【2025.9.5コミック発売】異世界で淫魔師ハレム【完結】 作:ドン・ドナシアン
陽が昇るのを待ち、アリアはほかの三人と性奴隷仲間とともに、イットがいる幌馬車までやって来た。
別れをするという名目のためだ。
もっとも、アンドレの奴隷になったばかりのほかの三人と、アリアの心中にあるものは、まったく異なるものがあるだろう。
三人は、全員まとめてカロリック公国で、アンドレに買われたばかりの新人であり、やはり獣人であるイットには、見えない壁のようなものがある。
カロリックは特に獣人差別が激しい土地柄であり、はっきりとは口にしないが、同じ奴隷であっても……、いや、同じ奴隷であるからこそ、さらに獣人であるイットを蔑み、下等な存在と見なす態度が垣間見える。
かつてのアリアがそうだったように……。
イットとの別れといっても、三人が寂しさのような感情を持つことはない。
ただ、命じられたから来ているだけだ。
それは、昨日の死霊体の襲撃でイットがいなければ、全員が死んでいたに間違いがないという事実があっても変わらない。
だが、アリアは別だ。
イットはアリアにとって、心の恩人だ。
二年前、奴隷になったばかりのアリアをときに励まし、ときに叱咤し、そして、生き抜く強さを導いてくれたのはイットだ。
彼女がいなければ、とうの昔にアリアの心は死に、生きながら死んでいるだけの存在になっていたと思う。
イットに教えられた、決して希望を捨ててはならない、そのためには食べれるときには食べなければならないという教えは、いまでも、アリアの宝物だ。
だから、イットと別れなければならないかもしれないというのは、心の底から悲しかった。
イットは首を隠すような襟のついた、スカート丈の短い可愛らしい柄の服を着ていた。
女の子らしい服のイットなど初めてだ。
その姿を見ただけで、アリアはイットが新しいご主人様に大切にされているのだなと思った。
別れがしたいと告げると、イットの新しいご主人様は、呆気なく許可をくれて、アリアたちとイットだけにしてくれた。
アリアは、泣きそうになるくらいに残念だった。
でも、泣くのは許されていない。
「命令」なのだ。
イットが完全に罠にかかるまで、いかなる手段を用いても、絶対に不審に思われてはならないし、成功させなければならない。
できれば、イットに怪しさを気がついて欲しかったが、イットにはまったく、そんな素振りはない。
いまも、あの馬車から少し離れた繁みの中に案内をするアリアたちを疑うことなく、ついてくる。
アリアは、大好きなイットを陥れる役割を与えるアンドレという「ご主人様」を恨めしく思った。
「突然のことになったけど……。お別れだね、アリア……。みんなも、お元気で……」
林の中に入っていくと、イットが溜息交じりに言った。
アリアは、怪訝に思った。
イットが、とても疲れているように見えたからだ。
アリアの知る限り、イットは信じられないくらいに体力があって、疲労困憊になどなったことはない。
アンドレが面白半分のように激しく抱くときにも、敏感なイットは、行為の最中でこそ、繰り返し気をやったりしてぐったりとなるが、とにかく、回復力がすごい。
終われば、あっという間に元気になる。
それが獣人族というものなのだろう。
でも、いまのイットは、とても気だるそうだ。
こんなに疲れたような様子を示しているのは、昨日の死霊体の襲撃に襲われた直後くらいじゃないだろうか。
それを思い出して、またもや、アリアの心にふつふつと怒りが沸いてきた。
あのアンドレは、アリアの大切な仲間のイットを「死ぬまで戦え」という命令で見殺しにしようとしたのだ。
イットの戦闘能力はものすごい。
だけど、このイットは、実はあらゆる治療薬、治療魔道を受けつけないという不思議な体質なのだ。
傷を負えば、イット自身の自然快復力でなければ、負傷は癒えることはないし、そもそも、奴隷のイットに、高価な治療薬を使うということなどあり得ないかもしれない。
だが、あのときのアンドレの魂胆は明白だ。
一日経てば、姿を消すという
それは、アリアたちの扱いについても同じだ。
アンドレは、死霊体の攻撃を防ぐために、戦うこともできないアリアの仲間たちを盾にした。
馬車を並べて急遽作った防壁からやって来ようとする死霊体に対し、女奴隷たちにそいつらを棒で押し返す役目を与えたのだ。
死霊体に噛まれれば、死霊の呪いに感染する危険もある。
それを知っていて、少しでも自分たちの体力を温存するために、ほかの仲間についても、イット同様に時間稼ぎの道具にしようとしたということだ。
それが奴隷というものだということはわかっているが、納得はいかない。
確かに、アンドレの奴隷扱いは、カロリック内の一般的な奴隷に比べれば、破格というほどの扱いには違いないが、でも、大切な仲間を見捨てて殺そうとしたということについては、どうしても恨みが残っている。
結局、イットは、馬を隠す役目を命じられたアリアが、偶然に出会った冒険者たちに救出された。
だが、死霊体がいなくなってからも、呪いに侵されたイットを、アンドレはあっさりと見殺しにして、抵抗を封じる命令を与えるとともに、処分しようとした。
アリアは、その場面に遭遇しなかったが、それを訊いて唖然とした。
心の冷たい「主人」だとは思っていたが、それほどとは思わなかったのだ。
いずれにしても、イットはその冒険者に引き取られた。
とても綺麗な女の人ばかりを連れている冒険者の人で、自分ならイットを助けられると言ったそうだ。
そして、目の前のイットは、昨日の負傷など、嘘のようになくなっている。
それどころか、服の外に見える場所にあった肌の小さな古傷までも、完全に消滅している。
いったい、どんな方法を使ったのだろう?
