【2025.9.5コミック発売】異世界で淫魔師ハレム【完結】 作:ドン・ドナシアン
「おはようございます、ロウ様……」
「おはようございます、ご主人様」
軽く身体を揺すられた。
一郎は目を覚ました。
エリカとコゼが一郎を見おろしている。
ふたりともすでにすっかりと身支度が終わっている。
開かれている窓からは、朝の光と気持ちのいい風が差し込んできていた。
そういえば、昨夜はふたりを完全に抱き潰してしまい、久しぶりにひとりで寝たのだということを思い出した。いつもは、ふたりの女のどちらかが、あるいは、両方が添い寝をしているので、隣りで身じろぎをすれば目を覚ましていた。
だから、起こされるのは久しぶりだ。
しかし、昨夜は完全にひとり寝だったので、どうやらふたりが起きあがって動いていたのに気がつかなかったようだ。
あるいは、ふたりも一郎を起こさないように、気を使って静かにしていたのかもしれない。
「今日は、わたしが番です……」
エリカが少しはにかんだ表情で一郎の唇に自分の唇を押し当ててきた。
エリカにもコゼにも、一郎が目覚めたら、すぐに挨拶の口づけをするように命令をしている。
エリカが、“わたしが番”だと言ったのは、どちらが先に口づけをするのかという順番のことだ。いずれにしても、ふたりとも口づけをすることになるのは変わりない。
ときには、そのまま朝から性行為に陥ることもあるが、それもすべて一郎の気ままだ。
一郎が求めれば、このふたりは拒否はしない。
エリカにしても、コゼにしても、いまは一郎の女としての感情と価値観が、完全に身体に刻み込まれてしまった感じだ。
一郎の口の中に生温かいエリカの舌が入ってきた。
エリカは百合の性の経験があっただけに、口づけがとても上手だ。
一郎の口の中で、エリカの舌が唇の内側を舐め、さらに歯茎をなぞっていく。さらに口腔中を這いまわる。
とても、情熱的で煽情的なキスだ。
一郎は、思わずそのまま押し倒したくなる誘惑にかられた。
「昨夜は、先に寝てしまって申し訳ありません」
やっと唇を離したエリカが、一郎の口から洩れた涎を舐めとってから言った。
「謝る必要はないさ。調子に乗って抱き潰したのは俺だからな」
一郎は苦笑した。
「でも、万が一、襲撃をされた場合の備えもしないで、正体なく寝入ってしまいました。それでは、ロウ様の護衛役としての役割は失格です」
エリカはきっぱりと言った。
多少要領の悪いところはあるが、生真面目でいつも一生懸命なのがエリカの特徴だ。
エリカには、ずっと以前に、一郎を守ってくれと命じたことがあった気がする。
それをずっと大切に考えているみたいだ。
だから、常にどこであろうと休む前には、襲撃されたときの警戒のための結界などを魔道で処置してから、一郎の「調教」を受けにくる。
ただ、昨日は、夕食時のいたぶりから、そのまま夜の営みに発展してしまったので、そんな余裕がなかった。
それを申し訳なく思っているようだ。
健気な女だ。
「気にするな。エリカはいつもよくやってくれているし……」
一郎は手を伸ばしてエリカの頭を撫ぜた。
「あっ……。お、恐れ入ります」
するとエリカが嬉しそうな顔になった。
そのとき一郎は、掛け布の下の自分が完全な素裸であることに気がついた。昨夜は一郎も、エリカとコゼを抱き潰してからそのまま寝入ったのだった……。
それを思い出した。
「大丈夫よ、エリカ。だったら、今夜もエリカが“調教の番”ということにしたらいいわ。罰としてね」
コゼが元気な物言いで割り込んできた。
一箇月前まで、マニエルという悪徳商人に飼われる正式の奴隷だったコゼは、主人の商人から商売仇などを始末する一流の暗殺者として使われながらも、主人の部下たちの性処理のための「厠女」として扱われる恥辱の日々を送っていた。
