【2025.9.5コミック発売】異世界で淫魔師ハレム【完結】 作:ドン・ドナシアン
いつもは存在していることも気がつかない空調機の音が今日に限って、はっきりと聞こえている。
また、真夏の暑さが室内に入り込んでしまわないようにぴったりと閉じている窓の外のセミの声さえも、今日は随分と気になった。
ただ、実際には喋っているのは、目の前のお医者さんだけであり、ほかには喧噪もない静かなものだ。
わたしは、黙ってお医者さんの言葉に耳を傾けている。
部屋にいるのは、お医者さんとわたしと一郎お兄ちゃんであり、ほかの人は看護師さえも遠ざけられていた。
病気に関するお医者さんの淡々とした説明が続いている。
隣に座っている一郎お兄ちゃんが手を伸ばして、わたしの手をそっと握ってくれた。
わたしが大きな動揺をしてないかと心配しているのだろう。
やっぱり、優しいのだ。
わたしは、静かにお兄ちゃんの手を握り返した。
「……昔はこのようなことは、まずはご家族からお話をして、ご本人にどのようにお伝えするかは、ご家族に委ねたりしたものなのですよ。しかし、いまはあえて、ご本人にも正確な情報をお伝えして、そのうえで治療方針を決めるのです。どのような生き方をするかは、ご本人のものですから……」
お医者さんは言った。
彼の顔にはどんな感情も読み取れなかった。微笑んでもおらず、そうかといって、苛立つ感じでもなく、すべての感情を注意深く消しているという感じだ。
多分、そういうことも、彼のような仕事には必要な能力なのだろう。
彼の顔には年齢に応じた皺がたくさん刻まれており、患者に死期を告げるときの感情のコントロールも、長年の経験で得てきたものであろうに違いない。
「……今回は検査入院でしたが、今後は治療のための入院ということになります。一度退院なさってから、再入院ということでも構いません。おそらく長くなりますから、いまのうちにご旅行など、やりたいことをされるのもいいでしょう。しかし、一箇月以内には入院してください」
お医者さんはさらに言った。
「それで、享ちゃん……いえ、妻は、入院をして治療をすれば、どのくらい生きられるのでしょうか?」
話が始まってからひと言も喋らずに押し黙っていた一郎お兄ちゃんがお医者さんに訊ねた。
すると、初めてお医者さんがちょっとが困ったような顔になったと思った。だが、すぐに、つくろった能面にそれが隠される。
「総合的な治療をした場合の三年後に生存できる可能性は、二十五パーセントというところです。五年後ともなると十パーセントになりますが……。しかし、延命治療のあいだに、この病気に関する治療法が発見され、もしかしたら改善が見込める可能性が生まれるかもしれません。希望はお捨てにならないでください」
「……では、入院治療を拒否した場合は?」
わたしは訊ねた。
「一年後に生存している可能性は、一パーセント以下です……。しかし、あなたはまだお若いでしょう。ここはしっかりと治療をして……」
「いえ、わたしは、もう、それなりの年齢ですよ。この前還暦を迎えてお祝いをしてもらったお婆ちゃんです。もちろん、生きるのに飽きたような年齢ではありませんが……」
わたしは、お医者さんの言葉を遮って笑った。
「還暦ねえ……。確かにカルテにはそうなってますね。しかし、私はいまでも疑ってます。とても信じられませんよ」
お医者さんが首を傾げながら、カルテを覗き込んだ。
わたしと祥ちゃんが年齢を教えると、決まって相手がとるのが、びっくり仰天するか、あるいは、いまのお医者さんのように全く信じないかだ。
六十歳になったのに、顔にも身体にも皺ひとつなく、肌もしっかりと若いし、体形の衰えもない。
何十年も、あまりにも変わらない若いままの見た目に、いつの間にか、わたしと祥ちゃんは、近隣でも有名な人物になってしまった。
それに比べれば、お兄ちゃんの顔には年齢相応の老いがちゃんとある。
だから、わたしたちのことを昔から知る者以外は、わたしがお兄ちゃんの妻であり、祥ちゃんがセックス・パートナーであるなんて、誰も信じない。
一郎お兄ちゃんの娘どころか、孫だと間違われるくらいだ。