まあ、なんにしても、イットは別の人の持ち物になったのだ。
友達だったから別れるのは寂しいが、今度こそ、いい人に巡り合ったのだと思えば、嬉しくもある。
だが、そのイットを、アリアは裏切ろうとしている。
アンドレの命令によって……。
「あ、あのね、イット……」
アリアは、なんとか、本当のことを伝えようとしてみたが、やはり、だめだった。
心とは裏腹に、イットを疑わせないために、別れの言葉などを語っている。
ほかの三人と同じだ。
しかし、そのあいだにも、アリアたちが立っている場所の地面からは、無色無臭の催眠煙が沸き続けている。
アリアたちは事前に中和剤をもらっているが、幻覚剤の一種だ。この煙を嗅ぎ続けると、少しのあいだ、思考力を失ってしまい、誰のいうことでも素直に従ってしまうというものらしい。
この煙が罠だ。
やっているのは、アンドレの腹心のグラフであり、アリアたちの役目は、イットを誘きだして、少しのあいだこの煙を嗅がせることだ。
魔道に抵抗力があるイットだが、ここに来るまでに、グラフが得意そうに語った話によれば、この催眠薬は、イットをもう一度奴隷にするために、アンドレが持っていたものであり、魔道的なものではなく薬草なので、イットにも効果があることは、すでに何度も確かめているのだという。
つまりは、アンドレとグラフは、譲ったはずのイットをもう一度取り返そうとしているということのようだ。
不正な手段をもって……。
アンドレもそうだが、このグラフも、アリアたちの前では、悪だくみを隠そうとしない。
「命令」で絶対に喋らないようにさせることができるからだ。
「そろそろ、いいだろうな。よくやったぞ、お前たち」
周りを囲んでいる繁みの一角から、グラフが現れた。もうひとりのエルフ族の男も一緒だ。
エルフ男は、アンドレの部下が近くのエルフの里から連れてきた隷属魔道が遣える者らしい。
そして、グラフはにやにやしている。
アリアは、改めてイットに目をやった。
ここでいきなり出現したグラフに対して、イットはまったく動じる様子はない。
ぼんやりとしている。
また、アリアたちも、なにもできない。
アンドレから、このグラフには絶対服従と命令を重ね掛けされている。
グラフにも逆らうことは不可能だ。
アリアは歯噛みした。
催眠煙がすでに、イットに効いているのは明らかだ。
「ほほう……。本当に奴隷から解放されていたみたいだな。首輪が消えている。それとも、あいつのほかの奴隷たちと同様に紋章奴隷か? まあ、確認してもらえばわかるか」
グラフが朦朧としているイットの首に手を伸ばして、イットが身につけていた服の首の部分を掴んで、そこを強引にくつろげるように拡げた。
イットは首が隠れるような服を着ていたので、確認できなかったが、確かにイットの首から奴隷の首輪が消えている。
これも、グラフが喋ったことだが、イットは奴隷から解放されていると言っていた。
よくわからないが、イットを譲られたあのロウとかいう人は、イットに奴隷のまま奉仕されるのは、気が進まないという気持ちになったようだ。
まあ、グラフが語ったことなので、真実かどうかは知らないが……。
いずれにしても、確かに、イットの首からは奴隷の首輪はなくなっている……。
「まあいい……。これを使えばわかる。奴隷の解放がなされていないなら、新しい首輪は受けつけない。だが、もしも、あの男が簡単に奴隷を解放してしまうような馬鹿なら……」
グラフがイットの首に首輪を嵌めた。
アリアは、はっとした。
新しい奴隷の首輪だ。
だが、イットは逃げない。
いや、薬煙の影響で逃げられないのだ──。
そして、もしも、本当に、いま奴隷状態になく、さらに、あの首輪を嵌められた状態で、“奴隷を受け入れる”という言葉を告げれば、奴隷状態が復活してしまう。
グラフの奴隷としてだが……。
「じゃあ、頼むぜ」
グラフがエルフ男を見た。
エルフ男が頷き、イットの前に出る。
「奴隷を受け入れよ、獣人」