それはコゼの人格に暗い影を落とし、少しのあいだコゼはとても消極的で一郎たちに一線を画した態度を取り続けていた。
しかし、一郎の淫魔術により、そんな負の記憶によって押し殺された性格の闇の部分を消去してしまうと、随分と陽気な少し甘えん坊の女性に変化してしまったのだ。
最初に出会ったときとは正反対であり、とても同一人物とは思えない変化だ。
まあ、嬉しい変化ではあるが……。
いまや、愉快なお調子者だ。
これが本来のコゼの性質だったに違いない。
「な、なんで、わたしの番になるのよ──。あなただって、ロウ様の護衛じゃないのよ」
真面目なエリカがコゼのからかいに、真っ直ぐすぎる反応をして声をあげた。
「あたしは性奴隷よ。もちろん、ご主人様を全力で守るけど、第一の役割はご主人様に抱かれることなのよ。そう言われたわ」
コゼは平然と言った。
そう言われれば、そんな風に告げたかもしれない。
よくは覚えていないが……。
まあ、実際のところ、コゼもエリカに負けず劣らずの強い戦士だ。エリカは弓術や剣術に長けた正統派の戦士だが、気配を殺して物陰から相手を瞬殺する技にかけては、エリカはコゼにかなわないだろう。まともに戦えば、エリカが強いかもしれないが、現実の殺し合いではコゼが勝つような気がする。
いずれにしても、三人の中でなんの役にも立たないのが一郎であることは間違いない。
「だったら、今日もエリカが夜の調教を受ける番だな。どんな罰がいいんだ。とりあえず、コゼに任せるよ」
一郎は笑った。
「そんな、ロウ様……。な、なんで、わたしだけ……」
エリカが頬を膨らませた。
「愉しみね、エリカ」
コゼが指先でちょんとエリカの胸の膨らみを突っついた。
「ひんっ──。な、なにすんのよ」
エリカが両手で胸を押さえて飛び退がった。
コゼが愉しそうに笑って、顔を屈めて一郎の唇に口を重ねてきた。
朝の挨拶の続きだ。
口づけの上手なエリカに比べれば、やはりまだまだコゼの技巧は稚拙だ。
だが、それはそれで初々しい愉しさがある。
性経験の多いコゼが、男については一郎しか知らないエリカよりも、性技に劣るというのは考えてみればおかしいのかもしれないが、実際にそうなのだ。
一郎は今度はコゼが舌を入れてくるのを待たずに、自分からコゼの口に舌を差し入れた。
「んふっ、ふうっ……」
コゼが鼻息を鳴らしながら、一郎の舌を自分の舌で舐め返してくる。
一郎に口の中を舌で愛撫されて、欲情しているのだ。
すぐにコゼの顔が真っ赤になり、魔眼で垣間見れる「快感値」も低下していっている。
無論、仕掛けがある。
コゼにはわかりようもないが、一郎がひそかに、コゼの口の中の感度を急上昇させて、一時的に性器並に敏感な場所に変化させているのだ。
そうやって、口の中が感じる場所なんだということを頭に覚え込ませてしまい、コゼを一郎好みの敏感な身体にしていくというわけだ。
これも「調教」だ。
そのうちに、次第に一郎が淫魔術を使わなくても暗示を刻まれた心がしっかりと強い快感を覚える場所として認識してしまい、コゼの口腔はしっかりとした性感帯として「安定」してしまうはずだ。
一郎はコゼの舌を味わいながら、コゼの口の中をたっぷりと味わった。
お互いに口を開いた状態で舌と舌を奥に奥にと絡み合わせていく。
「あ、ありがとうございました……。と、とても感じました……。で、でも、あたし、どうしてしまったのでしょう……。ご主人様との口づけはいつも……す、すごく感じます……」
唇が離れると、コゼは半ば茫然とした表情で言った。
