだ。お前の処刑など、もう決まっておる」
「ま、待ってください、王妃──。話を……」
「連れていけ──」
キシダインは我に返って釈明をしようとしたが、そのときには、アネルザはキシダインの興味を失ったかのように、幕舎を出ていってしまった。
そして、キシダインもまた、兵に囲まれたまま、幕舎の外に連れ出された。
無礼千万にも──。
(第33話『ダドリー峡谷事件』終わり、第34話『囚われの王女救出と王妃の忠告』に続く)