「……受け入れます……」
朦朧としている表情だが、イットははっきりとそう応じた。
アリアは絶望的な気持ちになった。
「隷属が刻まれたようだ」
エルフ男が言った。
グラフがにやりと微笑む。
「なるほど、本当に解放されていたのだな。つまりは、いまは、お前の支配をする者は空っぽということだ。あいつも、馬鹿な男だな。そんなことをしなければ、奪った奴隷を簡単に奪い返されることはないだろうに……」
グラフがくすくすと笑った。
そして、口を開く。
「俺の支配を受け入れろ。この仕事が終わったら、可愛がってやろう。お前については、俺に駄賃として引き渡すことに、アンドレ様も同意しているのだ」
グラフが言った。
「……はい、ご主人様……」
すると、虚ろな視線のままのイットが呟いた。
「ああ、イット、ごめんなさい──」
イットの再奴隷化に成功したことで、与えられていた「命令」が解除されたのだ。
アリアは、心からの謝罪の言葉を叫んだ。
心に絶望と悔悟が走った。
しかし、そのとき、エルフ男が急に不審げな表情になったと思った。
「待ってくれ……。なにか、おかしいな……。もしかしたら、なにかの偽騙魔道がかけられてるか?」
そして、エルフ男が呟いた。
グラフが不審な表情をする。
「ああ? まさか失敗したのか?」
「い、いや、ちゃんと奴隷の刻みは成功したと思うのだが、なにか違和感が……」
エルフ男はしきりに首を傾げている。
どうしたのだろう?
「ちっ、頼りねえなあ。まあ、最悪、隷属だけかかってれば、アンドレ様の石で無力化できるからいいんだが、とりあえず、確認するか……。まずは、襟で首輪を隠せ」
「はい」
イットが襟で首輪を見えなくする。
「じゃあ、試してみるか。ついでに、さっそく味見でもするかな……。イット、命令だ……。スカートを捲れ。俺のすることに対して、一切の抵抗を禁じる。大人しく受け入れるんだ」
グラフが下衆めいた笑顔を浮かべた。
ぎょっとした。
だが、イットが、無表情のまま、すっと両手をスカートの裾に伸ばす。
すぐに、手を伸ばしてやめさせようと思ったが、まだ、グラフの「命令」が邪魔をしている。彼のやろうとしていることを阻止する行動ができない。
イットがスカートを持ちあげて、下着を露わにした。
「なんだ、問題ないじゃねえか。脅かしやがる」
グラフがほっとしたように相好を崩した。
そのときだった。
不意に草むらに誰かが近づく気配がしたのだ。
「誰か近づきます」
とっさに、アリアは言った。
グラフが舌打ちをするのが聞こえた。
グラフがイットに与えていた命令を解除し、それを受けたイットがスカートを掴んでいた手を離したのとほぼ同時に、草を払うようにして、ひとりのエルフ美女が現われた。
確か、エリカという名だったような……。
「イット、なにしてんの? それに、あんたたちは、なによ──? イットが仲間の奴隷女たちと別れの挨拶をしているんじゃないの?」
そのエリカがグラフを認めて、声をあげた。
「もちろん、俺たちはこの四人の護衛だ。それよりも、今日は、ご主人様の命令でスカートを短くしなくていいのかよ。下着をちらちらさせながら歩かないと、お前のところのご主人様に、叱られねえのか?」
グラフが声をあげて笑った。
昨日の夕方、彼女がやって来たとき、スカート丈を恐ろしく短くしてやって来た。
そのことをからかっているのだと思った。
「う、うるさいわねえ──。あんたに、関係ないでしょう」
エリカが怒鳴った。
その顔は真っ赤だ。
「まあいい。俺をお前のところの主人のところに連れていけ。アンドレ様から伝言を預かっている。大切な用事だ」
「大切な用事? なによ、それ?」
エリカが怪訝そうな顔をする。
「奴隷女に説明する必要はねえ。さっさと、連れていけ」
グラフがエリカを馬鹿にしたように言った。
エリカは嫌悪感たっぷりの表情で、グラフを睨んだ。
*
嫌な顔だな。
一郎は、小さなテーブルを挟んだ椅子に腰かけているアンドレを見て思った。