「俺の口づけは、しっかりと愛情を注いでいる口づけだからな。俺もエリカもコゼの家族だ。だから、感じるんだ」
一郎はうそぶいた。
十歳のときに払えない税の代わりに家族から売られ、それから家族愛どころか、あらゆる愛情とは無縁の生活をしてきたコゼは、“家族”とか“愛情”いうものに飢えている。
一郎は、コゼが官能に浸っているときに、それらの単語を使うと、コゼの身体が反応することを見抜いていた。だから、意識して“家族”や“愛情”という言葉を使うことにしている。
一郎は起きあがった。
すでに、コゼの口の中の感度は元の状態に戻している。
エリカとコゼは一郎のために、身体を拭くための水と布を準備してくれていた。
立ちあがった一郎は、ふたりが身体の前後から布で一郎の身体を拭くのに任せた。
その後、エリカとコゼは、協力し合って一郎に下着をはかせ、衣類を整えさせてくれた。
その間、一郎はなにもしていない。
若い美女ふたりに、こうやって身支度をしてもらう時間は、一郎が一番好きな時間だ。
まるで王様にでもなった心地いい気分になる。
いや、実際に王様だ。
このふたりの女傑を本物の奴隷のように扱うことができるのだ。
それでいて、ふたりとも、一郎の世話をするのをちっとも嫌がっていない。
なんといい身分なのだろう。
そして、すっかりと準備が終わったところで、三人で連れだって廊下に出た。
朝食をとるためである。
しかし、廊下に出ると、女の泣く声が聞こえてきた。
かなり激しいすすり泣きの声だ。
隣の部屋からだ。
一郎たちが泊まっていた隣の客室の扉がかすかに開いていて、そこから声が漏れ出ているようだ。
一郎たちが泊まっていたのは、一階に下りる階段から二番目に遠い部屋だった。
女の泣き声が聞こえるのは、一番奥の部屋だ。
一郎は、昨夜、この宿屋の息子のトーイと都から戻ってきていたニーナという唄歌いが、そこで愛し合っていたのを魔眼を通して覗いたのを思い出した。
泣いているのは、そのニーナに違いなかった。
なにがあったのだろう……?
あれは、なにかとても衝撃的な悲しみがあって泣いているという感じだ。夕べ、恋人と愛し合ったばかりの女が、どうして朝からあんなに悲しそうに泣く理由があるのだろう。
不思議さが一郎の好奇心を刺激した。
「ご主人様、あれはニーナさんでは……?」
立ち止まったままの一郎にコゼが声をかけてきた。
「そうだな……」
一郎は頷いた。
少し気になったが、だからといって、いきなり声をかけるのもおかしいし……。
魔眼を使う。
すすり泣きの声が聞こえる部屋にいるのはニーナだけのようだ。トーイのステータスは出てこない。
「ニーナって……?」
エリカが首をかしげた。
ニーナのことを覚えてないようだ。
これには一郎もびっくりした。
だが、考えてみれば、あのニーナの美しい歌声が響くあいだ、エリカはコゼからずっと淫具による羞恥責めに遭っていた。
唄なんかに気を取られる余裕は皆無だったのかもしれない。
「ニーナといえば、昨夜の歌姫でしょう、エリカ──。まあ、呆れた。覚えていないの?」
コゼがからかいの口調で言った。
「あ、あんたのせいでしょう──」
すると、エリカがコゼに食って掛かった。
一郎は思わず笑ってしまった。
「きゃあああ──。トーイ──」
そのとき、突然に女の絶叫が階下から響いた。
叫んだのはこの宿屋の女主人であり、トーイの母親のマニラのようだ。
ただならぬ悲鳴に、一郎は一階に駆けおりた。
一階は喧噪になりかけていた。
人の集まりが宿屋の外にある。
一郎は、その輪の中で地面に座り込んだマニラに抱かれて倒れているトーイを目撃した。
トーイの顔色が真っ白だ。
息をしていない……?
