一月十四日(土)
いつもよりも早く目が覚める──今日は篠宮姉妹と一緒に水族館に行くことになってる。
昨日からソワソワとして眠れなかったから寝不足気味だ。まるで遠足に行く前の子どものように心が躍っていた。
枕元のデジタル時計は六時、地元で働いていた時は六時三十分起きだったし早起きするのが体にしみついてしまっている。東京に来てからはもう少し余裕を持って通勤できるようになったけど。
楽しんでもらえたら嬉しい、まだ待ち合わせにはかなり時間があるけど、家にいても特にやることはないし、そろそろ出てもいいだろう。
ちゃんと自分用のチケットをリュックに入れて忘れないようにしないとな。
これはデートって言ってもいいのかな? 家族以外とどこかに出かけるのはあまりした事がないし、義之君とはたまに色んな場所に行くけど最近では全然行けてない。
篠宮さんの妹はどんな子なんだろうか? きっと大人しくて素敵な子なんだろうな。
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい。あんた今日は夕ご飯はどうするの?」
「それまでには帰ってくると思うから家で食べるよ」
「あんまり遅くならないようにしなさいよ」
「わかってるよ。もう時間だから行くわ」
母さんや兄ちゃんには今日出かけることは前もって伝えてある。
忘れ物がないかを確かめて上着を羽織って家を出た。朝の早い時間だけどまだまだ寒いのは続く、待ち合わせ場所までゆっくりと歩く——早朝なのに人は結構多いように思えた。
都会と田舎ではこういうところが違いがある。田舎の場合はこの時間帯に活動している人が少ないし空いている店もコンビニか二十四時間営業の店ぐらいしかない。
どちらかと言うと慌ただしい雰囲気の方が僕には合っている気がする。
それでも最初こっちに来た時はいろいろと苦労もしたけど……それでも今は充実した毎日を過ごせている。
色んな人を観察しながら歩くのも実は結構面白いんだ。
篠宮さんとの待ち合わせの前に携帯で時刻を確認する──九時前かちょうどいい。
そろそろ腕時計を買ってもいいんだろうけど、ああいうのは僕には絶対に似合わないと思うんだよね。
それに携帯の時計は補正機能が付いているから正確だし。
「ごめん。待たせたかな?」
「いえ、そんなことはないですよ。私もついさっき来たばかりですから」
「おはようございます! 今日はよろしくお願いしますね~」
彼女の横からひょいっと顔を出した女の子が出てきた。
「夏帆! ちゃんとあいさつをしなさい!」
「初めまして私、
その子は目元とかお姉さんに似てる気がするけど、なんかイメージしていた子とは正反対の明るくて活発的な子だなという印象を持った。姉妹でこうも性格が違うことってあるんだろうか?
「新堂と言います。よろしく」
「ふーん」
妹さんは僕の恰好や顔を何度も見返している。あまりジロジロと見られるのは好きじゃない。
「悪くないんじゃない? お姉ちゃんにはもったいないくらいかも」
「夏帆!」
「どうかしたのかな?」
「いえ、何でもないですよー」
「それじゃあ、行きましょうか」
二人と一緒に水族館に向かうことに──今日は楽しい一日になりそうだ、女の子と出かけたことがない僕は緊張していた。
「やっぱり結構人いますね……」
「人気の場所だからね、仕方ないことなのかな?」
開園前の水族館にはたくさんの人が並んでいて係の人が列の整理をしている、僕らも並んで開園するのを待つことにした。
「水族館なんて今まで一度も来たことがないから今日はすごく新鮮に感じるよ」
「ふたりともお腹空いてない? 何か欲しいものとかあれば買ってくるけど、どうかな」
「そうですねー。でも、水族館の中にも食事できるスペースがあるみたいなんでそこで食べれば問題ないと思います」
「私は新堂さんとお話ししていたいです!」
夏帆ちゃんはそう言うと腕に自分の腕を絡めてきた。
「夏帆、何やってるのよ!」
「いいじゃん別に~ねー。新堂さん」
「う、うん……」
だけど、高校生とは思えないほど大きい胸が当たってるんだよなあ。
気がついてやっているのかわざとなのかはわからないけど何だかドキドキしてしまう。
「もしかして新堂さんこういうことに慣れてないんですか?」
「えっ……こういうことって何かな?」
「それはですね~うふふ、こういうことですよ」
そう言うと自分の胸を僕に密着させてくる。さすがにこれは刺激が強すぎるだろ!