アンドレに呼び出されてやって来た、彼の馬車の中だ。
一郎たちと同じような幌馬車であり、馬車の中は書類を入れてあるらしい箱が数個と、小さなテーブルとそれを挟むソファだ。
奥には、衝立があり、その向こうに馬車の左右の壁いっぱいの広さの寝台がある。
そこで、奴隷女を毎夜抱くのが、この男の習慣なのだそうだ。
まあ、そういう意味では、この男の好色さは、一郎と似ていると言っていい。
女奴隷の扱いが冷たいのと、一郎を嵌めて、エリカたちを横取りしようとしさえしなければ、別にこちらから仕返しなどしないのだがな……。
とにかく、ここに一郎がいるのは、こいつに呼び出されたからだ。
イットの譲渡の手続きだ――。
馬車にやって来たこいつの使者……名はグラフという男だが……そいつに呼び出されたのだ。
今朝方、目の前のグラフが一郎の馬車までやって来たときに、告げた口上がそれだったのだ。
だから、全員と一緒にここにやって来たというわけだ。
もっとも、アンドレの移動事務所を兼ねている馬車の中に入ったのは、一郎ひとりだ。
女たちは、一応、馬車の外で待機するということになっている。
馬車に入るとき、ミウがそばまでやって来て「馬車に防音の結界が張られています」とそっと告げた。
どうやら、一郎が馬車に入ったら、外の様子を室内に知られることがないようにというアンドレの処置らしい。
好都合なので、一郎はそのまま、防音の結界を保持させておけと指示してきた。
また、馬車で待っていたのは、アンドレとグラフだ。さらに、エルフ族の男もいる。
グラフは、アンドレの右腕的存在である。
エルフ男の素性はわかっている。
アンドレの部下が近くのエルフの里から連れてきた隷属魔道のできる魔道遣いである。
ただし、小者だ。
アンドレが一郎を嵌めるにあたり、セビウスの石という、周囲一帯の奴隷状態にある者を一斉に無力化できる魔道具を使用するのはわかっていた。
しかし、エリカが、一郎がイットの隷属魔道を解除してしまったことをうっかりと口にしてしまったので、もしかしたら、イットを再奴隷化することを目論むのではないかとも予想していた。
そうでなければ、イットがセビウスの石とやらで、無力化できない可能性があり、アンドレとしては不安要素であるからだ。
だから、ミウとエリカにこっそりと、イットについてもらい対応させることにした。
案の定、イットを呼び出させたグラフは、隷属魔道のできるエルフ族を連れてきて、確認のうえ、イットに隷属魔道をかけ直そうとしてきた。
だが、ミウの方が魔道力は上手だった。
ミウは草むらに隠れたまま、イットに効果が及びそうになっていた薬香の影響を解除し、さらに、エルフ男にも魔道で暗示をかけて、隷属魔道がうまくいったように錯覚させることに成功した。
グラフが確認のために、イットに手を出そうとしたのは気に入らないが、エリカも咄嗟に姿を晒してイットを守ることには成功した。
いずれにしても、イットはもう一郎の女だ。
手を出したことには、しっかりと酬いをくれてやる。
また、一郎が馬車にひとりで入ってきた途端に、アンドレが胸に手をやった。
周囲の奴隷女を無力ができるという『セビウスの石』とやらを作動させたに違いない。
今頃は、事前にアンドレが指示をしていた通りに、無抵抗になったはずのエリカたちを捕縛しようとして、この隊商の護衛たちが一斉に襲いかかっていると思う。
まあ、エリカたちならうまくやるだろう。
いずれにしても、この馬車には防音の結界がかかっているので、外の喧噪は聞こえないし、中の音も外にはわからない。
一郎が、罠にかかったふりをして、ひとりで乗り込むことについては、最後までエリカが抵抗したが、最後には納得させた。
まあ、一郎としても、目の前のアンドレ程度に不覚をとるつもりはない。
「さて、じゃあ、手続きといこうか」
アンドレは言った。
「譲渡契約書ですね」
一郎は言った。