実の娘など、わたしよりも見た目が若いなんて信じられないと文句を言っている。
ただ、わたしも一郎お兄ちゃんも、むかしは走っていたようなときでも、いまはゆっくりと歩く。
見た目以外の部分は、やはり歳はとっているのだ。
なんでもない場所で急に何度も転ぶようになり、また、手に力が入らず、なぜか字が書けなくなり、料理もすることができなくなったのは、少し前からだった。
わたしは、祥ちゃんと一郎お兄ちゃんに相談して、病院につれていってもらった。
すると、日帰り診療のつもりだったのに、その日のうちに検査入院をすることが決まった。
そして、一週間──。
いま、その検査の結果をお兄ちゃんと一緒に聞いているところである。
祥ちゃんはいない。
今日はたまたま、臨機で受けている英語講座の講師の仕事が入っているので、祥ちゃんはそっちに行った。
だが、お兄ちゃんは知らないが、実はその講師の仕事の後で、祥ちゃんは生徒のひとりの若い社会人とデートをすることになっているのだ。
おそらく、祥ちゃんは、その男性とホテルに行くと思うので、戻るのは夜になるはずだ。
同じ相手とは二度寝ることはないが、祥ちゃんも五十八歳なのに、女子大生のふりをして、若い男性とセックスをするのだから、まあ、祥ちゃんも大抵のものだと思う。
それはともかく、検査の結果としてお医者さんに告げられたのは、もう忘れてしまっていた小学生のときにかかった大病の名だった。
あのとき、わたしは、同じように検査入院から始まる治療のための入院を二度繰り返した。そして、検査入院を含めた三度目の入院のときには、わたしの両親は、わたしはもう退院することはできず、一年以上生きることはないと宣言されたらしい。
だが、絶望の中でわたしはお兄ちゃんに告白をし、お兄ちゃんがわたしを受け入れてくれた。
すると、奇跡のように病気が完全回復して、一箇月もしないうちに退院となった。
あれ以来、ずっと再発などなかったのだが、それが六十のいまになって、再び同じ病気にかかったようだ。
いずれにしても、あれから、その病気について調べてみたりした。
だから、わたしはその病気には、いまだに治療法などなく、回復など見込めないこともわかっている。
あのときは、まさに奇跡だったのだ。
死んでもおかしくなかったのに、お兄ちゃんに愛してもらって、残りの時間をもらった。
本来であれば、存在するはずのない人生だ。
そう思うと、治る見込みのない病気を告げられても、そんなに悲しいとは感じなかった。
「さすがは、妖精坂の魔女さんですね」
お医者さんがカルテの住所と名前を改めて見ながら、呟くように言った。
“妖精坂の魔女”──。
わたしと祥ちゃんが、いつの間にか、そんなあだ名をつけられていたことは、しばらく前に知った。
妖精坂というのは、わたしたちの家がある地域の通称であり、十年ほどまえに、すぐ近くに「妖精美術館」というのができたので、誰彼となくそう呼ぶようになったみたいだ。
そして、わたしたちは、その妖精坂に住む、年齢をとることのない“魔女”なのだそうだ。
「その物言いは好きではありません。妻は魔女なんかじゃないですから」
ちょっとむっとした声で一郎お兄ちゃんが言った。
わたしはくすりと笑ってしまった。
「あっ、そうですよね。そう……。あっ、失礼しました。失言でした」
お医者さんが小さく頭をさげた。
わたしは、握っているお兄ちゃんの手にちょっとだけ力を入れる。
一郎お兄ちゃんは、それで冷静を取り戻したみたいだ。
「こちらこそ失礼」と言って、お兄ちゃんもお医者さんに頭をさげた。
「しかし、是非とも、その若さの秘密についても調べてみたいですねえ。できれば、次の入院のあいだに、データーとかを取らせてはいただけませんか?」
お医者さんが冗談とも本気ともつかない顔で笑って言った。
だが、わたしは、首を横に振った。
「入院はしません。延命治療も必要ありません。最期は家で迎えたいと思います。治療をすると、コードとかをいっぱい繋げられて、食べ物もちゃんと口にできなくなって、みっともなくなりますよね。わたしは、お兄ちゃんに醜くなったわたしを見せたくない」
