二月五日(月)
今朝も電車の混み具合は相変わらずで時間を遅らせて乗り込んだのに人が多い。
僕は周りの人に押されながら車内の奥まで押しやられる。
満員電車が嫌でいつも家を出る時間を変えているんだけどあまり効果はない。
荷物が少し当たったくらいで怒り出すような人がいないのは有難い事だけど……。
今日会社に行ったら篠宮さんと会うんだろうな。
——僕は彼女が告白してくれた時の事を思い出した。
初めての体験に胸がドキドキして止まらなかった。そうだ、十年もの間僕が忘れていた感情、もう一度恋を始めたい。篠宮さんとならもしかしたら……。
告白の返事はしっかりと自分の言葉で伝えようと思う。
一方、雅也の携帯には昨日咲希からの着信履歴が残ったままだった。
「おはようございます」
同僚に挨拶をして自分のデスクへ向かう。
——途中、先に来ていた篠宮さんと目が合った。
普段なら目を逸らしてしまいそうになるんだけど今日はちゃんと彼女の目を見れる。
口元を緩め自然な笑顔を見せてくれた後輩の女の子に僕も視線で応えた。何気ない朝の風景なのに自分でもすごくいいなって思う。
篠宮さんに元気を貰えた僕はいつもより張り切って仕事に取り組んだ。
「お疲れ様でした」
今日の分の仕事を終えて一息つく、デスクを軽く掃除して帰り支度を整える。
ふと篠宮さんの様子を見ると彼女も僕と同じように帰り支度を始めていた。
「篠宮さん、今日は一緒に帰る?」
僕が声をかけると彼女は数秒考えてから「はい」と返事を返してくれた。
篠宮さんの帰り支度が終わるまで自分のデスクで待つことにした、今日の僕はなんだかそわそわして落ち着かない。
帰り道の二人の間に会話はない。普段なら何か話すんだけど今日の僕らはなんだかぎこちない……。
僕は篠宮さんの顔を真っ直ぐに見ることができない、隣を歩いてる彼女の顔が赤くなっている。
「この間はありがとね、楽しい食事ができたよ」
「……あ、いえ、私も新堂さんが来てくれて嬉しかったです」
会話はそれで終わってしまった、もっと長く篠宮さんと一緒にいたい。
こんな想いになるのはあの時以来だ、いや、あの時以上かもしれない。
「あのさ、この前の告白の事なんだけどね」
僕は一旦歩みを止めて深呼吸してから篠宮さんの方へ向き直る。
——近い距離で改めて見ると彼女は本当に可愛い女の子だと感じた。
自分の顔も赤くなっているのがわかる。
「告白の返事なんだけどね、もうちょっと待ってもらえるかな? もう少しで自分の気持ちに区切りがつきそうだから」
「私はずっと待ってますから」
今の気持ちが好きっていう感情なのか改めて考えてみる必要がある。
これが僕が「恋」をできる最後のチャンスかもしれないから慎重にならないと。
「あの、私からもいいですか?」
「何かな?」
篠宮さんは手を胸の前でグッと握って意を決したみたいに声を出した。
「名前、私の事は名前で呼んでくれませんか? 私、新堂さんとの関係を変えたいんです! だから私の事は名前で呼んで下さい」
彼女の普段とは違った雰囲気に僕は驚きを隠せなかった。
篠宮さんは大きな声を出すタイプじゃないしこんなに真剣なのは初めてみた。
「わかった。ちゃんと名前で呼ぶよ。──湊ちゃん、これでいいかな」
「はい! あの、私も新堂さんを名前で呼んでいいですか?」
「もちろん!」
「それじゃあ——雅也さん」
湊ちゃんに自分の名前を呼ばれた瞬間すごく心地良かった。
目の前にいる女の子が会社の後輩から僕にとって特別な存在へと変わっていくのがわかる。
もう一度彼女への想いを考えなくちゃいけない。
「それじゃあ湊ちゃんまた明日ね」
「はい、また明日。雅也さんも気をつけて帰って下さいね」
僕らはまるで付き合いたての恋人みたいにお互いの名前を何度も呼びあった。
手を振ってくれた湊ちゃんに僕も手を振り返して応える。
離れたくない……。ずっと側にいてほしい、だけどそんなワガママを言って彼女を困らせるわけにはいかない。
自分の事を好きだと言ってくれた女の子、もう一度僕に「恋」をするきっかけをくれた子。
湊ちゃんの姿が見えなくなってからも僕はしばらくその場を離れることができなかった
時刻は十九時前、改札口は相変わらずの混み具合だった。
*
「ん? 携帯が鳴ってる」