「まあな。現段階では、手続き上は、イットはまだ俺の奴隷だ。この契約書を交わして、初めて、お前のものになる。それまでは、体裁としては、俺の持ち物である奴隷を盗んだことになる。じゃあ、これにサインを……」
アンドレがにやりと笑って、一枚の羊皮紙を取り出した。
それが机の上に置かれる。
一郎は、何気なくそれをに手に取った。
もっとも、一郎には、この国の言葉は喋れるし、聞き取れるが、読むことはできない。
それでも、日常用語的なもの程度なら、多少はいけるのだが、専門的な契約書が読み取れるわけがない。
「俺の女たちを呼んでもらってもいいですか? イライジャを連れてきます」
一郎は書類を一瞥してから、テーブルに戻した。
だが、次の瞬間、さっとグラフが剣を抜いて、一郎の喉に突きつけた。
「……なんの真似です? 脅迫ということですか?」
一郎は静かに言った。
罠としては稚拙だろう。
一郎を護衛の女たちと切り離して、不公平な契約書に無理矢理にサインをさせる……。
無論、そんなことは契約としては無効だが、それでも、いくらでも、誤魔化しようはあるのだろう。
なにしろ、アンドレが思っている一郎に対する評価は、苦労知らずの成りあがりだ。
しかも、後ろ楯になるような存在はないと思っているだろう。
夕べ、イライジャがアンドレの部下にそう吹き込んだはずだ。
人は都合のいい話を信じたくなるものだし、アンドレはそれを信じたと思う。
だから、手っ取り早く強引な手段を選んだに違いない、
「まさか……。だが、じっとしていてもらおう。しばらくすれば、なにも考えられなくなる。乱暴はしたくない。このグラフにかかれば、お前を痛めつけて、動けなくすることなど簡単だ……。じっとしてな。すぐに薬が効く」
「それを脅迫というんですよ」
「脅迫じゃねえ。説得してるのさ。人の言葉に従いたくなる薬香を吸ってもらってな……。こっちとしては、乱暴な手段で大人しくさせてのもいいし、黙って大人しくしているのでもいい。好きな方を選べ」
アンドレが背後から小さな皿を取り出して、その上に袋から取り出した薬草のようなものを乗せた。
どういう仕掛けなのか知らないが、すぐに皿の上の草から煙が出始める。
一郎は、グラフに剣を突きつけられたまま肩を竦めた。
あれは、イットを強引に再奴隷にしようとしたときに、グラフが使った催眠性のある薬草と似たものだろう。
つまりは、人の思考を一時的に麻痺させる無色無臭の薬草ということだ。
アンドレたちが慌てないところを考えると、彼らは薬香を中和するなんらかの処置を事前にしているのだろう。
「動くなよ。動くと痛めつけるぜ。心配するな。これも勉強だぜ、優男」
アンドレがもう一度、なにかをグラフに放った。
それを見て、一郎は、さすがにびっくりしてしまった。
まさか、アンドレがそんなものを準備しているとは思わなったし、一郎に使おうとするとも思わなかったのだ。
アンドレがグラフに手渡したのは、『奴隷の首輪』だった。
それを受け取ったグラフが、一郎の首にそれをかける。
がちゃりと音がして、それが一郎の首に魔道的に密着したのがわかった。
「しばらく、そうしていろ。そうだな……。もう少ししたら、なにも考えられなくなる。そうしたら、俺の言葉には逆らえない。いい気持ちになるからな。そのとき、俺がある言葉を言う。そうしたら、“承知した”と応じろ。後のことはなに考えなくていい」
アンドレがくすくすと笑った。
一郎は唖然とした。
「奴隷の首輪ですか? こんなことがうまくいくわけないでしょう。俺が奴隷になることになんて、応じると思ってるんですか」
「どうかな、試してみるさ……。だが、これは別名“絶対服従薬”といって、実際、もっとやばい相手に同じことをしたけど、発覚したことはないぜ。後で紋章奴隷に切り替えるしな……。やばいことになれば、自殺するように命じる」
「そうやって、敵を陥れてのしあがってきたんですか? よく、発覚しませんでしたね」