はっきりと言った。
本心だった。
わたしは、小学校のときに病院にいて、流動食に変わってどんどんと痩せていき、病み衰えたときの自分の姿を記憶している。
あれをお兄ちゃんに見せるなんて冗談じゃない。
そんなのは嫌だ──。
「い、いや、享ちゃん、俺はどんな享ちゃんでも……」
お兄ちゃんが横から口を挟もうとした。
しかし、わたしはそれを遮った。
「お願い、お兄ちゃん──。わたしを家から追い出さないで。お兄ちゃんや祥ちゃんと最後まで暮らしたいの──。迷惑かけるかもしれないけど。お願い──」
わたしはお兄ちゃんに向かって頭をさげた。
お兄ちゃんが手を離して、その代わりに、わたしの肩に手をやって、すっと抱き寄せた。
「……わかった。それが享ちゃんの選択なら……」
お兄ちゃんは言った。
そして、お兄ちゃんはお医者さんに向き直る。
「妻の選択です。病院での延命治療はしません。家でできる治療を教えてください。それと、家には、丹羽祥子さんという住み込みで家事を手伝ってくれる女性がいるのですが、彼女にも介護の方法などを教えてください。どこかを紹介していただければ」
「わかりました。それがそちらの選択であれば……。だが、残念ですねえ。私は是非とも、奥様の若さの秘密を知りたかったのですよ。六十歳でその外見は絶対にありえませんから。いまだに、年齢を偽っているとしか思えない……」
お医者さんが笑った。
わたしは口を開いた。
「調べるまでもありません。わたしたちの若さの秘密ははっきりとしてます」
「秘密とは?」
お医者さんがきょとんとなった。
「お兄ちゃん……、いえ、夫に愛してもらうことです。わたしも祥ちゃんも、毎日毎晩、夫に愛してもらってます。精を注いでもらっています。だから、若いのですよ」
わたしは笑い声をあげた。
お医者さんが面食らったような顔になった。
*
寝台に横たわっているわたしの思考は、ゆっくりと消えつつあった。
病院で死期を宣告されたあの日から、わたしは四箇月を生きている。
暑かった夏も終わり、秋が過ぎ、世間はクリスマスムードを向かえていた。
そういえば、お兄ちゃんに駅でプロポーズされたのは、クリスマス・イブだったことを思い出した。
あのときのお兄ちゃんは意地悪だった。
わたしを満員電車に乗せ、電車の中で掻痒剤を塗って、淫具で弄んで苦しめたのだ。
本当に、本当に意地悪だった……。
でも、その後で結婚を申し込んでくれて、真っ赤なガーネットの指輪をくれた。
その指輪は、いまでもわたしの左手の薬指にある。
わたしの生涯の宝物だ。
「享ちゃん──」
「お母さん──」
「お母さん」
「お婆ちゃん」
「お婆ちゃん――」
自宅の寝台の周りにはたくさんの人が集まっている。
その彼ら、彼女たちが、代わる代わるわたしのことを呼んでいた。
いまのは、祥ちゃんと子供や孫たちだろう。
祥ちゃんはもう泣いているみたいだ。
四箇月前に病院で聞いた診断の結果を伝えたときには、祥ちゃんは絶句し、そして、号泣した。
だが、その翌日からはけろりとしたように、再び陽気で元気な祥ちゃんに戻った。
だから、祥ちゃんが泣いているのは、あれから初めてのことだ。
そして、子供たち……。
一郎お兄ちゃんには、子供たちには、ぎりぎりまで知らせないでいて欲しいと頼んだ。
伝えても仕方がないし、すでに親からは巣立って、家族もいる子供たちだ。あまり、心配も迷惑もかけなくないと思ったのだ。
でも、お兄ちゃんは、一箇月前には、ふたりに知らせたみたいだ。
血相を変えた様子で、子供たちが旦那さんや奥さん、孫とともにやってきたことを思い出す。
「享子──」
「し、しっかりせい……」
ああ、この声はお母さんとお父さんだと思う。
ふたりともかなりの歳だが、まだまだ元気だ。お父さんとお母さんよりも早く死ぬのは申し訳ないとは思うけど、考え方によっては、小学生のときにはお医者さんに絶望を伝えられたわたしだ。
あれからの人生は、奇跡の貰い物のようなものだ。だから、許して欲しい。
「……享ちゃん、涼子さんが来てくれたよ。わかるか?」
