二月十日(土)
「湊ちゃんに僕の気持ちを伝えよう」
応えは最初から出てたのかもしれない。僕はもう一度恋をするきっかけを貰えた。
同じ会社の後輩の女の子、彼女のことが好きだと言う気持ち、それは十年前のあの日から忘れていた感情。
湊ちゃんに告白されて彼女を抱きしめた時、この子の事を大切にしたいって思えた。
失恋してからもう恋愛はしない、いや、恋をする事から逃げていたのかな? 単に向き合いたくなかっただけだろうな。
ようやく分かったよ。前に進むことを諦めていたのは自分自身だってことがさ。
僕は日曜日に湊ちゃんと会う約束をした。その時に僕の気持ちを伝えて新しい恋へ踏み出すんだ。
目的地に到着するまでの間、告白の返事で頭がいっぱいだった。
今日はこれから咲希ちゃんと会う。
──なんでも彼女から大事な話があるみたいだ。
彼女の家に行くのは三度目だけど、まだちょっと緊張する。
この前は咲希ちゃんの部屋に泊まった。
女の子の部屋に泊まるなんて今まで経験したこと無かったし何より彼女が僕に対してあんな表情を見せたのに驚いた。
駅から真っ直ぐ歩いてマンションの前までやって来た。
不審者に思われないようにすぐに中に入ってマンションのエントランスにあるインターホンで部屋番号を入力して呼出ボタンを押した。
「はい」
「雅也です。今着いたよ」
数秒間待つマンションの自動ドアのロックは解除され目の前にあるエレベーターに乗り込んだ。
彼女の部屋七○五号室の前で一回深呼吸してからインターホンを押す。
ガチャリ
鍵が開く音がして大きな扉が開いた。
「いらっしゃっい。寒かったでしょう? さあ、中に入って」
咲希ちゃんはゆったりとした服装をしている。きっと家で寛いでいたんだろう。
僕は靴を脱いで「お邪魔します」といい、彼女の部屋に上がり込んだ。
用意してくれたクッションに座って部屋の中を見回した。
割と綺麗な彼女の部屋は女の子らしさを感じる。
ふとベッドに視線が移るとあの日の夜のことを思い出す。
一つのベッドで咲希ちゃんと一緒に寝たのを、「……大好き」って言う彼女の寝言を聞いた。
きっとあれは夢の中で誰か好きな人へ向けて言った言葉なんだろうな。
「あまり見ないでね? 恥ずかしいから」
咲希ちゃんは照れ臭そうにそう言って二人分のジュースをコップに注いだ。
僕はそれをゆっくり飲み干して空になったコップを台の上に置く。
今日の彼女の様子はちょっと変だ、なんだか落ち着きがないし、チラッと僕の方を見てはすぐに視線を逸らす。
何か大事な用があるって僕を呼んだ割にはなかなか会話に入らない辺りなんか怪しい。
とりあえず彼女が自分から言い出すまで待ってみることに──二人の間には結構長い時間沈黙が続いた。
丁度十二時に差し掛かろうとする時、咲希ちゃんはいつになく真剣な表情をして僕の顔の前まで近づいた。
僕たちはお互いの吐く息が感じられるほど近い距離まで顔を近づける。
目のやり場に困った僕は咄嗟に彼女の顔から視線を逸らそうと首を横に流す。
「逸らさないで……。お願い、私の顔見てほしい」
両手で掴みこむように僕の顔を覆って自分の方へ向けさせてた。
咲希ちゃんの細い瞳が僕をまじまじと見つめていた。
「私の顔ってあんまり可愛くないかな?」
「えっ……? そんな事無いと思うけど」
「もっとはっきり言っていいんだよ? 自分の事は分かっているつもりだから」
二人は数秒間見つめ合う形になる。こんなに近くで咲希ちゃんの顔を見たことないや。
僕が好きだった彼女は昔と変わらない笑顔を見せてくれた、そうだ、僕は咲希ちゃんの笑顔が大好きだったんだ。
「ちょっと顔近すぎない? 」
僕は顔を離そうと体を引く──その瞬間、咲希ちゃんは僕をぐいっと引き寄せて二人は抱き合うような格好になる。
僕の膝の上にちょこんと座った彼女の体は思ったより小さかった。
咲希はすごく胸が高鳴っていた。張り裂けそうになるのを必死に抑えながら雅也の顔を見上げた。
困ったような表情は見せるものの突き放したりせずにそっと咲希の体を支えていた。
心臓の鼓動が早くなる、チクリと刺すような痛みに息が苦しくなる……。
見上げた視線の先にある二つの瞳は真っ直ぐと咲希を見つめていた。
「あのね、私、雅也君に聞いてほしいことがあります」
グッと手を握り勇気を振り絞って言葉を出す。
だけど、その後がなかなか続かない、目の前にいる人に自分の気持ちを伝えるのがこんなにも難しいなんて思いもしなかった。
「わ、私はー」
咲希ちゃんの髪が揺れるとシャンプーのふわりとした香りが鼻を突き抜けた。
ごくりとつばを飲み込み彼女の言葉を待つ。
「私は雅也君のことが好きです」
一瞬咲希ちゃんが何を言ったのか理解するのに時間がかかってしまった。僕は驚いた表情をかくさずに彼女に顔を向ける。
咲希ちゃんは今にも泣き出しそうな顔をして目には涙を溜めていた。
「えっ? 好きってそれってどう言う意味」
「言葉通りの意味だよ、私は雅也君が好き! ずっとこの気持ちをあなたに伝えたかったの。十年経ってやっと気がついた鈍感な私で良かったら雅也君の彼女にして下さい!」
僕は愕然とした。だってそうだろう? 咲希ちゃんが僕に告白するって言う展開なんて想像がつくわけない。
僕らは今までただの友人関係でそれは生涯変わることはないって思ってた。
それはこれから先もずっとそうだろうって僕自身も分かってたから。
それが咲希ちゃんが僕が好き? 冗談ならタチが悪いからやめてほしい……。
「な、何で? 好きって? それに何で今更……」
僕の中で終わったはずの初恋、失恋の手紙で叶うことがなかった最初の恋。
もう二度と私に話しかけないで!