ポケットに入れてある携帯からお馴染みのゲームのBGMが聞こえてきた。僕は慌てて携帯を開いて通話ボタンを押して電話に出る。
「もしもし?」
「もしもし雅也君? 咲希です」
「咲希ちゃん? どうしたの」
「うん、今時間あるかな?」
「大丈夫だよ」
僕は携帯を左手に持ち変えて耳に当てた。
「ねえ、今から会えない?」
「今から? また急だね」
「無理ならいいけど」
「わかった、いいよ。それでどこで待ち合わせする?」
「私の部屋まで来てくれる? 前に来たことあったよね」
「了解」
前に咲希ちゃんの住んでるマンションへ行った時は彼女が僕のプレゼントしたネックレスを無くしちゃってそれを届けに行った。
雪の降る中必死に探したのを思い出す。
あの時、彼女は部屋の中に上がるように言ってくれたけれど僕が遠慮した。
改札口から引き返して駅を出る 、咲希ちゃんの住んでるマンションはここから歩いて十五分はかかる、ジーンズのポケットに手を入れて来た道を引き返した。
「確か七○五号室だったよな」
マンションのエントランスにあるインターホンで七〇五号室の部屋番号を入力して呼出ボタンを押した。
すぐに自動ドアのロックが開いて僕はエレベーターに乗って七階へ。
——廊下を進んで咲希ちゃんの部屋の前に到着した、乱れた服装を整えてからインターホンを押す。
ドアの前で待っていると一分も経たないうちに扉が開く。
「寒かったでしょ? さあ、中に入って」
僕は咲希ちゃんに促されて部屋の中に入ったけど靴を脱ぐのに戸惑ってしまう。
「どうしたの?」
「本当に中に入っていいの?」
「うん」
緊張する……。一旦心を落ち着かせないと! 深呼吸して気持ちを切り替えてから。
「お邪魔します」
——靴を揃えて咲希ちゃんの部屋に上がる。女の子の部屋に入るなんて経験はしたことがない。
「座ってて、今ココア入れるから」
あまり女の子が部屋をジロジロと見るべきではないんだけど、どうも落ち着かない僕はキョロキョロと辺りを見回す。
咲希ちゃんの部屋は一人暮らしなのがわかるくらいものが少ない。
そして女の子の部屋はすごくいい匂いがする。
彼女はいつもこの空間で生活してるんだな。
ちょっと小さめの棚にはカーテンがかけられている、多分人に見られたくないものが閉まってあるんだろう。
本が好きな咲希ちゃんは大人になっても読書を続けているんだろうなあ。趣味の少ない僕も見習わなくちゃ。
カーペットに胡座をかいて座る僕は背筋を伸ばして姿勢を正した。
「お待たせ」
二人分のマグカップと砂糖の入った瓶を机の上に並べる。
「お湯じゃなくてホットミルクから作ったから美味しいと思う。お砂糖は必要なら入れてね」
自分の前に置かれた茶色の液体の入ったカップを持って口に運ぶ。
甘くてコクのある味が口一杯に広がってくる、砂糖を入れなくても十分に美味しい。
冷え切った体が温まっていくのがわかる。
ちらっと彼女に視線を向けると胸元には僕がプレゼントしたネックレスが綺麗に輝いていた。
身に着けてくれているんだと思うと嬉しくなる。ネックレスはすごく似合っていて街で歩いていたら声をかけない男はいないと思う。
「どうしたの? 私の方じっと見てるけど」
「ああいや、そんな深い意味は無くてー。そのネックレスちゃんと着けてくれてるんだなって思って」
まだネックレスの意味は教えていないんだけど大切にしてくれてるならプレゼントした甲斐があった。
「それでさ、僕を部屋に呼んだのには何か理由があるの?」
「えっ、それはー」
そもそも理由もなく彼女が僕に電話してくる訳もないし、ましてや自分の部屋に上げるなんて事はしないと思う。
「私は二人きりで話したいなぁって思ったんだけど、ダメだった?」
「そうなんだ、急に咲希ちゃんの家に呼ばれたから何かあるんじゃないかと思ったんだよね」
「迷惑だった?」
上目遣いで見つめる彼女の視線から目を逸らせない僕は数秒見つめ合う様な形になった。
「ごめん。女の子の部屋に上がった事なんて今まで経験したことがなかったから今少しだけドキドキしてるんだ」
今の自分の気持ちを咲希ちゃんに伝えてみる、彼女はどうなんだろう? 男友達を部屋に呼んだりするんだろうか。
「私も男の子を部屋に呼んだのは雅也君が初めてだよ」
「えっ……そうなんだ」
「うん、大学時代の友達はちょくちょく来るんだけどその子は女の子だから」