そばには箒が転がっている。
宿屋の外の通りを掃除でもしていたような感じだ。
「どうしたの、トーイ──。息をして──。トーイ──どうしたの?」
気が動顚している様子のマニラが狼狽えて叫んでいる。
「動かしてはだめ──。毒が回るわ──。そこに横たえて──」
大きな声がした。
エリカだ。
懐からすでに杖を抜いている。
「毒──?」
マニラが顔をあげた。
トーイ
人間族、男
年齢20歳
ジョブ
宿屋管理(レベル2)
生命力:1↓
攻撃力:0↓
状態
毒針による瀕死”
一郎にもわかった。
しかも、死にかけている。
そして、トーイの身体の下に銀色に光る小さな物も見つけた。
針だ──。
「いや、動くな──」
一郎は叫んだ。
毒針に違いない。
一郎は針を指さした。
コゼも気がついた。
咄嗟に布を取り出して、針を拾いあげている。
また、コゼは、両腰に提げている短剣のひとつを抜き構えて周囲を見渡した。
はっとした。
そうだ──。
トーイが倒れたのは、毒針を刺されたためだと考えれば、それをやった犯人は、すぐそばにいるのかもしれない。
一郎も魔眼で周囲を探る。
だが、一郎の魔眼でもそれらしい者はいなかった。
周囲にいるのは、マニラをはじめとして、この宿屋で朝食をとっていた客たちばかりのようだ。少なくとも毒針で武装している者は見つからないし、それらしいジョブの持ち主もいない。
そのあいだ、エリカは杖をトーイの身体に向け続けている。
おそらく、魔道で毒消しを施しているのだろう。
だが、トーイの顔色はますます白くなり、生命力はややあがったものの“5”以上には上がってこない。
一郎はトーイの左肩に青い光が浮かんでいることに気がついた。一郎の魔眼によるものだ。
「右肩だ──。服を裂け」
一郎は素早く言った。
コゼがトーイの身体に飛びつく。
動顚しているマニラからトーイの身体を奪い取ると、短剣の先で服を裂いた。
服の下のトーイの肩は紫色に腫れていた。
そこが毒源だ。
コゼが躊躇うことなく、短剣の先でそこを切り裂いた。
トーイの肩から血が噴き出した。
「トーイ──。トーイ──。おお、トーイ──。な、なんで? どうして──?」
女の絶叫が人混みの外から起こった。
やってきたのはニーナだ。
かなりのパニック状態になっていて、金切声をあげながら、コゼからトーイの身体を奪い取ろうとした。
「邪魔よ、あんた──」
汗びっしょりで杖を向け続けているエリカが足でニーナを突き飛ばした。
ニーナが横に倒れる。
マニラがそれを助け起こした。
「な、なんでこんなことに──。なにがあったんです、お母さん──?」
ニーナが叫んでいる。
「わ、わからないわ──。あたしは突然に外でトーイが倒れる音を聞いただけだから……。トーイは店の前の掃除をしていたのよ。あたしは厨房にいたんだけど、不意に大きな物音がしたから外に出て見たら、トーイがひとりで倒れていたの」
マリラが応じた。
一郎はトーイの状態を観察した。
血が流れすぎて、それで身体が危うくなるようなら今度は止血が必要だ。
それを見極めるためだ。
トーイ
生命力:11↑
毒状態
状態
瀕死”
大丈夫──。
好転している。
「いいぞ──。回復してきている。そのまま、毒を出してしまえ──」
一郎は叫んだ。
やっとトーイの生命力があがってきた。
「わたしが──」
ニーナがコゼを押し避けて、トーイの肩に口をつけた。
今度はエリカもコゼも、ニーナを邪魔しなかった。
ニーナは、服がトーイの血で汚れるのもいとわずに、必死の形相でコゼが開いた肩の傷に唇をぴったりとつける。
血を吸い始める。
すぐに一度地面に吐き出して、また、肩に口をつけた。
しばらく、それが続く。
やがて、トーイの呼吸が顕著なものになった。
生命力は、“20”まで回復している。
状態も「毒」の言葉は残っているが、「瀕死」というのは消えた。
持ち直した……。
一郎はほっとした。
「もう、大丈夫だ……。止血を──」
一郎は言った。
「ふう……」
エリカがその場でがっくりと腰を落とした。
いつもは、“100”はあるエリカの魔力が、“10”を切っている。この短い時間でそれだけの魔力を搾り放てば、かなりのダメージもあるだろう。