僕の元に届いた手紙にはそう書かれていた。
──そのたった一言で人生で初めての告白は終わりを迎えた。
十年前のあの時に咲希ちゃんへの想いはもうピリオドを打ったはずなのに。
「どうして? どうしてなの」
今起こっている出来事を頭の中で整理するのに時間がかかる。
「好きなの……雅也君の事が」
咲希ちゃんはキスをしてしまいそうになるくらい顔を近づける、彼女の吐く息が感じられた。
流石に今の状況はまずいって思って体を逸らする為にむずむずと足を動かすと、今度は両手でガッチリと固められて本当に抱き合う形になる。
脈拍数が上がって胸がドキドキする。こんな状況になったら誰だって落ち着いてはいられないと思う。
僕は何とか寸前のところで理性を保っている。
外は冷たい風が吹いていて寒いはずなのに僕らはお互いの体温で暖めあっているから寒さを感じなかった。
咲希ちゃんはじっと僕の顔を見ている。長い時間密着してたせいかもうポカポカと暖かい。
「ごめん……。ちょっと今、混乱してるから」
僕はそういって咲希ちゃんを自分の体から引き離す。
「あのさ、本当にどうしたの? 何で好きだなんて……。それに告白の返事なら十年前に手紙で貰ったはずだよ」
「あの時の私は自分が恋愛をするなんてイメージ湧かなくてー。だから雅也君が私を好きだって伝えてくれた気持ちに応えられなかったの」
彼女はばつの悪そうな顔でそう言うともう一度体を重ねて来た。
「もしも私の気持ちが伝わってないのなら何度でも言います。私は雅也君の事が好きです。この想いに嘘偽りはないから」
咲希ちゃんは身につけているネックレスをぎゅっと握りしめる。
「それ、大切にしてくれてるんだね」
僕が彼女にプレゼントしたネックレス——その特別な意味を知っているのは僕だけ。
「もちろんだよ! このネックレスのおかげで私、本当の気持ちに気がつけたんだから」
「えっ……? それじゃあそのネックレスの意味を知ってるの」
「……うん、これを買ったお店の店員さんに聞いたの」
「そうだったんだ」
僕は咲希ちゃんに意味を聞かれたら教えてあげるつもりだったけど彼女は何も聞いてこなかったからてっきり興味がないものと思い込んでた。
元々は一緒に水族館に行く約束をするはずだった——でも、その約束は反故になって結局湊ちゃんと行く事になったんだっけ。
湊ちゃん……。僕は自分に告白してくれた後輩の女の子の事を考えた、彼女に返事をするって決めたのに。
咲希ちゃんの告白で揺らぐような軽い気持ちだったのか? 何度も頭の中で考えて応えを出したじゃないか。
だけれど僕の気持ちは水風船みたいにゆらゆらと漂っていた。
二人の女の子に告白されるなんて経験は今後一生ないだろう。
しかも一人は初恋の相手終わってしまったはずの恋が動き出そうとしていた。
「おっと!」
「きゃっ!」
咲希ちゃんが急に立ち上がろうとしたから僕はバランスを崩しつ床に倒れる。
そこに彼女の体が重なるこれはかなりまずい状況だ……。どういう状況かと言うと僕に咲希ちゃんが馬乗りになっている状態、しかも顔が近いから事故でキスでもしちゃいそうだ。
「ごめん! すぐに起きるからちょっと離れてもらえる」
「良いよ。このままで……。私、雅也君になら初めてを捧げてもいいから」
「えっ? ちょっと!」
僕が体を起こそうとする前に彼女から唇を奪われた。生まれて初めてのキスは味なんて無くて、ただ咲希ちゃんの柔らかい唇の感触を感じた。
僕達二人の心は溶け合って混じり合う。それはもう子どもじゃない大人の関係に変わっていくのがわかる。