「意外だった、咲希ちゃんならもう彼氏がいてさー部屋に上げた事あると思ってた」
「私、彼氏なんていないよ。恋愛なんて興味無かったから。大学は女子大だったし出会いのきっかけなんてないよ」
「そっかー。僕は一人で出かけるとたまに女の子に声をかけられる事あるけど、ほら、この間咲希ちゃんと一緒に出かけた時だって」
「雅也君はどうなの?」
「どうって何が?」
「もう! 何がじゃないでしょ! 雅也君は彼女とかはいるの?」
「へ? 僕はいないけど」
咲希ちゃんは「いないんだ」と小さな声で呟くように言った。
どうしてそんな事を聞くのか僕にはわからない。
それからは二人とも沈黙してしまう、彼女もどこか不自然な感じだ。
「今日はもう帰るよ。咲希ちゃんも何か変な感じだし、僕がいたらゆっくり休めないよね」
沈黙から抜け出したくて僕が立ち上がって玄関へ向かうと、
「待って! 雅也君」
咲希ちゃんは僕の腕を掴んで引き止めた、女の子とは思えないほど強い力で引っ張る。
「お願い! 帰らないで」
「咲希ちゃん?」
「お願い、側にいて?」
彼女が落ち着くまで僕は帰らないように約束した、あんな強引に引き止められるなんて思わなかった。
「咲希ちゃんが落ち着くまでは帰らないって言ったけど明日も仕事だからあまり長くはいられないよ」
「嫌、帰っちゃダメ」
駄々をこねる子どもみたいに目を潤ませて訴える、その仕草に僕は何も言えなくなってしまった。
「後で下着とか買って来るから脱いだ服は洗濯機に入れておいてね」
咲希ちゃんは僕が帰らないように色々気を回している、彼女が買い物に行っている間、僕は風呂に入って疲れを取るように言われた。
一人用の脱衣所で服を脱いで洗濯機に入れようと蓋を開けると中にある彼女の下着に目が行く。
まだ洗濯されていない咲希ちゃんの下着。
——僕はつばを飲み込んだ。結局洗濯機にじゃなく洗濯籠に脱いだ服を入れて風呂に入る。
疲れが一気に取れていく、湯船に浸かって考える。
咲希ちゃんが僕を呼んだのはただ二人きりで話をしたいだけなのに帰らせてもらえない。
彼女が落ち着くまでは帰らないつもりだけど仕事もあるから早く帰りたいんだけどなあ。
「風呂ご馳走さまでした。次いいよ」
「うん、それじゃあ私も入ってくるね」
咲希ちゃんが風呂から上がったら帰るように伝えよう。黙って帰る事も出来たんだけどそんな事したら多分泣いて大変な事態になりそうだだから。
「気持ち良かったー」
風呂から上がった彼女は上機嫌。よし、これなら大丈夫そうだ。
「あのさ、そろそろ僕帰るよ。僕が脱いだ服は捨ててもいいから」
玄関へ向かうかと立ち上がろうとした瞬間。
——咲希ちゃんは体を密着させてそのまま僕を押し倒す。
「ちょっ、ちょっと!」
「帰っちゃいや……」
「だけど明日も仕事があるからその……」
咲希ちゃんは体を重ねるように僕の顔に自分の顔を近づけた、押しつけられた胸のむにゅりとした感触を感じる。
キスでもしそうなほど近い距離まで接近してお互いの体を密着させている状況。
胸がドキドキして動悸が激しくなる、僕はなんとか理性を保っていた。
結局その日は咲希ちゃんの部屋に泊まる事になって後から家族に友達のところに泊まるとだけメールを送った。
一つしかないベッドに二人で寝ることになった、僕は床に寝るって言ったんだけど咲希ちゃんが聞いてくれなかった。
「じゃあ電気消すね」
部屋の明かりが消えるとあっという間に闇に包まれる。僕は壁側に体を向けてできる限り彼女から離れて寝ようとする。
すると咲希ちゃんが手を握ってきた、そして後ろから抱きしめるように体を密着させる、その感触に興奮して目が冴えてしまう。
「あのさ、咲希ちゃん。その姿勢きつくない?」
「全然きつくないよ」
そう言ってもっと密着させてきた。
——彼女の大きな胸が押しつけられる。握られた手にも力が入って僕はドクンドクンと心臓の鼓動を感じる。
僕の胸の高鳴りが彼女に伝わっていやしないか気になる。
とにかく目を閉じていると僕の耳に咲希ちゃんの吐息がかかる。
「……大好き」
耳元で囁かれた言葉はまるで寝言みたいで僕は彼女の様子を見るとそのままの姿勢で寝息を立てて眠っている。
こんな状況で眠れるわけがなかった。一睡もできずに朝を迎える、僕の手は咲希ちゃんに握られたままだった。