「よくやったぞ、エリカ──。コゼもな……」
一郎はふたりの肩を抱いた。
その横でニーナとマニラが、いまはコゼが裂いた傷の止血をしている。
もう問題はない。
まだ、トーイは意識のない状態だが、すぐに回復をするだろう。
それにしても、なぜ……。
「トーイ、しっかり──」
そのとき、マニラの声がした。
そっちに視線をやる。
トーイが身じろぎをしていた。
しかも、そのトーイの唇が動こうとしているのがわかった。
「……ま、まさか……まさか……」
トーイが呟いた。
まだ完全には意識は戻っていない。
しかし、ほとんど無意識の状態のまま半ば覚醒した状態で、なにかを語ろうとしているようだ。
「なに、トーイ──。なにがあったの──? 誰にやられたの、トーイ──?」
マリラが叫んだ。
「ニ、ニーナが……」
それに応じるようにトーイの唇が告げたのは、その言葉だった。
「ニ、ニーナ?」
マリラは声をあげた。
一郎も少し驚いた。
しかし、トーイは再び昏睡の状態に戻ってしまった。
*
マニラが二階から降りてきたのは、そろそろ昼になろうかという時間だった。
一郎たちは、一階の食堂の卓のひとつを囲んでいた。
客はほかにはいない。
今日は店を開けないということをマニラが決め、朝食を待っていた客たちに食事代分の金子を返して立ち去ってもらっていた。
一郎たちについては、マニラではなく、ニーナからお願いだからどこにも行かないでくれと頼まれて、それで一階の食堂で座っていたのだ。
ここの女主人とニーナは、毒で倒れたトーイを看病するために、二階にあがったままだ。
腹が減っていたが、さすがに勝手に厨房に入るわけにもいかずに、大人しくしていた。
「ありがとうございました。なんとお礼を申していいのか……」
卓の前にやってきたマニラは深々と頭を下げた。
「トーイさんはどうなりました?」
一郎は訊ねた。
「大丈夫です。やっと意識を回復しました。とりあえず、横になっていますが、もう大丈夫だと思います。皆さんの迅速な処置がなければ、どうなっていたか……」
マニラはほっとした表情で涙ぐんでいる。
「ところで、どうしてこんなことになったのですか? トーイさんは誰に命を狙われたのですか?」
エリカが口を挟んだ。
「さあ……。トーイも覚えていないと言うのです。外で掃除をしていたら、不意にちくりと肩に刺激を感じて、気がつくと倒れていたと……」
マニラは暗い顔で首を横に振った。
すると、コゼが卓に布を出して開いた。
それは、一郎がコゼに拾わせた針であり、倒れていたトーイの身体の下にあったものだ。
「マニラさん、これは倒れていたトーイさんのそばに落ちていた針です。調べると、サイの毒が塗ってありました。サイの毒はご存知ですね?」
コゼが言った。
「サイの毒──? まさか──?」
マニラが真っ蒼になった。
だが、一郎にはわからない。
エリカを招き寄せて、小声で訊ねた。
それによれば、“サイの毒”というのは、この大陸で有名な致死性の猛毒だということだった。
「確かです。かすかですが、匂いの痕跡が残っています。とても危ないところだったと思います。たまたま、毒針を刺されたのが店の前であり、すぐに処置できる状況だったから、トーイさんは一命を取り留めました……。それはともかくとして、サイの毒は暗殺者が頻繁に用いる毒薬ですが、とても高価なものであり、誰かが気紛れに弄ぶという類いのものではありません。トーイさんは、プロの暗殺者に狙われたのではないかと思います」
コゼがきっぱりと言った。
一郎は少し驚いた。
プロの暗殺者がこんな普通の宿の息子を狙うという状況が理解できなかったのだ。
「まさか……」
マニラは動顚した様子だ。
そのとき、誰かが上から降りてくる気配を感じた。
ニーナだった。
すでに階段の半分まで降りてきていて、神妙な顔でこっちに近づいてきている。
「ああ、ニーナ……。トーイは?」
「横になっています……。しっかりしていますし、大丈夫だと思います……。ところで、いまの話は本当ですか、皆さん? トーイはプロの暗殺者に狙われたというのですか?」