「こら! いいかげんにしなさい!」
篠宮さんが夏帆ちゃんの頭をポコんと叩いて僕から彼女を引きはがした。
「ごめんなさい新堂さん。夏帆ってば、はしゃいじゃって迷惑だったでしょう?」
「あははは、元気な子でいいと思ったよ」
至福の時から解放されて少し残念な気もするけどそれを気づかれないよう普段みたいに振舞った。
「すごく綺麗ー」
開園した水族館に入ってから魚を見て回る。思った以上に凝った演出──プラネタリウムと水族館の融合というアピールポイントは嘘じゃないみたいだ。
独特な雰囲気がすごく神秘的でまるで深海の中にいるような感じだ。
普段見たこともない海の生物の不思議さにすっかり魅了される。
隣で見ていている篠宮さんの自然な表情につい見とれてしまった、彼女と目が合ったけど照れくさくてすぐに逸らしてしまう。
「さすがに人気なだけはあるよね、いい感じだよ」
つい沈黙に耐えられずに話しかけた。
「そうですね、私もとってもいいなぁって思ってます」
「篠宮さんは魚とかには詳しかったりするの?」
「別にそこまでは──」
「僕もあまり詳しくないんだよね。一般的な魚とかは名前くらいは知ってるくらいだし、来る前にちゃんと知識つけてくればよかったかなあ」
「見ているだけでも十分に楽しいと思いますよ。夏帆は色々見たいって言って先に行っちゃいましたし」
「子どもの頃とかは動物とかが出てくるテレビ番組を見てたりしたことがあるからわかる魚はいるとおもんだけどね、どちらかと言えば星空を見たりするほうが好きなんだ」
「そうなんですか?」
「うん。田舎に住んでたからね、夜はよく星空を見上げていたから星座には結構詳しいんだ」
「意外ですね」
「向こうはこっちみたいに遊べる場所とかが少なかったからねー自然とそういうことばかりに目が行っちゃっうんだよ」
「私も星座に関する物語読んだりするの好きでした!」
「なんか神秘的だよねー。いい話ばかりじゃないんだけど色々と考えながら楽しんだりしてさ」
「わかります!」
水槽で泳いでいる魚を眺めながら子どもの頃見た星の話を始める。
そういえば、今の状況的ってふたりっきりってことか。
隣で夢中に魚を見ている彼女の長くてきれいな髪がふわりと揺れた──篠宮さんって改めて見ると本当にかわいい後輩だなあ。
こんな子とこうして一緒に水族館に来ていることがなんだか夢みたいに思える。
仕事の時には見せない仕草どこか新鮮でずっと眺めていたくなる。
「どうかしたんですか? さっきから私のことずっと見てますよね?」
「ああいや、気に障ったのなら謝るよ。篠宮さんがすごく綺麗に思えてつい見ちゃうんだよね」
「ええっ!? 綺麗って、私がですか?」
僕の言葉に彼女は顔を赤くして俯いてしまう──お互いしばらく会話をせずに何だか気まずい雰囲気が漂っていた。
「新堂さんっ!」
「どうしたの? 妹さん」
「夏帆でいいですよー私と向こうで一緒に見ませんか?」
「僕が一緒でもいいの?」
「はい。私も新堂さんとお話ししたいなって思ってたので。ねえお姉ちゃん新堂さん少しだけ借りてもいい?」
「夏帆、新堂さんに迷惑かけないようにね」
「篠宮さん、一人でも大丈夫?」
「はい、私ももう少し見ていたいので。戻ってくる時は夏帆に連絡させます」
「じゃあ行きましょう! 新堂さん」
「あ、うん」
夏帆ちゃんに引っ張られて別の場所に移動する。篠宮さんは笑顔で手を振っていたけどなんか笑顔が固い気がした。
「見て見て! 新堂さん! これすごいロマンチックだよねー」
夏帆ちゃんに強引に連れて来られた水槽には人だかりできていた。どうやらこの水族館で一番人気の場所みたいだ。
「そうだね。これは中身がどうなっているのか気になるよ」
「星と海を合わせることなんて思いつくことじゃないですよね。それがなんだかとても神秘的で」
「楽しんでもらえているのなら連れてきた甲斐があったよ」
はしゃぐ夏帆ちゃんを見ていると、とても優しい気持ちになる、もしも僕に妹がいたらあんな感じなんだろうか?
