二月十二日(月)
電車の中に流れているCMや広告で二月十四日のバレンタインデーを再認識する。
日本だと女性が意中の相手にチョコレートを贈る日なんだけど、正直社会人になるとあまり関係無いような気もする。
学生の頃はみんな女子からチョコを貰いたいからと髪型を整えたりしてオシャレをしていた。
僕はというとそんな事は気にしないで普段通りに過ごしていた。
去年は湊ちゃんが周りの人にチョコを配っているのを見た。もちろん僕も貰えたから彼女にしっかりとお返しもした。
そういえば貰うばっかりで誰かにあげるなんて今まで考えた事も無かったなあ。
今日仕事帰りにちょうどいい店に入って湊ちゃんへのバレンタインの贈り物を買おう。
そう決断した僕はつり革から手を離し品川駅で降りて階段を登り山手線のホームへと移動した。
駅のホームは相変わらずの混み具合で押されながら電車に乗り込んだ。
渋谷駅で降りてからはまっすぐ会社までの道を歩く。毎日同じルートを使っているんだけどそれが安定しているから仕方ない。
携帯で時刻を確認すると九時十五分——うちの会社は出勤は十時からだからまだ結構な余裕がある。あまり早く着きすぎても誰もいないデスクで一人ぽつんとしてるだけだしね。
そのまま携帯を左手に持ち替えてメールを打ち始める。僕は右利きだけどメールは左手の方が打ちやすい。
アドレス帳から湊ちゃんのメールアドレスを選んでメールを送信する。
今日は彼女と一緒にお昼を食べたい気分だから僕の方から誘おう。
送信してから五分も経たないうちに返信が来た。
『お昼一緒に食べるの楽しみにしています^ ^』
湊ちゃんからの返事を確認した僕は自然と頬が緩む。楽しい昼食になりそうだ。
僕は彼女との関係を続けていく、まだ迷っているのか? 早く告白に返事をしなくちゃいけないはずなのに。
二人の女の子に想いを伝えられた事——今までに経験のないできごとに僕は戸惑っていた。
いつまでも待ち続けると言ってくれた湊ちゃんの気持ちに応えたい。
初めてひとに好きだと言われた事、後輩のあの子はとてもいい子で一緒にいると安心するんだ。
ここ最近は彼女としょっちゅう同じ時間を過ごしていた。彼女の家で食事したあの日に告白された。
僕はすごく嬉しかった——とっくに終わってしまった「恋」をもう一度。
だけど、恋愛の神様はそんな僕に試練を用意していた。
【浅倉咲希】僕の初恋の人で、十年ぶりに会う機会が巡ってきた相手。
あの時の手紙で彼女への想いは終わってしまったはずなのに僕はいつまでもそれを忘れるというのができなかった。
再会しても昔みたいに友達として関係を築いていくだけ……。僕たちの仲はただそれだけなのに。
一夜を同じ部屋で過ごした事、僕に好きだと言った彼女の表情は真剣そのものだった。
どうして今頃になって? 咲希ちゃんならとっくに恋人ができて幸せな時間を送っているだろうになと思う。
振られたのを思い出すと胸が痛くなって苦しい……。
そうだ、彼女は十年前に僕を振った。色々悩んで書いた手紙で伝えた僕の気持ちは打ちのめされた。
だから、咲希ちゃんの好きだと言う言葉を信じられない。
真剣な想いだって何かの冗談だと思えてしまう。だってさ、彼女が僕を好きになる理由なんかないんだから。
確かに特別な贈り物は贈ったけれど、あれは元々一緒に水族館に行く約束を果たしてくれた時のお礼のつもりだったし。
まあ、結局彼女とは行かないで湊ちゃんと行ったんだけどね。
でもそのネックレスを寒空の下探し続けたこと、それで風邪をひいて看病してもらったんだっけ。
仮に咲希ちゃんが本気だとしても僕はまた彼女を好きになれるんだろうか?