ニーナは椅子を引っ張ってきて、一郎たちが座っている卓の前に腰かけた。真剣な表情をしている。立ったままだったマニラもニーナの横に椅子を持ってきて座った。
「あたしは、その可能性が高いと申しあげただけです。ただ、サイの毒は気紛れに使うようなものではありません。高価だというだけではなく、扱いが難しいのです。下手をすれば、毒を使おうとした者が逆に毒にあてられてしまうこともあるんです。だから、プロの仕事ではないかと思っただけです」
コゼが言った。
「そ、そんな……」
ニーナの顔も真っ青になる。
まずいな……。
一郎は顔をしかめた。
そうだとすれば、トーイはまた命を狙われる可能性もあるということだ。プロの仕事だとすれば、失敗した暗殺はもう一度やり直して、今度こそ確実に仕留めようとするだろう。
ニーナが降りてきたということは、いまはトーイがひとりでいるということだ。
「コゼ、トーイにとりあえず、ついていてくれ」
一郎はとっさに言った。
コゼは一流の暗殺者だ。同じ暗殺者がどんな風にやってくるか想像もつくだろう。
それに遣い手でもあるコゼなら、侵入者が現れても対処できる。
「わかりました」
コゼが立ちあがる。
トーイが休んでいるのは、今朝、ニーナが泣いていた最奥の部屋のようだ。コゼがすぐに二階に駆けあがっていった。
「あ、あの……。トーイはどうして……? ねえ、お母さん、トーイが命を狙われる理由に心当たりはないの──? このままじゃあ、トーイはまた命を狙われるかもしれないわ」
ニーナが焦ったように言った。
「さ、さあ……」
マニラがエリカを一度見て、そして、小さく嘆息して首をまた小さく振った。
しかし、一郎はなんとなく、マニラの様子に違和感を覚えた。
理由はない。
ただの勘だ。
だが、ニーナの言葉に対するマニラの否定の態度に、なにか引っ掛かるものを感じた。
ニーナが一郎たちに視線を向けた。
「あ、あの……。遅れましたが、トーイを助けてくれてありがとうございました。ところで、あなた方はもしかして冒険者ですか──?」
ニーナが言った。
「そうです──。まだ、ギルド登録はしていませんが……。ギルド登録は、王都に到着次第に行うつもりでした」
一郎の代わりにエリカが応じた。
「だ、だったら、わたしがあなた方に依頼します。トーイを守ってください。そして、トーイを狙う者を捕えるか、殺すかしてください──。報酬は金貨十枚……。いえ、十五枚支払います」
ニーナが言った。
「じゅ、十五枚──?」
エリカが甲高い声をあげた。
一郎には相場がわからないが、エリカの態度から考えると、とんでもない依頼金なのではないかと思う。
一郎の記憶では、確か、金貨十五枚もあれば、王都で小さな一軒家を買い取っても、まだ余りがあるくらいの額だったはずだ。
そんな大金を支払うというのは、ニーナにとって、トーイがそれだけ大切な存在だということであり、また、ニーナがその報酬を簡単に準備できる立場だということでもあるのだろう。
トーイが、ニーナは王都でも有名な歌姫だといっていたから、それだけの立場でもあるのだと思う。
「ニーナ、そんなに……」
マニラも目を丸くしている。
「いいんです、お母さん……。わたしにできることはなんでもしたいの」
ニーナがマニラに言った。
「ロウ様……?」
エリカが一郎に判断を求める視線を送ってきた。
「冒険者として登録していないのに、冒険者としての依頼を受けることに問題はないのか、エリカ?」
一郎は訊ねた。
「それは問題ありません……。冒険者ギルドに登録したとしても、義務になっている数の依頼さえこなせば、ギルドを通さずに依頼を受けることもできます。ただ、ギルドを通さない場合、往々にして、実際の報酬の支払いの段階でもめることが多いとも聞きます」
エリカが応じた。
「報酬は支払います。前払いでもいいです──。い、いえ、や、やっぱり、トーイの危険を排除してもらってから……」
ニーナが素早く言った。
それはそうだろう。
報酬を先に支払えば、一郎たちが金子だけを貰って、そのまま逃亡する可能性がある。なにしろ、一郎たちは、まだギルド登録もしていないただの旅人だ。しかし、一度は先払いを口にしたところをみると、ニーナはこの手の交渉事には不慣れに違いない。