お兄ちゃんだ。
泣いているような声……。
お兄ちゃんは、ずっと手を握ってくれている。
わたしは、お兄ちゃんを感じながら、もう一度目を開いた。
なにもかも、ぼんやりとしていたが、悲しそうな顔をしたお姉ちゃんがいた。
すっかりとお婆ちゃんになっている。
北海道で暮らしているが、わざわざ来てくれたのだろう。家族は一緒ではないみたいなので、ひとりで来たのだろうか。
あまり遠出もしたことのないお姉ちゃんのはずだけど、ちゃんと飛行機に乗れたのかなと思った。
「享ちゃん、しっかりしてよ」
その涼子お姉ちゃんが寝台に寄って来て声をかけてきた。
わたしは返事の代わりに、小さく頷いた。
そして、視線をお兄ちゃんに向ける。
お兄ちゃん……。
お兄ちゃん……。
お兄ちゃん……。
大好きなお兄ちゃん……。
わたしのすべて……。
お兄ちゃん……。
わたしを愛してくれてありがとう……。
好きになってくれて、ありがとう……。
毎日のように抱いてくれてありがとう。
いっぱいいっぱい調教して、たくさんたくさん気持ちよくしてくれてありがとう……。
もう舌は動かず、言葉にすることはできない。
だけど、気持ちだけを握ってくれているお兄ちゃんの手に伝える……。
お兄ちゃん……。
四箇月前の病院での死期の宣告からも、お兄ちゃんは毎日愛してくれた。
激しいものはなくなったけど、ちゃんと調教だってしてくれた。
さすがに、この一箇月については、セックスはなかったけど、セックスの代わりに、身体中を撫でてくれたし、たくさんの口づけもくれた。
とても、幸せだった……。
「……享ちゃん、俺が伝えたことを覚えているか? 約束だよ……。さよならだけど、さよならじゃない。また、会おう。だから、もしも、ケイラという女性に呼び掛けられたら、彼女の言葉に従ってね……」
お兄ちゃんが耳元に口を寄せてささやいた。
わたしは頷いたものの、実のところ、なんのことだかわかっていない。
それを伝えられたのは、半月前のことだ。
お兄ちゃんが深刻な表情でわたしに寄って来て、もしかしたら、最期のときに、ケイラ=ハイエルという女性が、わたしに呼び掛けるかもしれないから、そのときには、頷いて欲しいと言うのだ。
わたしは、ケイラ=ハイエルというのは、誰かと訊ねたが、お兄ちゃんは、自分にもよくわからないと言った。
どうにも判然としない。
だけど、まあいい……。
お兄ちゃんの命令だ。
わたしは、お兄ちゃんの言葉には、どんな言葉にも逆らわない……。逆らえない。
お兄ちゃんは絶対だ。
お兄ちゃんがそうしろと言うなら、そうするだけだ。
「……お……に、……ち……」
わたしは最後に、お兄ちゃんに呼び掛けようとした。
しかし、残念なことに、ちゃんとした言葉にならない。
だけど、わたしがお兄ちゃんに呼び掛けたのがわかったのだろう。お兄ちゃんが優しい笑みを浮かべて頷いたのがわかった。
お兄ちゃんのほかにも、部屋にはたくさんの人がいるが、だんだんと、ただのぼんやりとした影にしか見えなくなってきた……。
誰が誰ともわからない。
しかし、お兄ちゃんだけが、ゆっくりと濃くなっていくもやの背景の中にくっきりと浮かんでいる。
わたしは、お兄ちゃんを見つめた。
薄れていく最後の記憶をお兄ちゃんの姿にしたかった。
そのお兄ちゃんの姿も薄れていき、わたしの思念も静かに消えていった。
しかし、一瞬、突然に再びお兄ちゃんの姿がはっきりと見えた。
そして、お兄ちゃんと出会ってから、愛してもらった様々なことが記憶に蘇った。
よかった……。
あのとき、死ななくてよかった……。
お兄ちゃんとの時間を手に入れることができてよかった。
「お兄ちゃん」
わたしは、もう一度、うつろいゆくお兄ちゃんの姿に向かってささやいた。
だが、それはもうか細く吐いた息の音にしかならなかったと思う。
お兄ちゃん……。
わたしを愛してくれてありがとう……。
何百回、何千回、何万回でも繰り返したい。
わたしを愛してくれてありがとう、お兄ちゃん――。
わたしに、お兄ちゃんを愛させてくれてありがとう――。
愛してる。
お兄ちゃん……。
さようなら……。