胎間忍 作:内府
秀吉の猿真似を茶々達が笑っている。
この場の空気を秀吉が掴んで、彼女達の機嫌を見事に取ったことは人たらしの真髄を見せたといえるが彼を嫌う者からすればおべっか使いにしか見えなかった。
侍女はこの場の空気に流されそうになるが、長政からの命を忘れなかった。
侍女「秀吉殿、おふざけをおやめください。長政様からのお言葉です。義兄上にお会いしたいとのことです。」
侍女の言葉に秀吉は猿真似をぴたりと止めた。
長政のいう義兄とは秀吉の主信長のことである。
秀吉「長政殿は降伏されるのか?」
侍女「いえ、ただ二人きりでお話がしたい、とだけしか承っておりません。」
秀吉「二人きりですか。」
侍女「ええ、二人きりです。」
長政の考えていることが秀吉は読めない。
長政が降伏をしようとしているのか、伏兵を用意しているのか、はたまた別の目的があるのか予想がつかない。
侍女から情報を聞き出そうとしても同じ事しか答えない。
秀吉はこのまま黙殺することも考えたが、お市が城に残っていたので結局は信長の判断を仰ぐことにした。
秀吉は長政の申し出とお市の娘達を保護したことを伝えるために信長の本陣へ伝令を送った。
それと同時に配下へ矢止めを命じ相手側の出方を窺った。
浅井の将兵も織田軍が攻撃を止めるのに合わせて同じく攻撃を止めた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように収まり、戦場が静寂に包まれた。
両軍は互いに相手の動きに注視している。
その静寂の中、山の下から騎馬が駈け上がってくる音が聞こえる。
現れたのは信長でそして
彼一人である。
秀吉をはじめ彼の配下は腰を抜かした。
秀吉「お、お、お舘様!お一人で参られたのですか?お供の方は?」
信長「サル」
秀吉「ははっ!」
信長「うぬらがおる。大儀であった。」
秀吉「お舘様ァ…勿体ないお言葉です。」
秀吉をはじめ彼の配下の多くが信長の労いに涙ぐんでいた。
信長は冷酷な合理主義者とされている。
弟を殺し、比叡山延暦寺を焼き討ちし、自らが擁立した将軍を追放した。
その一方で信長には大きな慈愛の心を持っていた。
津島の老人達が彼の前で芸を見せた時には老人達に親しく声を掛け茶を配り、信長自ら彼らを扇であおいでやった。
これ以外にも比叡山延暦寺の焼き討ちの際には信長の古参の重臣であった森可成を弔った寺が焼き討ちを免れている。
特に信長は自分に対して尽くした家臣には深く報い、
本圀寺の変や金ヶ崎の退き口で奮戦した明智光秀、美濃攻略から姉川まで幅広い活躍をした木下秀吉といった者を重用し手厚く報いた。
信長「サル、長政の奴を呼び出せ。」
秀吉「ははっ!」
秀吉は、信長が長政に会うために京極丸まで来ていることを投げ文で伝えると、京極丸と本丸を隔てる堀の両側に立って信長と会いたいと返書された。
秀吉は返書を信長に見せると、信長はすぐに会おうと言って堀に向かってしまった。
秀吉は彼の主を諫めようかと思ったがそれを聞く主ではないと思い、不測の事態に備え主にも敵にも秘密裏に護衛の兵を潜ませた。
本丸と京極丸を隔てる空堀の本丸側に長政は立っていた。
凜子の計略の準備をやり遂げこうして信長と会うのを待っていた。
長政が心配しているのはアサギ達が無事に脱出することと、お市を彼女の兄の元に返すことと、響子に託した娘達のことであった。
長政は凜子から説明を聞き、防衛戦の軍議に行く前にアサギ達にえもいわれぬ夜伽の礼を述べ、それぞれの腹の子の後事を託した。
長政「さらばしゃ、胎間忍。もう会うこともあるまい。」
これがアサギ達が耳にした長政の最後の言葉であった。
アサギ達は既に脱出のために各所で息を潜めて織田軍の隙を窺っていた。