「先払いは金貨一枚と銀貨十枚……。それがいまの手持ちの全部なのです。でも残りの報酬はすぐに準備できます」
ニーナがさらに言った。
「受けましょう」
一郎はきっぱりと言った。
どうなるかわからないが、冒険者となる前の予行練習のようなものだ。やってみようと思った。
ニーナが少しほっとした表情になった。
「よ、よろしくお願いします。必ず、トーイを守ってください」
そのニーナが頭を下げた。
「では、一応、正式に契約の誓いを交わしますか、ロウ様?」
エリカが口を挟んだ。
「契約の誓い?」
「ギルドを通じた依頼の場合は、必要な契約の縛りはギルドがするのですが、個人で受ける場合は、それを行うも、行わないこともまちまちです。契約の誓いをすれば、魔道により、お互いに依頼の履行と報酬の支払いから逃れられなくなります」
「誓いをして、それを破ればどうなるのだ?」
「お互いの同意がないと破れません。心がそれに縛られるのです」
「任せるよ」
一郎は肩を竦めた。
「あ、あなたは、契約の誓いの魔道が遣えるのですか?」
ニーナは少し驚いている。
「遣えます。では、前金を……」
エリカは肩に提げていた布状の鞄から二枚の銅貨を出した。
「誓いの品物はなんでもいいのですが、とりあえず、これを使います。これが契約の担保となります。失ってしまえば、相手の義務の履行の縛りが消滅してしまうので、契約中のあいだは失くさないようにしなければなりません」
エリカが説明した。
これは一郎に対して話しているのだろう。
一郎は頷いた。
「ちょっと待ってください。前金を持ってきます」
ニーナが一度席を立ち、ぱたぱたと階段をあがっていった。
「それにしても、金貨十五枚とはね。ニーナさんはお金持ちなのですね」
ニーナがいなくなってから、一郎は何気なくマニラに言った。
「王都でも有名な歌姫ですから……。本当はもうあたしらとは、立場も身分も違うのです。でも、昔の縁を大切にしてくれていて、こうやって、月に一度ずっと以前のように歌いにきてくれるんです。本当に優しい娘で……」
マニラが静かに言った。
「昔のように?」
「ええ……。ニーナはもともと、このすぐ近くに住んでいた職人の娘だったのですよ。トーイとも幼い頃から仲がよくて……。だから、こんなに大切にしてくれるんでしょうね……。もう、ただの幼馴染にすぎないのに……」
マリラはそう言ったが、ニーナとトーイは、幼馴染には違いないのだろうが。「ただの幼馴染」ではない。一郎は、ニーナとトーイが夕べ愛し合っていたことを知っている。
だが、マニラの口ぶりではふたりがそんな関係であることは知らないようだ。
「以前はここで歌っていたと?」
「十二のときに、お父さんが病気で倒れてしまいましてね。母親は早くに亡くなっていて……。それで、ここでニーナを雇ったのです。ニーナは本当に歌がうまくて、店で歌ってもらうと、すぐにニーナの唄は評判になりました」
マニラの表情は昔をすごく懐かしむような顔だった。
「それがどうして、王都でも有名な歌姫に?」
「偶然に王都に住むドルニカ様という伯爵夫人がこの城郭にやってきてたとき、ニーナの評判を耳にして、唄を聴きにきたのです……。まあ、そのお方も貴族の割にはとても変わったお方で、しかも、とても気さくで……。それで伯爵夫人がニーナの唄にひと目惚れしたのです。ドルニカ様は、王都でも有名な芸術家をたくさん世話しているパトロンでもありまして……。それで、ニーナは彼女の世話を受けて、いまでは立派な歌姫になったのです……。ああやって、ここでは気さくにしていますが、いまや、王都では立派な屋敷に住んでいて、召し使いたちに囲まれるお嬢様なんです」
「へえ……」
驚きの声をあげたのはエリカだ。
一郎も同じ思いだ。
ニーナが王都ではそんな生活をしているような女性には見えなかったのだ。夕べなど、唄を歌ったあとは、かいがいしく給女などをやったりしていたようだが……。
「その伯爵夫人とともに、王都に行ったのは、いつのことですか?」
「十四のときですね。もう、六年も前です」