「余裕ぶっこいてんのも、いまのうちだぜ。すぐになにも考えられなくなる……。そして、教えといてやるけど、これは操り術や支配薬とは違う。そういう操り薬は時折弾く者もいるしな。だが、これは弾けねえ……」
「弾けない?」
アンドレの言葉にちょっと不審なものを感じた。
そして、どうしてアンドレは、さっきから、こんなに自信があるのだろうかという疑念が湧いたのだ。
アンドレの鑑定術がどれくらいのものか具体的にはわからないものの、アンドレも能力の高い相手には、操り系の魔道が掛かりにくいことは経験で知っているだろう。
もちろん、一郎のことを高位能力者と考える道理はないが、支配系の魔道具や魔道薬などは、術者よりも能力が高い相手にはかからないというのは、この世界の常識のようだ。
しかし、アンドレは妙に自信を持っている。
「ああ、そうだ……。なにしろ、これは意識を失ったようになるだけだ。操るわけじゃない。そして、
アンドレが勝ち誇ったように喉で笑った。
一郎は不穏なものを感じた。
「よくわかんないけど……、俺が……あんたの罠に……嵌まることはない……。忠告はする……。やめるんなら……いま……」
一郎は言った。
一方で、だんだんと頭が朦朧となるのを感じる。
これは、本当に頭がぼんやりとしてくる。
どうやら、意識を失わせる効果があるというのは真実みたいだ。
もしかしたら、アンドレが口にした通りの効果があるのかも……。
……だとしたら、どうなのか……?
単純な支配術なら、淫魔師レベル“100”に達した一郎が誰かに隷属されるなどあり得ないと思うが、意識のないあいだに、口の葉に載せた言葉で隷属が成立してしまうということがあるのか……?
もしかしたら、そんな裏技もあるかもしれない……。
次第に麻痺してくる思考の中で、一郎はふとそんなことを考えた。
「とにかく、たっぷりと催眠香を吸ってくれよ。それと動くなよ。動けば殺すぜ。俺はどっちでもいい」
「後悔する……ぞ……」
一郎は言った。
しかし、まるで他人の口が喋っているようで、自分の声なのに、遠くから聞こえるみたいだ。
「まあ、語れるうちに、言いたいことを口にしておきな。もうすぐ、自分の意思では、なにも喋れなくなる。そして、次に気がついたときには、紋章奴隷になっているということだ。まあ、成りあがり者のくせいに、あんな美人奴隷を引き連れて目立つのが悪い。身の程を知っておけば、目立つこともなかったかもな」
アンドレが笑った。
「お、お前に、その言葉を……返す……」
「女奴隷についても、そろそろ、全員を捕らえ終わっている頃だ。あいつらは俺が引き受けるし、お前のことも引き受けよう。できるだけ、奴隷扱いのいい男色趣味の金持ちに売り飛ばしてやるよ。別に、お前に恨みがあるわけじゃないしな……ところで、そろそろ、意識が麻痺してきただろう?」
アンドレが愉しそうに言った。
一郎は、内心で呆気にとられいていた。
いまのいままで、アンドレは一郎を脅迫して、一郎の女たちを強引に奪おうとしていると思っていたが、まさか、アンドレは、一郎まで、奴隷として売り飛ばそうとしているとは……。
しかも、悪いことに、本当に意識が消えかかっている。
アンドレの喋ることも、あまり理解できなくなってくる。
これは、ちょっとまずいな……?
隷属にかけられるのかも……。
あるいは、アンドレの言葉の通りに、奴隷の首輪をつけたまま、奴隷の誓いを言の葉に乗せれば、レベルの高さに関わらず、奴隷の支配が有効になってしまうのだろうか……。
つまり、一郎の意思による奴隷応諾だと見なされて……。
やばいかな……。
一郎の背中に冷たいものが流れる。
そして、アンドレがエルフ族の魔道遣いに合図した。
「隷属魔道を発動した。あとは、この人間族が隷属の承諾を口にすれば、それが刻まれる」
エルフ男が言った。
アンドレが笑いながら頷く。
「奴隷の誓いをすると言え、ロウ……。お前は俺の奴隷だ。心から誓え」
「心から誓う」
一郎の口は、勝手にそう喋っていた。
ぱちりと隷属の魔道が発動するのがわかった。