声のした方に振り返ると女の人と目が合う。
誰だろう? 僕はこの人を知らない。綺麗なショートヘアが風に揺られる。
僕よりも少しだけ背の低い女の人のまっすぐな瞳は周りを通り過ぎていく他の人たちへ向けられることがなく、自分の目の前にいる相手を捉えていた。
「何か用ですか?」
声をかけてきた相手にそう答えると彼女は爪先から頭の先までじっくり観察すると「ふーん」と小さな声で呟いた。
とても初対面の相手にするような行動じゃない……。僕が少しだけ身構えると女の人は距離を縮めてくる。
ふわりとした良いにおいが鼻先を通り抜けた──女の子ってどうしてこんなに良いにおいがするんだろう?
顔が近づいたからかなり緊張したけど女の人はとても綺麗で見惚れてしまいそうになる。
そんな僕の様子を観察しつつ彼女は腕を絡めてきた。抵抗しようとサッと腕をひいたけれど意外と強い力でガッチリと固められていた。
「ちょっとあなたとお話ししたいことがあるの」
耳元で囁くとまるで恋人にするかのように僕と腕を組んだまま歩き始める。
湊ちゃんと腕を組んで歩き機会なんてあまりないけど、他の女性とこういうことをするのは良くない……。
そう頭の中で反論しつつ、相手の子に連れられるように少しおしゃれな喫茶店へ入るのだった。
平成から令和に元号が変わって僕の周りに一体どんな出来事が起こるだろう? そんなことは当時の自分はまだ知るよしもなかった。
「初めまして。私の名前は久我山明日奈って言います」
「自己紹介どうも」
運ばれてきたコーヒーを一口啜る。こんなおしゃれなカフェに入るのは初めてだから何だか場違いようにも感じる──周りの人はノートパソコンを広げて仕事をしているサラリーマン風の男性やカジュアルな服を着ている女性とかがほとんどだった。
久我山さんと名乗る女性は注文したサンドイッチを食べながら僕の様子を窺っている。人から見られるのはあまり慣れてない……。
「それで、僕に一体何の用ですか?」
一向に会話を始めない彼女に痺れを切らして僕の方から声を発する。
数秒間黙った後、とんでもないことを聞かせることに。
「『浅倉咲希』って女の子を知ってるよね? 私、あの子の友達なんだ」
【浅倉咲希】
その名前を聞いて僕は久我山さんから視線を逸らした──彼女から見たら分かりやすい反応だっただろう。
「知ってるみたいね。最近あの子に会ってたりする?」
「……いえ」
僕と同い年だという彼女につい敬語で話してしまう。正直また咲希ちゃんの名前を聞かされるなんて思いもしていなかった。
湊ちゃんと付き合い始めてもうあの子のことを忘れようとしていた矢先、またあの時の出来事を思い出すなんてな……。
「私はそこまで頻繁に会うわけじゃないの。だけどあの子なんかいつも寂しそうな感じでほっとけなくてね」
「どうして今更僕にそんな事を言うんですか?」
「別に敬語じゃなくてもいいわよ。咲希が好きになった人に興味があってね、単なる私の好奇心と言って良いかしらね」
笑顔を見せる久我山さん──彼女はテレビに出てくる女優みたいに綺麗な顔をしているけれど、何となく掴み所のない女性だなって印象を持った。
「咲希とは大学からの付き合いなんだけどあの子は恋愛とかに全く興味を示さなかった。合コンを合コンをセッティングしてあげても乗り気じゃなくて今まで付き合った人はひとりもいないって言ってたわ。そんなあの子が今では恋愛に夢中になってるじゃない? だからすごく嬉しくてね」
久我山さんはカップに口をつけてコーヒーを啜る──ピンク色で綺麗な唇が艶々としていた。
おしゃれなカフェでは馴染みのないポップスが流れている、この空間にいるだけでも自分が特別な存在になる気がする。
「僕と咲希ちゃんとの関係はもう終わったから、確かに昔は僕の方が彼女に片思いしてて告白した事もあったけど、良い返事は貰えなかった……。これから先もう一度あの子を好きになるなんてありえない。それに僕には今付き合ってるひとがいるし」
「それでも咲希は諦めるつもりはないかもね。一度きりの『恋』だものね。そう簡単に割り切ることはできないんじゃない?」
