二月四日(土)
今日は篠宮家で食事をする約束の日、雅也は朝起きた時から落ち着きなくそわそわしている。
母親の作った朝ご飯にも手をつけずに家を出る時間ばかりを気にしていた。
職場で篠宮さんに会っても普段通りの会話もできなかった。
一緒に水族館に行った日から彼女の事が気になり始めていた、この気持ちが恋なんだろうか? 僕は十年前のあの時から誰かを好きになる事に臆病になっていた気がする。
これは咲希ちゃんを好きだと思った気持ちと同じなんだろうか?
心の中で自問自答する、中学生の頃の初恋と大人に成長してからの恋愛感情はちょっと違うような。
考えれば考えるほど分からなくなる……。
二月の空に問いかけても返事なんか返ってくるわけはなかった。
ポケットに入れている携帯をぱかりと開いて時間の確認をした。
八時三八分、待ち合わせの時間は九時だからまだ二十分弱ほどある、ウォークマンで好きな音楽を流して篠宮さんを待つ。
昨日はあまり眠れずなかったから今朝は寝不足気味……。
初めて女の子の家に行くんだから誰だって緊張すると思う。
彼女いない歴=年齢。なんて言い出した人は上手いこと言うなあ。
今までの雅也は女の子と遊ぶ機会も無く、恋愛とは無関係な生活を送っていた。
それが今日は会社の同僚の子、それも最近気になり始めた異性から食事に誘われた訳だから落ち着かないのも納得できる。
待ち合わせ時間が近くなったからイヤホンを耳から外して待っていると——
「新堂さん」
僕を呼ぶ声にすぐに振り返ると篠宮さんが立っていた。
ちょっとだけおしゃれした彼女はこの人混みの中でも分かるくらい魅力的だった。
ナチュラルメイク? って言うのかな、飾らない感じがすごくいい、こうしてみると本当に可愛いと純粋にそう思う。
湊からしてみたら普段と変わらないはずなのに雅也はドキドキとして胸の鼓動が治るのに少し時間がかかった。
電車を降りて篠宮家に向かう二人の間に会話は無い、雅也はどう湊の事を褒めようと考えていた、結局何も言えないまま湊の家に着いてしまう。
「ちょっと上がって待っていて下さいね。私、着替えてきますから」
玄関に取り残された雅也は取りあえず言われた通りにすることにした。
「お邪魔します」
靴を揃えて湊の家に上がる、マンションに住んでる雅也は一軒家で暮らしている湊を羨ましく思った。
都内で一戸建てに住むにはお金を持っていないとなかなかできないこと、篠宮家の間取りはわからないけど結構いい家だなという印象を持った。
「む、君は一体誰だね?」
家の中を見ていると男の人に声をかけられる。
「あ、すみません、ご挨拶遅れました。僕は今日篠宮さんにお誘いを受けて来た新堂と言うものです」
「おお! それじゃあ君がそうか! ようこそ我が家へ」
男の人は雅也とガッチリ握手すると柔らかな表情で部屋に案内する。
「母さん、お客様だよ、すぐにお茶の準備をして。あ、僕はお酒をね」
「はいはい、全く子どもみたいなんだから」
キッチンの方から落ち着いた女性の声が聞こえる。
「あら、いらっしゃい、新堂さんかしら? お話はいつも湊に聞いてます、立ちっぱなしだと疲れるでしょう? どうぞ座って下さい」
女性に促されて雅也はソファに腰を下ろした。
「自己紹介がまだだったね、僕は湊の父です。そしてあそこで料理を作っているのが僕の自慢のお嫁さんで湊の母親だよ」
「新堂雅也といいます、篠宮さんとは同じ会社で働いていて——」
「湊から君の事は聞いているよ、そうかー。あの子がなあ」
湊の父は感慨深そうに雅也の顔を見る。
「ちょっと内気な所もあるが、どうかよろしく頼むよ」
さっき玄関でした握手とは違うタイプの握手を交わす二人。
「あらあら、お父さんもう酔っ払っちゃったのかしら?」