「私、新堂さんに聞きたいことがあるんです」
そう言って足を止めてこっちに向き直った。
「新堂さんって彼女はいたりするんですか?」
「えっ……? どうしてそんなことを聞くの」
「答えてください! どうなんですか?」
「いないよ」
「本当ですか? それじゃあ好きな人とかもいないんですか?」
「今のところはね」
(それじゃあ、お姉ちゃんにもチャンスあるじゃない!)
小さな声で何かをつぶやいているみたいだけどなんて言っているのかは聞き取れない。
「私、お姉ちゃん呼びますね」
携帯でお姉さんに連絡を入れる夏帆ちゃん。合流して僕たちは三人で水族館を回ることにした。
「夏帆、新堂さんに迷惑かけなかった?」
「大丈夫だよ。それよりこれ見てよーすごい綺麗でしょう?」
「本当だ! これが夏帆が来たいって言ってた場所なの?」
「そうそう、私これを見るために来たって言っても間違いないよ」
同じ場所を見ても姉妹でまったく違った反応をしているのがなんだか面白い。
その後は水族館の中にあるレストランで昼食を取って少しだけ休憩中。
「篠宮さんは楽しんでる?」
「は、はい……」
「夏帆ちゃんは元気だよね」
「実はあの子結構人見知りするんですよ。私の友達が家に来た時はあんまり姿を見せないんです」
「それは意外だね」
「初対面の新堂さんにあれだけ懐いているっていうのも珍しい」
「あのさ──」
「はい?」
「いや、何でもないよ。だけど、人気の水族館って話は本当だよね今日は来てよかったと思っているよ」
「そう言えば夏帆ちゃんいないよね? どこに行ったのかな」
「夏帆ならもう少し水族館の中を見て回りたいって言ってましたよ。もう、また自分勝手に行動して」
「戻ってきたらまた三人で見て回ろうよ。それまでは君と一緒にいるからさ」
「ごめんなさい……気を遣わせちゃって」
「気にしないでいいよ。今日水族館に連れてきたのは僕なんだから目一杯楽しんでほしいからね」
「新堂さんはどうなんですか? 楽しんでくれてますか?」
「うん、すごく楽しいよ。でも、実を言うとね、こういう風に女の子と出かけるのは初めてなんだ」
「えっ……?」
「女の子と一緒に出かけるなんてことはしたことがなかったから朝から緊張してたけど今は落ち着いているよ」
「こういうことは初めてなんですね……」
「友達はいるんだけど男の友達なんだ、彼とはよく飲みに行ったりするんだよね。小学校からの同級生でこっちに来てからもずっと仲良くしてるんだ」
「こっち?」
「ああ、言ってなかったっけ? 僕は九州出身なんだ。兄が先に働いていてねそれで母さんと一緒に上京して来たんだ」
「九州ってどういうところなんですか?」
「僕が住んでいるところは田舎で車が無いと買い物に行くのも不便なくらいだった。本当に都会に越してきてよかったと思うよ。もうね、便利さも違うし色々な店があって面白いし」
「生まれたところ嫌いなんですか?」
「そうだね。あまり好きじゃないよ……。子どもの頃はあまりいい思い出がなくてね」
嫌な気分になるけど昔のことを思い出した。
うちの両親は僕が生まれた後に離婚した。その後、母さんは実家に戻って生活を始めた。
今思うと女ひとり親で二人の子どもを育てるってことはとても難しいことだとわかる。
新堂家の長女で下に妹ばかりの姉妹がいるんだけど、この人たちがまた面倒くさい人らだった。
中学生になるまでは実家で暮らしていたからそういうひとたちに会う機会が多かった。
近くに住んでいた母さんの妹は結構な頻度で来てたし本人がいないところで姉の悪口などをいい、自分の子どもがいかに僕や兄ちゃんよりも優れていることを自慢していた。
その旦那もおっかないおじさんという感じで家に来るたびに説教じみた事を言い、無理矢理に勉強をさせようとする。
そういうのが嫌で僕はその人が来る前に宿題を終わらせずっとゲームをしていた。
息子の方もあまり態度がいいとは言えず、年下なのに呼び捨てにしたり──まあ、子どもの頃だからそういうことは気にしちゃいけないんだろうけど……。
正直、あの人らの事を思いだすと嫌な記憶ばかりだ。子どもの頃に楽しいことなんて一つもなかった。