アサギは自分が選抜したくノ一達の腕を信じ集合場所だけを決めて脱出の方法や時期などはそれぞれに委ねた。
アサギ達5人は互いに信頼しあっていた。
それぞれが物陰や土中等に隠れていても誰かが動けば互いに同時に助け合うことができた。
ただし、アサギはムラサキが自分の事が好きで犯したいと思っていることにはまだ気づいていない。
その事に気づくのはまだ先のことであった。
京極丸側に織田信長が現れた。
長政は自分が申し出た事とはいえ本当に一人でやってきた信長の行動力と胆力に苦笑した。
信長「久しいな、長政。ここまで来てやったぞ。」
長政「お久しぶりです。義兄上。お元気そうで何より。」
信長「よく言うわ。それよりなにゆえ儂を、ここに呼んだのだ?」
長政「最期に義兄上の顔が見たかっただけではいけませんか。」
信長「何じゃそんなことか。だが儂はお主に尋ねたいことがある。」
長政「なんでしょう?」
信長「なにゆえ儂を、裏切った?こういう場でなければなかなか尋ねられまい。」
長政はしばらくの沈黙の後口を開いた。
長政「義兄上の隣にいたかった、それだけです。私は父から家督を奪い長年浅井家を支配していた六角から独立しました。私は誰かの下にいたくなかった。義兄上が無断で朝倉を攻めた時に我らをないがしろにしたと思い行動を起こしました。共に朝倉を攻めよと仰るなら家臣が従わず私一人だけでも朝倉を攻めたことでしょう。」
朝倉を無断で攻めたのは長政が浅井家家臣と織田家の板挟みにならぬための信長なりの配慮であったが、このことを信長は一切弁明しなかった。
また、浅井家の裏切りにより多くの家臣を信長は失っていたが長政を責めることもしなかった。
信長「であるか。」
長政「最後に一つお願いがございます。一人会わせたいものがおります。」
長政が約を違えてもう一人会わせろと聞こえたので秀吉と彼が用意した護衛が信長を守るために飛び出ようとする。
信長「騒ぐな!控えておれ。」
信長が秀吉達を一喝して騒ぎは収まった。
長政はお市を呼び寄せ、自分の隣に立たせた。
信長「息災か?市よ。」
お市「はい、兄上もお変わりなく。」
信長「此方には戻ってこぬのか?」
お市「はい、私は彼岸まで長政様と共に行きます。長政様もそのおつもりです。」
長政様は黙ったままである。
このことにお市は急に不足になった。
お市「…長政様?」
お市が長政にどうなっているのか尋ねようとすると、長政が突然お市を突き飛ばした。
お市は悲鳴を上げながら坂を転げ落ちた。
その声を聞いて秀吉達が信長の前で盾となり、堀の下に落ちたお市を救出するために坂を駆け下りた。
お市「長政様!長政様!これはどういことですか?彼岸まで共にと言われたではありませんか!」
長政「儂は一度も共にとは申しておらん。ただ先に逝くとしか言っておらぬ。お主は後からゆっくり参れ。」
そう言うと長政は本丸へと戻っていく。
お市は長政の姿が見えなくなっても狂ったように泣きながら長政に呼びかけるが、長政がそれに応えることはなかった。
信長は護衛されながら京極丸に戻った。
すぐさま秀吉が安否を確かめに来た。
秀吉「お舘様、ご無事ですか?お怪我は?」
信長「サルよ。」
秀吉「ははっ。」
信長「このうつけめ。うぬの考えが分からぬものとおもったか。余計なことをしおって。」
信長は秀吉の頭をはたいた。
秀吉はいたずら小僧が親に叱られているように感じた。
勝手に行動した秀吉を叱る信長であったが実際はこうした自発的な行動は彼の好むものであった。
結果としてお市が返されたが、これだけのために長政がこのような申し入れをするのか信長はかすかに疑問に思ったが、本丸への攻撃が始まりそちらに集中した。