閑話休題
昼休みになって僕は湊ちゃんと昼を食べる為に財布を持ち彼女のデスクへ向かう。
「篠宮さん、これからお昼一緒にどうかな?」
「はい! いいですよー」
湊ちゃんはデスク周りを整理して手提げを持って立ち上がる。僕は彼女が立ち上がるのを確認してからポケットの中に入れてある財布を触る。
今日は何を食べようかと考えていると湊ちゃんが僕の横にスッと入ってきた。
「実は今日、たまたまお弁当を二つ持ってきてるんです。良かったら雅也さんもどうですか?」
耳元でそう囁くと手提げの中を見せてくれた。綺麗に包まれた弁当箱が二つ入っている。
「うん。それじゃあ頂くね」
僕も湊ちゃんに囁くように応えて二人でどこか落ち着ける場所に移動した。
会社の廊下を歩いていると人目のつかないところで僕は湊ちゃんと手を繋いだ。
胸が高鳴ってドキドキした。隣にいる彼女に視線を向けると照れくさそうにはにかんだ笑顔を見せてくれる。
可愛い! 今すぐにでも抱きしめたいと思うけれど、流石に会社の中だから自重した。
離れた所にある休憩室は距離が遠いから普段あまり使われていない。
僕はドアに鍵がかかっていない事を確かめて中に入る。
部屋の電気をつけて椅子に座って寛ぐ。
湊ちゃんは手提げから弁当箱を取り出してテーブルの上に置いた。
「さあ、食べましょう」
僕たちは二人並んで座ると湊ちゃんは包みを解いて弁当箱を広げた。
「美味しそうだねー。これは湊ちゃんが作ったの?」
「はい、雅也さんのお口に合えばいいんですが……」
「食べてもいいかな?」
「はい、どうぞ」
差し出された箸を受け取っておかずの一つを摘む。
ハムが巻かれたウィンナーとアスパラにはマヨネーズがかけられていた。
ご飯は桜でんぶでピンク色に、花びらの形に切ってあるかまぼこは凄く良い感じ!
女の子の作る弁当ってこんなに可愛いものなんだなあ。
関心しながら一つ一つを口に入れてじっくり味わう。
「美味い! 湊ちゃんはやっぱり料理上手だね」
「そんな事ないですよ〜」
彼女は僕の言葉に嬉しそうに応えるとマイボトルからお茶を注いでくれた。
こうして湊ちゃんと食べる昼食の時間はあっという間に過ぎていった。
これからは頑張って弁当を作って来てくれるみたいだ。
明日も一緒に食べる約束をして僕たちは午後からの仕事に取り組んだ。
「お疲れ様でした」
定時に帰れるのは本当にありがたい。日本人は働きすぎだと思うからもっとのんびりとしていてもいいような気がする。家に帰ってからは自分の時間を十分に満喫するか。
僕は帰り支度を済ませて湊ちゃんに声をかけた。彼女と一緒に帰るのは最近の日課になりつつある。
会社を出てから僕らは事務的な会話をする。早く告白の返事をしなくちゃいけないと思うと、どうしても彼女への態度がぎこちなくなってしまう。
「あのさ湊ちゃん。告白の返事なんだけどー」
「迷っているうちは答えは出ないものですよ」
「えっ?」
「私、毎日雅也さんを見てますから分かりますよ。まだ迷っているんですよね?」
彼女の言う通り僕はまだ決心がついていなかった。僕の心は抜け道の無い迷宮に迷い込んだみたいだった。
この迷い道から抜け出すにはまだまだ時間がかかりそうだ。
かと言っていつまでも結論を先延ばしにしてちゃダメな気もする。
湊ちゃんを駅まで送った後、僕はバレンタインのプレゼントを買う為にアクセサリーショップへ入る。
店の中には女性客ばかり唯一の男性である自分は随分と場違いな気がした——店内の一番目立つ所に新発売の商品を宣伝する大きなポスターが貼られている。
そのポスターに目を奪われていると店員に話しかけられた。
事情を話して湊ちゃんへのオススメのプレゼントを聞いてみよう。
男性から女性へのバレンタインの贈り物は珍しいみたいで店員は真剣に僕のプレゼント選びに付き合ってくれた。
彼女には一体どんなプレゼントが見合うんだろうな。
女の子に贈り物をする機会があまり無いから選ぶのにも一苦労……。
咲希ちゃんにプレゼントしたネックレスも店員に勧められたものだし。
だけど、湊ちゃんへのプレゼントは僕が自分で選んだものをあげたい。
今の気持ちを素直に伝える事のできるものは——ふと、キラキラと神秘的な輝きを放つチャーム? を見つけた。
その混じり気のない自然な美しさに僕はすぐに引き込まれた。
手にとって見るとそこまで大きなものじゃないんだけど落ち着いた色合いでいかにも女の子が身につけていそうな感じがした。
「これにするか」
自分の直感を信じてみよう。綺麗なチャームを持ってレジに並ぶ。
湊ちゃん喜んでくれるといいなあ。
僕が彼女に贈る初めてのバレンタインのプレゼントは特別な日にふさわしい代物。
アクセサリーショップを出た僕は近くの店で一箱千円くらいするチョコレートを購入して家に帰る。
月曜の夜は静かに過ぎていく、二月はまだまだ冷え込みが厳しい時期だけどちょっとしたイベントが雅也の心をあったかくする。
二月十四日が訪れるのを楽しみに眠りについた。
丁度その頃、湊は初めての手作したバレンタインチョコをほおづえをついて眺めながら雅也への想いを再確認していた。
咲希はというと小学生の頃を思い出しながらバレンタインのプレゼントを準備していた。
冬の夜は長い、湊と咲希、それぞれの秘めた想いがたった一人のひとに届くように。一度しか無い「恋」はゆっくりとだけど始まりを告げる。