「もしかして、そのとき、トーイさんとニーナさんのふたりは婚約していましたか?」
一郎は訊ねた。
あてずっぽうだ。
だが、昨夜、ふたりが男女の営みをしていたことから、なんとなくそうではないかとふと思ったのだ。
十四といえば、この世界ではもう大人だ。
婚約も結婚もおかしくはない。
「まあ、どうしてそれを……? 確かにそんな話はありましたね。十四でニーナのお父さんが死んで、彼女の身寄りがいなくなってしまったときに……。でも、ニーナはドルニカ様とともに王都に行ったし、それは完全に無くなった話です」
マニラは一郎が、かつてのふたりの関係を正確に指摘したことに、少し驚いているようだ。
「お、遅くなりました……。探すのに手間取ってしまって……」
そのとき、ニーナが駆け降りてきた。
すぐに袋に包んでいた金子を出して卓に置いた。
さっき、ニーナが言った前金が確かにある。
「では、契約の誓いを交わします。ただ、依頼は、とりあえずトーイさんを守ることと、トーイさんを狙った者を明らかにすることとさせてもらえますか? 相手がわたしたちの手に負えない者だった場合は、危険の正体を明白にすることで、それに代えさせてもらいます」
「結構です。皆様はトーイの命を救ってくれました。皆様を信頼します」
ニーナが頷く。
エリカが杖を取り出して、呪文のようなものを唱えた。
それはすぐに終わった。
「終わりました。では、それぞれで保管してください」
エリカは二枚の銅貨を一郎とニーナの前に置いた。
お互いにそれを手に取る。
すると、外から馬車がやってくる音がした。
視線を向けると、かなり豪華な二頭立ての馬車が宿屋の前に停まったところだった。
中から出てきたのは、身なりのいい若い金髪の男だ。
ステファン
人間族、男
年齢28歳
ジョブ
上級使用人(レベル3)
生命力:30
攻撃力:25”
「お迎えにあがりました、ニーナ様。お支度はお済みですか?」
ステファンという男が優雅な仕草で頭を下げた。
「上級使用人」という一郎が初めて接するジョブもある。どうやら、ニーナの使用人のようだ。
執事といったところだろうか。
「予定が変わりました、ステファン──。王都にはしばらく戻りません。馬車は返してください。王都に戻るときには、こちらから人を使って連絡します。それまで迎えに来るに及びません」
ニーナがはっきりと言った。
「は、はあ? そんな馬鹿な……。あっ、いえ、失礼──。そんなことはできませんよ。ここで過ごされるのは、月に一日だけというお約束です。それに、今夜も唄会の予定が……」
「予定は全部取りやめです。そう手配してください、ステファン──。トーイが襲われたのです。トーイの安全が確認できるまで、わたしはどんなことがあっても、トーイのそばを離れません」
ニーナの言葉ははっきりとしたものだ。
「ト、トーイ? ここの宿の坊やでしょう? それがなんなのです」
「だから、襲われたんです。わたしは彼のそばを離れるわけにはいかないのです」
「ば、馬鹿な」
ステファンの顔が明らかに真っ赤になった。
彼が怒りに震えていた。
「駄目です──。そんな我が儘など──。第一、ドルニカ様がお許しになるはずはありません。今夜だけでなく、明日も、その次もずっと、たくさんのパーティで唄を披露する予定があるのです。それを全部取りやめるなど、大変なことになりますよ。ドルニカ様の面子が丸つぶれに──」
「ドルニカ様にはわたしからすぐに手紙を書きます。ドルニカ様はわかってくださるはずです」
「なりません。早く、お支度を──」
ステファンがつかつかとやってきた。
強引にニーナを連れて行こうとする気配だ。
「なんなの、あんた?」
すると、エリカがニーナの前に立ちはだかった。
「お前こそ、なんだ? どけ──」
ステファンはエリカを突き飛ばそうとした。
しかし、エリカはさっと身体をかわす。
「痛い──。いた、いた、いたいいっ──」
ステファンが叫び声をあげた。
エリカはステファンの腕を掴んで、後ろに捩じりあげていた。
「な、なんだ?」
「ステファン様──」
馬車から屈強そうな男ふたりが現れた。
どうやら護衛のようだ。
そのふたりが剣を抜くのがわかった。