「そういうものかな。まあ、十年以上前の失恋を引きずり続けていた僕には何も言えないんだろうけど。君がどう言うふうに考えているのかは知らないけど僕はもう咲希ちゃんと会うつもりもない」
「もう一度あなたに見て欲しくてあんな事をするなんてね……。正直に言えば私も驚いたわ」
久我山さんは僕と咲希ちゃんが体を重ねた事を知っていた。あの子がどういう気持ちでそんな行為に臨んだのか男の自分には理解するのは難しい。
咲希ちゃんの大学頃の思い出話に耳を傾けつつメニューを広げて料理を注文する。高校を卒業した後の彼女の事は僕は全く知らない。
興味が無いと言えば嘘になるけどそれでもあの子のことを思い出すだけで逃げ出してしまいたくなる。
「こうやって話してみてあなたがどういう人なのか少しはわかった気がする」
「本当に単なる好奇心だけで僕と話をしたの? 何か裏があるんじゃない?」
「仮にそうだとしても教えたりすると思う? どう思うかはキミ次第だよ。まあ、これから先また会うことがあるかもね」
久我山さんは立ち上がって自分の分の料理の代金を払って店を出ようとする。
「ちょっと待って」
僕は彼女を引き止めてテーブルに置いているケーキを急いで食べて立ち上がり二人分の会計を済ませる。
怪訝そうな顔でその様子を見ている彼女と一緒に店を出た。春でも少し肌寒さを感じる外は薄暗くなっていて。眩しいくらいの光がチカチカとアスファルトの道路を照らしていた。
「もう少しだけ話をしよう」
僕は彼女をいつも寄る公園に呼び止めてベンチに座る──
この公園に来るたびにあの時の事を思い出していた、雪の中で指先を真っ赤にしながら咲希ちゃんにプレゼントしたネックレスを探したこと、そして彼女はそれをちゃんと身につけていたというのを知った時はすごく嬉しかった。
異性にプレゼントを贈った経験なんて今までに一度もなかったし、第一にあの子の誕生日は七月だ。冬はとっくに季節遅れ。
湊ちゃんと咲希ちゃんが激しい争いをした場所、僕が夢で何度か見た光景でもあった。
あれから月日は経つけど僕と湊ちゃんは恋人としての関係を続けている。将来的には結婚をすることも考えている、今はその資金を貯める為に仕事をしているし、二人で暮らす予定の新居の話とかもし始めている。
自分に恋人ができてその人と結婚まで考えるようになるなんて昔の僕に聞かせたらどう言う顔をするだろうな。
ベンチに座る久我山さんの顔を近くで見る──彼女はとても綺麗な人だと思う。性格もさっぱりとしているし咲希ちゃんの良い子と友達になったもんだな。
今日始めて会ったはずなのに僕はどこか彼女に安心感を覚えてしまった。
「僕と会った事は咲希ちゃんに言うの?」
「ううん。言わない、今日あなたに声をかけたのは完全に私個人の興味からだよ。二人だけで会ったなんて咲希が聞いたら怒りそうだからね」
「まだ咲希ちゃんは僕のことを諦めていないのかな」
「そうね。最初から潔く身を引くつもりならこんな綱渡りみたいな恋をしてないんじゃないかしら。あの子なりに真剣に考えているみたいだし」
「けど、もう咲希ちゃんと僕が関わることはない。恋人を優先にしたいからさ、どうやったら諦めてくれるんだろうか? ちゃんと振ったはずなのに」
「恋に真っ直ぐなのは咲希らしいけどね。今までそう言うふうに思えるような相手に出会わなかったから。あなたはあの子にとって特別な存在ってことよ」
「例えそうだとしても僕は彼女の想いに応える事はできない」
「真面目ね、それでも私は友達の恋を応援するつもり。咲希があなたと結ばれてくれるなら良いと思ってる」
真剣な眼差しでそう言うと久我山ベンチから立ち上がる。僕は頭の中でどうすればいいのか思考を巡らせていた。
あのできごとから咲希ちゃんとは会ってない、けれども今でも連絡先が消せない情けない自分もいた。
これから先の事はまだわからないけれども湊ちゃんとのこれからを優先していきたいから片付けておかなくちゃいけない問題でもある。
まだ肌寒さを感じる東京の夜は変わらない日常と共に過ぎ去っていく。もう一度会うべきなのか? それとも──悩んだ末に導き出す答え、それを僕自身が決断するのにはもう少しだけ時間がかかりそうだ。