曾祖母が亡くなった辺りから母さんは従妹や親戚達と縁を切った。
大人になってから話を聞いたけど結局は曾祖母がいたから皆、実家に集まっていただけどそれ以外では関わり合いにならないようにしていただけだと。
正直そうなってくれたのはありがたかった。あの人らの顔を見ないで済むと思うと清々する。
「でも、今はすごく楽しいよ。本当に都会は何もかもが違うんだ」
この新しい場所でこれからもずっと生きていこうと思う。もう、向こうに戻るのなんてごめんだ。
「それじゃあ、もう少し見て回ろうか?」
「はい」
周りにカップルも多かったけどそんなことは気にしないで彼女との時間を楽しもう。
「今日はすごく楽しかったです! ありがとうございました」
アクアリウムパークを出て篠宮姉妹を家まで送ることに。夏帆ちゃんは止まることがなくて、一日中はしゃいでいた。そんな様子を篠宮さんと一緒に眺めつつゆったりと時間を過ごした。
館内で食べた食事も美味しかったし神秘的な雰囲気がまた足を運びたくなるようなそんな場所だった。
「夏帆ちゃんは今日はすごく楽しんでいたね」
「はい! 今ままで来た場所で一番楽しかったかもしれません」
「もう、夏帆は大げさなんだから」
「お姉ちゃんだって新堂さんとふたりっきりで回れてよかったね」
「夏帆!」
夏帆ちゃんの言葉に顔を真っ赤にして俯く篠宮さん。僕だって彼女と一緒に水族館に来れたのはすごく楽しかったし今日は本当に充実した一日になった気がする。
「またこうやって一緒にでかけたいですねー」
「そうだね、今度は行く場所をみんなで選びたいよ」
「じゃあ今度は私に選ばせてください」
「夏帆ちゃんが選ぶ場所かあ、体力がいりそうだよ」
「そんなことないと思いますよ」
「篠宮さんも今日は本当にありがとうね。僕も久しぶりにすごく楽しかった」
「私もです……楽しかったです」
「また来たくなるよね、あの水族館。人気な理由がわかったよ」
「今度がお姉ちゃんがチケット取らないとね」
「も、もう、前の事はもう言わないでよ……」
「それじゃあ。私たちはここで」
「うん、それじゃあ」
駅で二人を見送って家に帰るために人込みを歩く──
「──今日は楽しかったなあ」
誰かと遊びに行くことがこんなに楽しいことだったなんて。デートっていうのにはまだまだ雰囲気が足りない気もするけど篠宮姉妹が喜んでくれたから僕もうれしい気持ちになれた。
もしも──咲希ちゃんと一緒に水族館に行っていたらどうなっていたんだろう?
本当に誘う相手だった彼女と水族館に行ったらもっと楽しかったんだろうか? もう一つのあったかもしれない世界を思い浮かべた。
二人で歩きながら魚に関する知識を話す。
僕の話を真剣に聞いてくれる咲希ちゃんに得意げになって話す、知識があまりない事を知られないようにするために本で勉強をする、そんなこともあり得たんだろう。
だけど、これは来なかったもう一つ可能性──あの時の電話に彼女が出なかった時点で破綻してしまった未来。
現実はいつだって一つの選択肢しか選べない、巻き戻る事も振り返る事もできない事象の中を生きていくしかないんだ。
AfterもIfもあり得ないこのつまらない世界で自分のために前に進んでいかなくちゃいけない。
これからは新しい「恋」を見つけよう。
一番大切だと思えるひとに出会えるといいんだけどね。
オレンジ色に染まった空は今日も変わらない色だ。いつもよりもゆっくりとした足取りで家に向かう。
そろそろ母さんが夕飯を準備している頃。
家に帰り着いてからの僕は今日の事をいつまでも忘れないようにするために携帯で撮った写真を眺めた。
今日はどうやら眠れそうにない。ベッドの中で毛布を被ってゆっくりと目を閉じた、ゆらゆらと揺れ動くまどろみに身を任せてみよう。
いい眠りになるといいんだけどね、またあの夢を見ることができるんだろうか?
あれ以来まともに夢なんて見ていないけど、いや、もしかしたら見ているのかもしれないけど、内容を覚えてないだけかもしれない。ぼんやりとしか覚えてないあの夢の事が気になるなあ。
僕の心の中である一つの感情が芽生え始めていた。それはまるでこれから起こる出来事を前もって知らせているようだった。