「僕はまだ酒は飲んでないぞ! それより湊を何をしているんだ! 雅也君を待たせちゃダメじゃないか!」
初めて会ったはずなのに湊の父は雅也をすっかり気に入ってしまった。
それから数分も経たないうちに着替えを済ませた湊が降りてきた。
普段着の彼女を見る機会なんて早々ない、雅也の前だからと派手な服を選ばずに家で着ている服で彼の前に現れる。
湊父がお酒を飲み始めたので雅也も付き合う事に、そこまで頻繁に飲むタイプじゃないけど今日は特別な日だからいつもより飲むペースが早い。
妹の夏帆も姉と母の料理を手伝う、湊父は雅也とスキンシップをしている、家族で過ごす事の暖かさを改めて感じた。
早めの夕食には豪華な料理が並ぶ、誰も雅也は食べたことのないものばかりで味も絶品だった。
最初は遠慮していたけど、たくさん食べてほしいと言われてご飯のおかわりを貰う。
湊の母はその食べっぷりにうっとりして隣に座っている娘に何か耳打ちする。
食事が終わった後は家族団欒、篠宮家の日常に雅也も加わる、湊との会話も弾み表情が豊かな彼女にいつもよりも多く話をしてしまう。
結局、夜の十時頃まで篠宮家で過ごした、気をよくした湊の父は雅也に泊まっていくように勧めたけど今度来る機会があればそうさせてもらうと断ってひとまず帰る事に。
「今日はすごく楽しかったです!」
「僕もだよ、久しぶりに楽しい気分になれたよありがとう」
靴を履いて篠宮家を後にする、ちょっと名残惜しい気もしたけどいつまでも長居しちゃいけない、お父さんは泊まっていっていいとは言ってくれたけど着替えも無いしね。
「新堂さんちょっと待って下さい。駅まで送って行きます」
「うん、ありがとう」
湊は一旦上着を取りに部屋に戻る、二月の夜は寒い、風邪を引かないようにしないと。
家から少し歩いて人気のない場所で彼女は足を止めた。
「篠宮さん、どうしたの?」
「あのっ! 私、今日は新堂さんに聞いてほしい事があるんです」
いつもの篠宮さんならこんなに大きな声は出さない、何か大事な用があるんだろう。
僕は彼女が言葉を発するまで待つ事にした。
「……あの、私、私はー」
グッと拳を握りしめると大きな決断した表情を見せて口を開いた。
「私は新堂さんが好きです! ずっとずっと言いたかったんです! 私のこの想いを、でも、なかなか勇気が出なくて……だけど、今日伝えたいって」
「……好きです、新堂さんの事が」
目の前にいる女の子は今にも泣き出しそうな顔をしている。
今の僕はどんな顔をしているんだろう?
勇気を出して告白する彼女の瞳を真っ直ぐ見つめると胸が熱くなる。
そうだ、やっとわかったよ。
これが「恋」なんだ、あの時から僕はずっとこの気持ちを忘れようとしていた。
篠宮さんの傍に寄るとその体を自分の方へと抱き寄せた。
「ありがとう、篠宮さんの気持ち嬉しいよ」
今はそれしか言えなかった、他に言葉が思いつかなかった、僕の胸の中にいる女の子を大切にしなくちゃいけないと。
僕らは人の目になんて気にしないで抱き合った、二人でいるこの瞬間はまるで時間が止まっているかのようにゆっくり流れている。
携帯の着信音が聞こえるけどそんなのはどうだっていい。
今はこうして彼女の温もりを感じていたかった。あの時みたいにもう一度人好きになる事ができるんだろうか?
会社の後輩として接してきた年が近い女の子の存在が僕の中でどんどん大きくなっていくのが分かる。
だけど、この時はまだこれから起こる出来事を予感するなんて出来なかった。
外は凍えるほど冷たい風が吹いていたけれど、彼女と触れ合っているこの瞬間は暖かくてずっと離れたくないなとも思った。
篠宮さんに告白された事で十年間仕舞い込んでいたはずの「恋」をしたいという感情がまた湧き上がってくるのだった。